第59話 名前を与える者たち
午後五時の校舎は、音という音が消えていた。
生徒たちはすでに下校し、夕暮れの茜色が窓を染める教室に、ひなたと理久はふたり、文芸部誌の閲覧ログを眺めていた。
「……三百八十四件。昨日からの閲覧数。少ないようで、けっこう伸びてる」
ひなたの声は落ち着いていたが、その指先はスマートフォンの縁を何度もなぞっていた。
あの記事──《トオミサマの物語》と題された特集は、校内限定の非公開リンクとして発信され、文芸部内の管理サーバでひっそりと生きている。
「アクセス元の半分は校内IP。もう半分は不明。スマホ回線の仮装IPだ」
理久は閲覧者の傾向をスプレッドシートに整理しながら言った。
「不明ってことは……学外から見られてるってこと?」
「正確には、“転載されている可能性がある”」
「……転載……」
言葉に詰まる。
あれほど注意深く語りのフレームを組んだ物語も、一歩校外に出れば、“意味”の再構築に晒される。
特に“名前”──
一度誰かに違う名で語られれば、その瞬間からそれは、別の怪異になる。
* * *
実際、匿名掲示板では早速、いくつかの変異が始まっていた。
《あの女の名前、“立影”っていうらしいぞ》
《“ぽぽぽ様”って、昔からの呼び方らしい。うちの地域ではそう》
《黒長さんとか言ってる奴、絶対創作だろ》
語りの自由は、呪いの複製と同義だった。
理久はそれを“構文汚染”と呼んでいた。
「“名づけ”は、構造の核を再定義する行為だ。正確な伝承構文が崩れると、派生構文が“勝手に語られ”、元の定義が薄まっていく」
「でもそれって、ある意味“人々の中に根づいた”ってことじゃないの?」
「それが“物語”であるなら、問題はない。だが“呪い”は、“意味”が確定したとき発動する」
「じゃあ、あたしたちの“物語”が意味の中核であるうちは、呪いは起動しない?」
「そう。“私たちが与えた名前”が最も強く、最も語られている間は」
その瞬間、ひなたのスマホに通知が届いた。
【#トオミサマ】でトレンド入り中
投稿数:2,301件(新着43件)
「……やば」
ひなたが呟く。
──名前が独り歩きしている。
理久が手元のPCでハッシュタグ検索をかけると、画面が一気に染まった。
《今朝、通学路で見かけた“トオミサマ”かも。なんか長身の女が遠くから“ぽぽぽ”言ってた。》
《トオミサマって、“見ると死ぬ”んだよね?》
《これは昔の夢の中にも出たわ。記憶を視てるのかも》
《実はトオミサマって、地元じゃ“立影様”って言ってたらしい》
「もう、構文が分裂し始めてる……」
理久はそう呟きながら、パターン化した投稿のリストを並べる。
見る者によって、名前も性質も違って語られていく。
“視線の怪異”が、“言葉の怪異”へと変質していく兆候だった。
* * *
その夜、ひなたは夢を見た。
ただの夢ではなかった。
いや、夢とすら言えない、奇妙な“見せられ方”だった。
夢の中、ひなたは自分の部屋にいた。
だが、ドアの外に誰かの影が立っている。
「……トオミ……?」
言いかけたその名を、咄嗟に止めた。
“名前”を呼ぶことで、構文が起動すると、本能が告げていた。
その影は動かない。ただ、見つめてくる。
いや、違う。
“自分の目”を通して、外から部屋を覗き込んでくるのだ。
視線の主体が、自分ではない。
“自分の目”が、“誰かの目”として機能している。
――誰かが、自分の目から、この部屋を見ている。
思わず目をそらした瞬間──夢が崩れた。
* * *
「……起きた?」
スマホの画面に、理久からのメッセージが届いていた。
【昨夜23:12】
“トオミサマ”の画像、複数の二次創作絵師によって公開済み。
視覚構文が崩れている。
“視せられる主体”が拡散開始。
今後、“名前”を新たに与える“主語の交代”が起こる。
「……主語の交代?」
ひなたは口に出す。
理久の言う“主語の交代”とは──
語りの中心が、ひなたたちから、別の誰かに移るということだった。
つまり、“呪いの所有者”が変わるということ。
「……これからは、あたしたちが“語られる側”になるってこと?」
* * *
その日、校門の前に小さなメモが貼られていた。
手書きで、こう記されていた。
「トオミサマ、見たことある。今は校内にいる。
でも、見えたらだめ。名前、呼ばないで。
語ると、誰かがその“視点”を引き継ぐから」
紙は風に揺れて、まるで“目”のように見えた。
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