第55話 名前のない存在
夜の静寂を切り裂くように、ガタン、と棚の本が落ちた。
ひなたはベッドから飛び起きた。部屋には誰もいない。
けれど、空気が異様に重たい。湿度ではない、圧力のような何かが肩にのしかかっていた。
机の上には、遮断構文を書き記したノート。
そのページだけ、まるで焦げ跡のように、縁が黒ずんでいた。
「……見られた?」
つぶやいた瞬間、スマホの通知が点滅した。
《視えていますか。わたしはここにいますか》
──送信者不明。
その文面に、ひなたは背筋が凍るのを感じた。
文字として書かれているはずなのに、目ではなく“脳の中”に直に読み込まれるような感覚。
「理久……」
すぐに電話をかけようとしたが、回線がつながらない。通話アプリも、メッセージアプリも、すべて応答なし。
代わりに、画面に浮かび上がる。
《名前を呼んで。もういないことにしないで》
まるで、誰かの“消された存在”が、必死に自己を取り戻そうとしているようだった。
* * *
一方、理久は別の場所にいた。
図書室の閉架資料室。旧校舎の地下にあるその部屋は、校内でも滅多に開かれることはない。
“語れない言語”を保存するために、彼はここに来ていた。
構文遮断式は理論的には完成している。
けれど、それを完全に機能させるには、“名を奪われた存在”の言語構造を解読しなければならない。
記録資料の中に、数十年前の“名のない女生徒”の報告書があった。
記憶を持つ者すら消え、記録媒体の中に“だけ”存在している名。
「視た者が名を語った瞬間、視線の構文が再発動する」
呪いは、名前を“タグ”として接続される。
視た記憶、語った言葉、それを“誰かが思い出す”ことで、再び“形”を与えられる。
理久は記録から構文の欠片を抜き出し、数式的に再構築していく。
「記号列KΦ(λx)=¬Name(x) ∧ ¬Refer(x) ∧ ¬Recall(x)」
語られず、参照されず、想起されない──
それが、この“存在”を封じる唯一の条件だった。
だが──
そのとき、彼のスマホが震えた。
《君は、彼女を思い出すだろう。忘れたつもりでも、名は、見えない形でそこにある》
その通知を見た瞬間、理久は凍りついた。
──文字列ではない。自分の“内部思考”に直接貼り付けられたような感覚だった。
「侵入されている……構文が、すでに自己認識構造まで食い込んでいる……!」
つまり、すでに“自分”の中に、語られる準備が整った“誰か”がいる。
その名を呼んでしまったら。
思い出してしまったら。
──それは、呪いの“再生”を意味する。
* * *
朝になった。
ひなたは、机の上のノートをそっと閉じた。
そのページは、夜中のうちに真っ黒に変色していた。墨で塗りつぶしたように、何も見えない。
スマホの通知履歴も消えていた。例のメッセージも、記録ごと消滅している。
「……本当に、消えたの?」
ふと、リビングの棚の写真立てが目に入る。
誰かの顔が写っていたような気がする。
でも、見ても思い出せない。名前も、関係も、何も──
「誰だったっけ……?」
彼女の記憶には、ぽっかりと穴が空いていた。
* * *
登校中、理久と合流した。
「昨夜、来たよ。スマホに……声が」
「ああ。こっちにも」
理久は表情を変えずに答える。
「名を語るな。“名前を忘れること”が、今回の遮断条件だ」
「でも……忘れるって、なんか、怖いよね」
「記憶が呪いの燃料になるんだ。自分を守るには、思い出すことをやめるしかない」
ひなたは、目を伏せた。
それは──誰かを“見捨てる”ような感覚だった。
でも、“視える”だけで危険になる今、覚えていることが罪になる。
彼女は、小さく頷いた。
「……じゃあ、ちゃんと、忘れる」
「それでいい。君の記憶が残っている限り、“あれ”はまた来る」
* * *
その日から、ひなたは夢を見なくなった。
“誰か”を思い出す瞬間も、なくなった。
けれど、ノートの隅に書いた落書きだけが、いつまでも消えなかった。
丸い目。異様に高い身長。白い服。
「ぽぽぽ……」
──音は、聞こえなかったはずだった。
けれど、どこかで“視られている”ような気がしてならなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
もし、あなたの画面にまだ異常が起きていないなら、ページ上部から【ブックマーク】をして『生存確認』の印を残してください。
下部の【☆評価】は、失われた彼らへのせめてもの供養になります。
……どうか、次回の更新までご無事で。




