第60話 視られる記憶
昼休みの教室は、ざわめきに満ちていた。
騒がしいはずの空間の中、ひなたの周囲だけが、ぽっかりと空気が抜けたような静けさを保っている。
「見たことある」「あれ、なんて言うんだっけ」「夢に出た」というささやきが、廊下からも聞こえてくる。
トオミサマは、もう“校内の語彙”になっていた。
特定の誰かが語ったわけではない。
“誰もが見たような気がする”という不確かな主観が、構文を維持していた。
そして今、“視線”が集まりはじめている。
「……視られてる、よね」
ひなたがぽつりと言った。
昼間の教室、何の変哲もない景色なのに、視界の隅に誰かの“背の高い影”が残っているような感覚。
それは教卓の後ろだったり、黒板の端だったり、掲示板の前だったりする。
だが見つめようとした瞬間に、それは“すでに見られていた”と気づく。
誰が主語なのか。
誰が視点なのか。
すでに境界がなくなっていた。
* * *
その日の放課後、第三準備室。
理久は一枚の紙を机に置いた。
「これが、“視られる記憶”だ」
それは、一枚の“視覚記録ログ”だった。
サーバー上のアクセス解析、コメント履歴、位置情報──
だがそれよりも奇妙なのは、そのデータが**“何かを見せようとしている”**ように見えることだった。
「これ、記録じゃない。……記録“みたいに見える”だけ」
ひなたは呟く。
ログのレイアウト、フォント、書式、コメント欄──すべてが“閲覧画面”を模しているのに、よく見るとHTML構造が存在しない。
それは“記憶を模した像”だった。
「……誰かが、“自分の記憶”を記録風に見せかけてるの?」
「違う。これ自体が、“視線の記憶”だ。何かを見たという記憶が、形式として自動で複製されてる」
「つまり……誰かが“見た記憶”そのものが、今、形になってる?」
「うん。視た者の脳が、“視たことの証拠”を作ろうとしたとき、構文がそれに乗っかって、こうなる」
構文が記録されるのではない。
“構文そのものが記録になる”。
すでに語らずとも、呪いは書き込まれていく。
* * *
「終わらせるには、どうすればいいの?」
ひなたの問いに、理久は一瞬だけ黙り、黒板に一言書いた。
【視ることを拒絶する】
「……それ、どうやって?」
「“自分の目”を封じるしかない」
その言葉に、ひなたははっとする。
「でも、それって……自分が自分でいられなくなるってことじゃ……」
「いや、逆だ。今のままだと、“他者の視線”が自分の目を使って見てる。視ることを放棄するってのは、“自分の主体を取り戻す”行為なんだ」
そして理久は、机の上に置いてあった、白い布を差し出した。
「これは、記録媒体。中に、小型の映像記憶装置が入ってる。この目隠しを通して最後の映像を記録する。……“自分の視界”としてじゃなく、“自分が拒絶した記憶”として」
ひなたはそれを両手で受け取った。
布は柔らかく、どこか温かい。
「これを使えば……“私の視線”は、もうトオミサマには届かない?」
「届かない。だが代わりに、君自身が“見る主体”じゃなくなる。記録の中に、“見ることを拒否した存在”として保存される」
「……それって、語りの終わり?」
「語りの終わりであり、“視られること”の拒絶でもある」
* * *
夜。
ひなたは、白布をかぶり、静かに椅子に座った。
部屋の中央には、小さな録画装置がある。
「……いまから、私の目を閉じます。これが、“最後の記憶”です。誰かが、私の視線を借りて見る世界じゃなく、私が、もう見ないと決めた世界の記録です」
そう言って、ひなたは目を閉じた。
数秒後、録画装置が静かに赤いランプを消した。
記録は終了した。
* * *
後日、学校のサーバに奇妙なファイルが自動アップロードされていた。
映像時間3分27秒。
内容:真っ暗な映像と、録音されたひとつの音声。
「視られるのは、もう終わり。これは私の目じゃない。もう、どこにも視線はいない」
それが、“トオミサマ”という構文に対する、最終的な語りだった。
* * *
その後、トオミサマは語られなくなった。
誰もその名を思い出せず、影の像も、もう見られなかった。
語られた怪異は、語りの拒絶によって終焉する。
──ただ、夜の廊下を歩くとき。
ふと、視界の隅に“自分の目”があるような錯覚が残る。
あの瞬間、誰が見ていて、誰が見られていたのか。
それすらも、もう“記録”には残っていない。
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