第39話 理久のノート
夜の校舎は、ひどく静かだった。
職員室の明かりは落ち、廊下には誰の足音もない。
教室の窓ガラス越しに見える月だけが、薄く世界を照らしていた。
ひなたは、旧図書準備室のドアをノックした。
ここは、理久が時折ひとりで籠もっていた場所。
図書室の裏手にある、使われていない書架室。鍵は壊れていて、押せば開いた。
彼はそこにいた。
「……理久」
顔を上げた理久は、ほんのわずか目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
テーブルの上には、開かれたノートが数冊。すべて、彼が書いたものだった。
「……来たのか。予想通りだな」
「“語られない物語”を書いた。でも、それだけじゃ終われない気がして。あんたの言ってた、“断絶”ってやつ……それが、ほんとうに可能なのか知りたくて」
理久は黙ったまま、手元のノートを一冊手に取った。
そこには、細かくびっしりと記号や線、図形が描かれていた。
「これは、俺が“語られない情報”の形式についてまとめたものだ。情報ってのは、形式を通してしか伝わらない。だから逆に、形式の構造そのものを“閉じる”ことができれば、情報はその時点で止まる」
「それが、“語られないための物語”?」
「ああ。ただし、問題は“人間の記憶”だ。一度でも誰かがその構造に触れたら、“意味”に変換されてしまう可能性がある。どれだけ意味を欠いた形式でも、誰かの心が意味を拾ってしまう限り、語りは再開される」
ひなたは、静かにノートを差し出した。
自分が今日一日かけて書き上げた、“語らない物語”。
「これ、読んで」
「……いいのか?」
「うん。もしあんたが、これを“意味として読めない”なら、たぶんこれは成功してる。伝わらないことで、伝えたいことが届くなら、それでいい」
理久は黙ってノートを開き、数ページをめくった。
しばらくして、口を開く。
「これは……読めない。文章じゃない。でも、変なことに──“何かを思い出しそうな感覚”はある」
「それで、いいんだと思う」
ひなたは、深く息をついた。
「これ以上“語られる”必要はない。これは、誰にも語られなかった物語として、閉じるための器。たぶん、最初から私たちは“語りすぎた”んだよ」
理久は、うっすらと口角を上げた。
「面倒な方向に育ったな、お前……」
「……誰のせいだと思ってんのよ」
ふたりの間に、小さな沈黙が落ちた。
それは、初めて“言葉が要らない”と感じられる時間だった。
その夜、ひなたの見る夢には、誰の声もなかった。
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