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【完結済み】あなたが読むかぎり  作者: 川原 源明
第3章 トオミサマ ―視線の檻―

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第50話 沈黙の構文

 黒板に貼りつけた“読めない語り”の紙──それを凝視する女生徒の背後から、“それ”は滲み出ていた。


 トオミサマ。


 2メートルを軽く超える異形の影。まるでヒトの形を模しているようで、しかし決してヒトではない。

 影のようで、輪郭は曖昧。

 それでいて、そこにいるという実感だけが、部屋の空気を圧縮する。


 ぽ、ぽ、ぽ、ぽ……


 低く響くその音は、耳ではなく、脳のどこか奥のほうに鳴り響いてくる。

 理久はひなたの肩を後ろに引き、ノートを開いた。


「やるぞ。これが“読むことを拒む語り”──“沈黙の構文”だ」


 ひなたは頷き、黒ペンを手にした。


 ──まず、言葉をつくらない。


 彼女はページを開いたまま、ひとつの行にも文字を書かなかった。

 ただ、空白のなかに、ぎゅっとインクをにじませた“点”を置いた。

 そこに、無数の点を──均一に、リズムもなく、不規則に──ただ並べた。


 意味を問えない。

 音に変換できない。

 それでも、“語られた痕跡”だけは、そこに確かに存在する。


 ひなたが視線を上げると、女生徒──否、既にトオミサマに“侵蝕された個体”──が、微かに身じろぎした。


「やっぱり、あいつ……“見させようとしてる”」


 理久が呟いた。


「“視せられる”だけじゃない。“こちらが見返す”ことで、その構造は初めて成立する。でも今──俺たちは、“見てない”。そして“語ってない”。この構文は、“語られなかった”という構文なんだ」


 言葉が、音にならず、意味にもならず、ただ“空白の配列”として存在する。

 そこにこそ、“構造の断絶”が発生する。


「トオミサマは、“意味”に宿るんじゃない。“視られるという構文”に憑いているんだ。だから、“語るが意味のない構文”は、奴にとっては“餌にならない”」


 トオミサマの影が、黒板から少し引いた。

 輪郭が溶け、天井の蛍光灯に吸い込まれるように、上昇していく。


 その背後で、女生徒がぽつりと呟いた。


「……さようなら……」


 目が覚めたように、彼女の顔から“あの焦点の合いすぎた視線”が消えていた。

 ひなたが思わず駆け寄ろうとしたとき──


 視界が裏返った。


 ──黒板の“構文”が、急激に“再構築”され始めたのだ。


 文字にならなかった点と線が、ひとつの記号に形を変えようとしている。

 何かが“理解されそうになっている”。

 この構文に“読まれようとする意志”が発生している。


「ダメだ!理解しちゃいけない!」


 理久が叫んだその瞬間、ひなたは自分のノートを破り、黒板の紙に重ねて貼り付けた。

 “意味のない沈黙”を、再び“沈黙”で覆う。


 黒板の中央に、“真っ白な頁”が貼り付けられた。


 静寂。


 トオミサマの影は、完全に姿を消していた。


 女生徒がその場に崩れ落ちる。

 意識を失っていたが、呼吸は安定している。


 ひなたは震える手で、そっと彼女の額に手を当てた。


「……消えた?」

「ああ。お前が、語らなかったからな。“意味に辿り着かない構文”こそ、奴を構造から追い出す唯一の手段だった」


 理久はそう言って、胸ポケットから古びたテープレコーダーを取り出した。

 停止ボタンを押す。


「録音してたの?」


「俺たちが何を“語らなかったか”を記録するためにな。この沈黙は、ただの無音じゃない。“語り得なかった記録”だ。それはおそらく──“語り得たもの”よりも強く、構造の証明になる」


 ひなたは、ようやくほっと息を吐いた。

 校舎の中に、日常の空気が戻ってきているのがわかる。


 遠くから、放送部が流すチャイムのリハーサル音が聞こえてきた。

 部活の声。ペンの走る音。風の音。


 “視線”は、もうどこにもなかった。


「……終わった?」


「いや。これはただの一区切りに過ぎない。この“視線構造”は、記憶や語りに触れる場所なら、また形を変えて出てくる。ただ、今回は──“語らないことで語る”方法を、お前が手に入れたってことだ」


 ひなたは頷き、破いたノートの欠片を手のひらに包んだ。


「次に現れたときも、きっと、私は“語られる”だけじゃ終わらせない。語るかどうかを、選ぶ側でいるよ」



ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


もし、あなたの画面にまだ異常が起きていないなら、ページ上部から【ブックマーク】をして『生存確認』の印を残してください。


下部の【☆評価】は、失われた彼らへのせめてもの供養になります。


……どうか、次回の更新までご無事で。

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