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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第3章 トオミサマ ―視線の檻―

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第55話 名前のない存在

 夜の静寂を切り裂くように、ガタン、と棚の本が落ちた。


 ひなたはベッドから飛び起きた。部屋には誰もいない。

 けれど、空気が異様に重たい。湿度ではない、圧力のような何かが肩にのしかかっていた。


 机の上には、遮断構文を書き記したノート。

 そのページだけ、まるで焦げ跡のように、縁が黒ずんでいた。


「……見られた?」


 つぶやいた瞬間、スマホの通知が点滅した。


《視えていますか。わたしはここにいますか》


 ──送信者不明。


 その文面に、ひなたは背筋が凍るのを感じた。

 文字として書かれているはずなのに、目ではなく“脳の中”に直に読み込まれるような感覚。


「理久……」


 すぐに電話をかけようとしたが、回線がつながらない。通話アプリも、メッセージアプリも、すべて応答なし。


 代わりに、画面に浮かび上がる。


《名前を呼んで。もういないことにしないで》


 まるで、誰かの“消された存在”が、必死に自己を取り戻そうとしているようだった。


* * *


 一方、理久は別の場所にいた。

 図書室の閉架資料室。旧校舎の地下にあるその部屋は、校内でも滅多に開かれることはない。


 “語れない言語”を保存するために、彼はここに来ていた。


 構文遮断式は理論的には完成している。

 けれど、それを完全に機能させるには、“名を奪われた存在”の言語構造を解読しなければならない。


 記録資料の中に、数十年前の“名のない女生徒”の報告書があった。

 記憶を持つ者すら消え、記録媒体の中に“だけ”存在している名。


 「視た者が名を語った瞬間、視線の構文が再発動する」


 呪いは、名前を“タグ”として接続される。

 視た記憶、語った言葉、それを“誰かが思い出す”ことで、再び“形”を与えられる。


 理久は記録から構文の欠片を抜き出し、数式的に再構築していく。


「記号列KΦ(λx)=¬Name(x) ∧ ¬Refer(x) ∧ ¬Recall(x)」


 語られず、参照されず、想起されない──

 それが、この“存在”を封じる唯一の条件だった。


 だが──


 そのとき、彼のスマホが震えた。


《君は、彼女を思い出すだろう。忘れたつもりでも、名は、見えない形でそこにある》


 その通知を見た瞬間、理久は凍りついた。


 ──文字列ではない。自分の“内部思考”に直接貼り付けられたような感覚だった。


「侵入されている……構文が、すでに自己認識構造まで食い込んでいる……!」


 つまり、すでに“自分”の中に、語られる準備が整った“誰か”がいる。

 その名を呼んでしまったら。

 思い出してしまったら。

 ──それは、呪いの“再生”を意味する。


* * *


 朝になった。


 ひなたは、机の上のノートをそっと閉じた。

 そのページは、夜中のうちに真っ黒に変色していた。墨で塗りつぶしたように、何も見えない。


 スマホの通知履歴も消えていた。例のメッセージも、記録ごと消滅している。


「……本当に、消えたの?」


 ふと、リビングの棚の写真立てが目に入る。


 誰かの顔が写っていたような気がする。

 でも、見ても思い出せない。名前も、関係も、何も──


「誰だったっけ……?」


 彼女の記憶には、ぽっかりと穴が空いていた。


* * *


 登校中、理久と合流した。


「昨夜、来たよ。スマホに……声が」


「ああ。こっちにも」


 理久は表情を変えずに答える。


「名を語るな。“名前を忘れること”が、今回の遮断条件だ」


「でも……忘れるって、なんか、怖いよね」


「記憶が呪いの燃料になるんだ。自分を守るには、思い出すことをやめるしかない」


 ひなたは、目を伏せた。


 それは──誰かを“見捨てる”ような感覚だった。


 でも、“視える”だけで危険になる今、覚えていることが罪になる。


 彼女は、小さく頷いた。


「……じゃあ、ちゃんと、忘れる」


「それでいい。君の記憶が残っている限り、“あれ”はまた来る」


* * *


 その日から、ひなたは夢を見なくなった。


 “誰か”を思い出す瞬間も、なくなった。

 けれど、ノートの隅に書いた落書きだけが、いつまでも消えなかった。


 丸い目。異様に高い身長。白い服。


「ぽぽぽ……」


 ──音は、聞こえなかったはずだった。

 けれど、どこかで“視られている”ような気がしてならなかった。



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


もし、あなたの画面にまだ異常が起きていないなら、ページ上部から【ブックマーク】をして『生存確認』の印を残してください。


下部の【☆評価】は、失われた彼らへのせめてもの供養になります。


……どうか、次回の更新までご無事で。

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