第62話 応答者不明
放課後、昇降口に差し込む夕日が、靴箱の影を長く伸ばしていた。
朝倉ひなたは、掲示板の前で立ち止まり、目を細める。
そこには確かにあったはずの転入生の案内用紙が、何事もなかったかのように消えていた。日付も名前もない。
掲示板は、古びた行事予定表と、風紀委員の注意喚起だけを貼りつけたまま、沈黙を守っている。
「……見間違い、じゃないよね?」
思わず呟いた声も、空虚に消える。
そのとき、背後から声がした。
「なあ、朝倉」
振り返ると、理久が立っていた。手には、いつものように図書室から借りた分厚い本を抱えている。だがその目は、どこか張りつめたように細められていた。
「お前、今朝あのメモを見たよな」
「うん。“名前を呼ばないで”ってやつ」
「……俺、あれ見た記憶、もう薄れてきてる。内容すら、正確には言えなくなってる」
ひなたは言葉を失った。まさか、あの文字さえも消えていくのか。記録が、記憶すら追い越して崩れていく。
「でも、スマホの録音はまだ残ってるよ。昨日の夜の。聞いてみて」
そう言って、ひなたは端末を操作し、該当ファイルを再生した。
『……わたしのこと、忘れないで……』
再生が終わった瞬間、理久が眉をひそめた。
「……音声データ、これおかしいな」
「え?」
「波形がノイズだけで構成されてる。音声ファイルなのに、解析すると“無音”と判定される。なのに、俺たちの耳には“声”として届いてる」
「それって……つまり?」
「物理的な音じゃない。おそらく、意味構造そのものに感染してる。声じゃなく、“思考として聞こえてる”」
ひなたは息を呑んだ。
「じゃあ、誰かにその録音を送ったら……」
「その人の中にも、同じように“声”が届く可能性がある」
静かな教室に、ふたりの間だけに流れる緊張。
記録されない存在が、記憶を媒介に広がっていく。誰にも知られず、誰にも語られず、けれど確かに“いる”。
「……あのさ、理久。ひとつ思い出したことがあるの」
「なんだ?」
「一昨日の帰り道。駅のホームで、知らない子に声かけられた気がするの。ほんの一瞬。制服着てたけど、見覚えがなかった。でも……なんか、“ぽつん”と立ってたの」
「話しかけられた?」
「ううん。目が合っただけ。でも、その瞬間、なぜか涙が出そうになったの。意味もなく」
理久は本を閉じた。表紙の文字がきらりと光った。『言語記憶の消去性と集合認識の臨界点』。
「それ、たぶんもう“見て”しまってる」
「え?」
「この現象が“ロスト・コール”だとすれば、接触のトリガーは“視認”か“応答”のどちらか。つまり──」
「見た時点で、もう始まってるってこと……?」
「可能性は高い。音声は記録されない。名前は残らない。だけど、“感じた”記憶だけが沈殿していく。……この現象、言語的構造じゃなく、“意味そのもの”が侵食してる」
ひなたは、まるでガラス細工を落としそうな手つきでスマホを握りしめた。
「じゃあ、誰かが“私のことを語ってくれないと”、その子は……」
「いなかったことになる」
短く、理久は言い切った。
その言葉の重みに、ひなたははっと顔を上げる。
「……ねえ理久。誰か、私たち以外にも“覚えてる”人、いると思う?」
「調べてみよう。もしかしたら、“語ろうとして消えた人”がいるかもしれない」
ふたりは図書館の奥の端末を使って、学校内のSNS、メッセージログ、非公開の掲示板、旧アカウントの断片を片っ端から検索した。
そして、一件の投稿が見つかった。
「今日もまたひとり消えた。名前も顔も忘れたけど、誰かいた。教室に、確かに、もう一人席があった」
投稿者は不明。日時も曖昧。だが、誰かが“語ろうとした痕跡”だった。
「理久。これって……」
「ああ。誰かが“思い出そうとした”記録だ。けど、それ以上は語れなかった」
「なら、今度は──私たちが語ろう」
ひなたは画面を見つめたまま、小さくつぶやいた。
「あなたのことを。確かに“いた”ってことを」
語られなければ、存在できない。
その真逆の祈りを込めて、彼女は新しいメモ帳を開いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
もし、あなたの画面にまだ異常が起きていないなら、ページ上部から【ブックマーク】をして『生存確認』の印を残してください。
下部の【☆評価】は、失われた彼らへのせめてもの供養になります。
……どうか、次回の更新までご無事で。




