第54話 記憶に宿る名
ひなたは、その名前を口にしなかった。
けれど──心のどこかで、すでに“思い出してしまっていた”。
昨夜の夢。白く霞んだ視界の中で、トオミサマの“顔”が、自分の中の“誰か”と重なった。
記憶の引き出しから、勝手に引き抜かれた顔。
遠い昔、忘れたはずの幼馴染。写真でしか知らない血縁。通りすがりの女教師。
そういった曖昧な記憶が、“トオミサマ”の輪郭に混ざり始めている。
「記憶から派生した像が、呪いの実体を持つ──そういうことかもしれないな」
理久は電子黒板にメモを並べながら、冷静に推理を進めていた。
「呪いが視線を契機に感染する、という構造自体は変わらない。けれどその核となるイメージが、“誰かの記憶”に応じて再構成されるのだとすれば……」
「つまり、“視る側”の中で、“呪いの見た目”が変わるってこと?」
「そう。“見られる存在”は一つじゃない。むしろ、構文そのものが“誰かにとって最も視られやすい存在”へと最適化されていく」
「それって、最悪じゃん……。誰もが、“誰かを思い出してしまう”だけで、呪いに接続しちゃうってこと……」
ひなたは、ぞくりとした感覚に襲われる。
もしかしたら、自分が思い出した“あの人”は、もうこの世にいない誰かかもしれない。
あるいは──この呪いに“連れていかれた誰か”かもしれない。
そしてそれが、「自分の記憶に宿った」というだけで、再び現実に“形”を持って顕れるのなら──
「理久。もし、私がその“誰か”を、完全に忘れたらどうなるの?」
理久はその問いに、しばらく黙っていた。
「記憶が構文の母体なら、忘却は遮断の手段にもなりうる。だが……」
「だが?」
「……同時に“封印”でもある。“誰か”がその存在を覚えている限り、その構文は残り続ける」
「じゃあ……私が忘れても、誰かが思い出したら──また視えるの?」
「そうだ」
それはまるで、“記憶”自体がネットワークのノードになっているかのようだった。
誰かが思い出せば、呪いは“視える”存在として再起動する。
忘れられれば、一時的にでも“不可視”となる。
だが、忘却され尽くすことは、容易ではない。
* * *
放課後。二人は図書室の記録棚を調べていた。
過去の転入生・失踪生徒・校内事故──それらに“記録”として残されていた可能性がある。
理久は資料整理担当の司書教諭に口実を作り、封印されたアーカイブの中から、一枚の記録カードを引き当てた。
「……花園 咲」
ひなたは、その名前に反応した。
「この名前……あのときの放送室の子だ。夢で見た……顔と一致してる」
理久は資料に目を通し、顔をしかめた。
「数年前、転落事故で死亡。だが、記録が不自然に“複製”されてる。複数の教師が、同じ生徒を“別の名前”で記憶している」
「……名前が、書き換えられてる?」
「記録された“語られ方”が異なる。つまり、“誰かが語るたびに、記憶が異なる形で固定され直してる”ってことだ」
ひなたはゾッとした。
花園咲という存在は、既に“誰か”にとっては別の名前で記憶され、別の姿で視られている。
つまり、語られた“像”ごとに、呪いの形が再構築されていくのだ。
「これ、どうやって止めるの……?」
「語られた名を、全ての記録から“消去”するしかない。構文を発火させる記名要素が、“語られる限り”構文は自律的に存在し続けるからな」
「じゃあ、記憶も含めて、全部……?」
「“語られた名前”と、“視た記憶”と、“思い出すきっかけ”のすべてを封じる必要がある。それには、“名を封印する言語構造”が必要だ」
理久は、そう言いながらノートを開き、数式のような構文図を描き始めた。
「構文遮断式。名の構造を逆転させ、“語れない名”に変換する。そうすれば、“語りの回路”は断絶され、呪いの連鎖は停止するはずだ」
ひなたは、ノートの図をじっと見つめた。
そこには、言語学的にも、構造言語的にも、意味を持たない文字列が並んでいた。
まるで、初めから“語ることを拒否された言葉”。
「……これで、本当に止められるの?」
「止める“可能性”はある。ただし──」
「“語れなくなる”ってことだよね」
「そう。語れない。思い出せない。記憶すら、“意図的にたどることができない”。たとえ自分の記憶に残っていても、“意味”として再構成されないようにするしかない」
それはつまり、自分の中にある“誰か”を、完全に“いないもの”として受け入れるということだった。
* * *
夜。
ひなたは机に向かって、かつてのクラスメイトの写真を見ていた。
思い出せる。名前も、顔も。
でも、明日には──それを、“意味のない像”として封じる。
「ごめんね」
そう小さくつぶやいて、彼女はノートに構文遮断式をなぞった。
その瞬間、机のライトが一瞬だけ点滅した。
そして──窓の外に、“高い影”が一瞬、見えた気がした。
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