第48話 言葉による視線転換
図書室の奥──普段は誰も立ち入らない「資料閲覧室」は、理久が選んだ“視線の外側”だった。
窓がなく、監視カメラも設置されていない。天井の蛍光灯も一本切れていて、部屋全体が薄暗い。
ひなたと理久は、入口近くの棚を動かし、物理的な遮蔽を作った。
「ここなら、“見られにくい”。視覚の直線構造からは外れてる」
理久はそう言いながら、ノートと黒のペンを机に広げた。
描くのではない。“書く”のだ。
「昨日の夢……覚えてる範囲でいい。あの時、何を見て、どう感じたか──順番に書いてくれ。形式はなんでもいい、文章でも箇条書きでも」
ひなたはゆっくりとペンを取り、最初のページにこう記した。
「私は視ていた。でも、私ではない何かの目で視ていた」
そこから、ひなたの手は止まらなくなった。
──白い手。畳をこするような音。
──鏡に映らない影。
──2メートルを超える影の中に、“私”の記憶が吸い込まれていく感覚。
言葉にすれば、それらは「視覚情報」から「構造化された記述」へと変換される。
つまり、“見る”という曖昧で主観的なデータを、“読む”ための秩序へ再構築することになる。
理久はその横で、別のページに“構文式”を作成していた。
「視線汚染の原理は、恐らく“視覚―記憶―共感”の順に感染する。でも“言語化”すれば、記憶と共感のルートに遮断をかけられる。俺たちは今、“語ることで呪いの構造を上書き”しようとしているんだ」
ひなたは頷きながら、さらに筆を走らせた。
「私は、あの存在に“視せられて”いた。でも、今こうして“書いている”私は、もうそれを自分のものとして整理できる。視線は、今、私の中に戻った」
ページが埋まっていくたび、胸に貼り付いていた重さが少しずつ剥がれていく気がした。
理久が確認するように尋ねる。
「今、気配は?」
「……薄れてる。たぶん、“私”を媒体にしていた視線が、言葉に分散された感じ」
「なら──実験してみる」
理久は自分のスマホで、ひなたの書いた文章を撮影し、それを即座にスクリーンリーダーで読み上げさせた。
無機質な合成音声が、淡々とひなたの言葉を読み上げる。
そして──異変が起きた。
その音声に重ねるように、機械から発せられる“もう一つの声”が、ノイズ混じりに割り込んだのだ。
──ぽ、ぽ、ぽ、ぽ……
それは機械のものではなかった。
録音されていたわけでもない。
どこか遠くから、だが確かに“いまここ”で鳴っている音。
ひなたは顔を上げ、理久と目を合わせた。
「今の……聞こえたよね?」
「ああ。視線汚染の逆流だ。“読む”ことで浄化できると思ったが、どうやら完全には断てない。言葉を“伝えた瞬間”に、視線が再起動した」
つまり、ひなたが視たことを他者に伝えたとき──視線の主体が“読者”に移る。
「この構造……視線のバトンが、語り手から読み手に渡されてる。やっぱり、これは“語り型の呪い”じゃない。“読む”ことそのものがリスクになる」
「じゃあ……どうすれば?」
理久はしばし考え込み、やがてゆっくりと口を開いた。
「“閉じた語り”を作る。誰にも伝わらない、読むこともできない。けれど、語られたという事実だけが残る構造。それが、次の一手だ」
「そんなこと……可能なの?」
「ああ。たとえば、“読めない文字”で記す。意味のない配列。見ても読めない、読んでも理解できない。だが、その存在だけが、“見られた痕跡”として残る」
ひなたは深く息を吸い、ノートの次のページを開いた。
「じゃあ──書こう。“意味を持たない語り”を」
理久は微かに頷き、背後の物音に意識を研ぎ澄ました。
誰かが、扉の前を通り過ぎる。
その気配は、ひなたの背後にまで忍び寄るようだった。
でも、彼女は動じなかった。
もう“視られているだけの存在”ではない。
“語ることで、構造を変える”。
それが、ひなたが選んだ戦い方だった。
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