第73話 掟のない夜
霧鳴温泉──
地図に名前はあるが、ネットのレビューには一件もない。検索しても公式サイトすらヒットしない。
それでも、ひなたはその宿に“募集要項”が掲載されていたことを覚えている。
「高校生歓迎」「一泊二日でもOK」「短期リゾートバイト」──妙に条件が緩くて、逆に怪しかった。だが理久は何も言わず了承した。
こうして、二人は春休みを利用して“少し変わった”リゾートバイトに応募したのだった。
初日。夜の当番が終わった後の廊下は、ひんやりとした湿気が漂っていた。
「うーん……やっぱ、変な宿だよねここ」
ひなたは小声でつぶやいた。
理久は手を拭きながら、壁に立てかけたモップを片付ける。
「変っていうか……妙に“静かすぎる”な。宿泊者が一人もいないのに営業してる時点で怪しい」
実際、今日一日働いてみても、見かけた客はゼロ。出入りの業者や荷物の受け取りもなかった。
「でもさ、あの羽木あやちゃんって子、地元の子でしょ? 何か知ってそうじゃない?」
理久は一瞬目を細めた。
「……お前、話しかけたのか?」
「うん。昼の休憩のときに少しだけ。妙にこっち見てたから……」
「何か言ってた?」
「“喋りすぎないほうがいい”って言われた」
「それ、バイト初日に言うセリフか?」
ひなたは肩をすくめたが、その言葉の“質”にひっかかっていた。
まるで、内容ではなく“行為”そのものを制限されているような──
「ねぇ理久、この宿ってさ、“喋ること”自体に何かあるんじゃない?」
「……可能性はあるな。土地ごとの禁忌構造は、外部者への接触を遮断することで保たれてきた」
理久の声が、どこか“口にしてはいけないこと”を触れたような静けさを帯びる。
そのとき、ふと廊下の奥、納戸の前に立っている影があった。
それは、羽木あやだった。ひなたをまっすぐ見ている。
「あの……さっき、話してくれたよね」
「うん、あやちゃん。どうしたの?」
「──本当はね、この宿で話していいのって、“いくつかの言葉”だけなんだ」
「え?」
「でも、もう遅いかも。誰かと“この話をした”時点で……始まるんだって」
ひなたは一瞬、意味が理解できなかった。
「え、それって……どういう──」
「あのね、今夜、寝る前に“階段の裏”を見ないで」
あやはそれだけ言い残して、ぱたぱたと走り去った。
夜。二人は与えられた部屋に戻る。
畳の上に敷かれた布団、薄い襖の仕切り。窓の外は真っ暗で、山の冷気がにじみ出るように染み込んでくる。
「なぁ……“階段の裏”って、さっき通ったあそこだよな」
「うん……さっき何か気配あった気がするんだよね」
ひなたが言いかけたそのとき──
ふすまの隙間から、小さな音が聞こえた。
カリ……カリ……カリ……
まるで爪で柱をなぞるような、乾いた音。
「理久……聞こえる?」
「……聞こえる」
二人は同時に目を合わせた。
理久がふすまを開けた瞬間、その音はピタリと止まる。
「誰も……いない、な」
ただ、ふすまの向こう、廊下の奥の影が、ほんの一瞬“屈んだ”ように見えた。
「なぁ、ひなた」
「なに?」
「今日の話、明日は誰にもすんなよ」
「……うん」
ひなたは、自分が口にした会話のひとつひとつが、“なにかの起動スイッチ”だったのではないかという不安に満たされていた。
その夜、夢の中で誰かに呼ばれた気がした。
「──あの部屋のこと……まだ、話してないよね?」
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