第57話 視覚の継承者
スケッチブックを閉じた瞬間、ひなたは深く息を吐いた。
部屋にはまだ、黒インクの匂いが微かに残っている。
その匂いが、まるで“誰か”の呼吸のように思えて、彼女は何度も窓の外を確認してしまった。
あれから“ぽぽぽ”の音は聞こえてこない。
視界の端に、高すぎる影が見えることもない。
だが、それでも心は休まらなかった。
「……あの絵を描いて、ほんとに“こっち側”に引き戻せたのかな」
描くことによって、“視させる側”に構文を転化する──
理久の言葉を信じて、ひなたは呪いの視線を記録する行為へ踏み出した。
それが果たして、正しかったのかはまだ分からない。
でも、自分の中に巣くっていた恐怖が、“像”を与えられたことで整理された気がしたのも事実だった。
* * *
次の日、理久にそのスケッチブックを見せると、彼は目を細めてそれを眺めた。
「……これは、“お前の視たもの”として十分に構文化できてる。見る者の“主観性”が濃く反映されていて、呪いの側の“構造の主導権”を奪えている」
「じゃあ……大丈夫?」
「今のところはな。ただ、これを“他者が視たとき”が問題だ」
「他者が?」
「そう。お前が描いたことで、“記録化”された視線情報は、今度は“別の誰か”の記憶に入ることになる。それは、“新しい視覚ホスト”になるリスクを含んでる」
ひなたは肩をすくめた。
「でも、それってつまり、“誰かに渡してしまう”ことが、もうこの呪いを断ち切る唯一の方法ってことじゃないの?」
「……そうだな」
その一言の裏にある重みを、二人とも知っていた。
“見る”ことで始まり、“語らない”ことで燃え広がる呪い。
今、彼女たちは“見せる”という転倒構文で、それを断ち切ろうとしている。
だがそれは、語ることを禁じた物語に、再び“語る力”を戻すことでもあった。
* * *
ひなたは、そのスケッチブックを学校の文芸部室に置くことを決めた。
「都市伝説特集号」として発行予定の校内冊子の一環として──
スケッチに短い詩を添えて、作品として公開するのだ。
──そうすれば、“呪いの像”は“物語”に変わる。
誰かに“語られる”対象になれば、もうそれは視線の檻ではなく、言葉の器になれる。
「でも、そのぶん……“見る者”には伝染のリスクもあるよね」
「そこで重要なのが、“語りの順番”だ」
理久は黒板に図式を描く。
視線の構文が呪いを成立させるには、順序がある。
【見る → 語られる → 意味が生まれる】という構造が整ったとき、“意味としての呪い”が起動する。
だが逆に、【語られる → 見る】の順で構成される場合、
語りが“物語”としてフレーミングされることで、“呪い”は言語構造に回収され、発火しづらくなる。
「つまり、“見る”より先に、“語ってしまう”ことが重要なんだ」
「……だから、詩をつけるの?」
「語りが先にあることで、視覚情報が“象徴化”され、直接的な呪い構文からズレる。あくまで“物語の一部”として記録されれば、記号的な意味に変換される」
それが、彼らの導き出した「安全な拡散」の形式だった。
* * *
文芸部員の一人、安達あゆみがスケッチと詩のページを見たとき、ふと首を傾げた。
「……この絵、どっかで見たような……?」
「え?」
ひなたは反応しかけたが、理久が軽く頷いて制止する。
「それで?」
「いや……夢で見たんだっけな……変な感じ。高い影が……」
彼女の表情が曇る前に、ひなたはさっと話題を変えた。
「それ、作品だからさ。あんまり真剣に考えなくていいよ。雰囲気っていうか」
「あー……そうだよね。うん」
ひなたは胸の奥がざわつくのを感じた。
──もしかして、“もう誰かが”この呪いを一度“視た”ことがある?
自分より前に?
別の世界線で?
けれど、今は考えない。
物語は“語る”ことで整理される。
それが正しい順番である限り、“呪い”は形にならない。
* * *
夜、ひなたはもう一度スケッチブックを開いた。
そこにあるのは、彼女が“視た”存在だった。
でも今は──もう“彼女のもの”ではない。
誰かがそれを“見て”、何かを“感じて”、そして“語って”いく。
そうすることで、“あの視線”は記憶から削られ、言葉に変換されていく。
“見る”という呪いから、“語る”という祈りへと。
スケッチのページに添えた短い詩が、風に揺れた。
だれかが みた
だれかが みせた
わたしは もう、そこにいない
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