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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第5章 忘却奇譚 ―語るな、語らせるな―

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第73話 掟のない夜

 霧鳴温泉きりなきおんせん──

 地図に名前はあるが、ネットのレビューには一件もない。検索しても公式サイトすらヒットしない。

 それでも、ひなたはその宿に“募集要項”が掲載されていたことを覚えている。

 「高校生歓迎」「一泊二日でもOK」「短期リゾートバイト」──妙に条件が緩くて、逆に怪しかった。だが理久は何も言わず了承した。


 こうして、二人は春休みを利用して“少し変わった”リゾートバイトに応募したのだった。

 

 初日。夜の当番が終わった後の廊下は、ひんやりとした湿気が漂っていた。


「うーん……やっぱ、変な宿だよねここ」


 ひなたは小声でつぶやいた。


 理久は手を拭きながら、壁に立てかけたモップを片付ける。


「変っていうか……妙に“静かすぎる”な。宿泊者が一人もいないのに営業してる時点で怪しい」


 実際、今日一日働いてみても、見かけた客はゼロ。出入りの業者や荷物の受け取りもなかった。


「でもさ、あの羽木あやちゃんって子、地元の子でしょ? 何か知ってそうじゃない?」


 理久は一瞬目を細めた。


「……お前、話しかけたのか?」


「うん。昼の休憩のときに少しだけ。妙にこっち見てたから……」


「何か言ってた?」


「“喋りすぎないほうがいい”って言われた」


「それ、バイト初日に言うセリフか?」


 ひなたは肩をすくめたが、その言葉の“質”にひっかかっていた。

 まるで、内容ではなく“行為”そのものを制限されているような──


「ねぇ理久、この宿ってさ、“喋ること”自体に何かあるんじゃない?」


「……可能性はあるな。土地ごとの禁忌構造は、外部者への接触を遮断することで保たれてきた」


 理久の声が、どこか“口にしてはいけないこと”を触れたような静けさを帯びる。

 そのとき、ふと廊下の奥、納戸の前に立っている影があった。


 それは、羽木あやだった。ひなたをまっすぐ見ている。


「あの……さっき、話してくれたよね」


「うん、あやちゃん。どうしたの?」


「──本当はね、この宿で話していいのって、“いくつかの言葉”だけなんだ」


「え?」


「でも、もう遅いかも。誰かと“この話をした”時点で……始まるんだって」


 ひなたは一瞬、意味が理解できなかった。


「え、それって……どういう──」


「あのね、今夜、寝る前に“階段の裏”を見ないで」


 あやはそれだけ言い残して、ぱたぱたと走り去った。

 

 夜。二人は与えられた部屋に戻る。


 畳の上に敷かれた布団、薄い襖の仕切り。窓の外は真っ暗で、山の冷気がにじみ出るように染み込んでくる。


「なぁ……“階段の裏”って、さっき通ったあそこだよな」


「うん……さっき何か気配あった気がするんだよね」


 ひなたが言いかけたそのとき──


 ふすまの隙間から、小さな音が聞こえた。


 カリ……カリ……カリ……


 まるで爪で柱をなぞるような、乾いた音。


「理久……聞こえる?」


「……聞こえる」


 二人は同時に目を合わせた。


 理久がふすまを開けた瞬間、その音はピタリと止まる。


「誰も……いない、な」


 ただ、ふすまの向こう、廊下の奥の影が、ほんの一瞬“屈んだ”ように見えた。


「なぁ、ひなた」


「なに?」


「今日の話、明日は誰にもすんなよ」


「……うん」


 ひなたは、自分が口にした会話のひとつひとつが、“なにかの起動スイッチ”だったのではないかという不安に満たされていた。

 

 その夜、夢の中で誰かに呼ばれた気がした。


「──あの部屋のこと……まだ、話してないよね?」


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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