第26話 箱の名前は
翌朝、教室に入るなり、ひなたはみなとに声をかけた。
「ねえ、昨日の箱。名前って聞いてる?」
みなとは一瞬戸惑い、きょろきょろと周囲を見回したあと、小さく頷いた。
「兄が言ってた……“ウブカタバコ”って。漢字は知らないけど、なんか昔の家系の名前って言ってた」
「“ウブカタ”……?」
響きにどこか湿ったものを感じる。ぬめりのような、呼びにくさのある音。
「その名前、昨日理久にも聞いたけど、たぶん、かなり古い。記録にもあまり残ってない」
「じゃあ、どこから来た名前なの?」
「兄の友達が最初に言い出したらしいけど……誰が最初に“そう呼んだか”は、もうわかんないって」
「名前の出所がわからないって、ちょっと怖くない?」
授業のチャイムが鳴るなか、みなとはそれ以上言おうとせず、席へと戻っていった。
ひなたはノートを開いたものの、頭に入ってくるのは「ウブカタバコ」という言葉だけだった。
──それは、“存在の出所”すら曖昧な何か。
名づけが先にあり、物体があとから引きずられて生まれてくるような、奇妙な順序。
放課後、ひなたは理久と再び例のベンチに腰かけた。
彼は何冊かの古書とタブレットを手に、文献をめくっていた。
「ウブカタという姓は、過去にいくつかの地方豪族に見られる。特に北中部に偏ってるな。興味深いのは、“この姓が記録上、どこからも発祥してない”ことだ」
「……名字って、普通どこかの地名とか由来があるんじゃないの?」
「ああ、でもこれは違う。まるで“消された名前”みたいに、分布が断絶してる。途中からポツポツと出現して、そして突然消えてる。まるで……」
「“語ることが許されなくなった”?」
理久はひなたを見る。その目は、彼女が核心に触れたことを確信しているようだった。
「そう。名前そのものが“語りの構造”を持ってる。おそらく、語られることで何かが連鎖するタイプだ」
「……それって、もう私、アウトじゃない?」
「まだ“構造が確立してない”段階だ。おそらく今は、接触フェーズにあるだけだ。ただ、これ以上広めたら、どこかで“語る主体”が固定される可能性がある」
その言葉の意味がすぐにはわからず、ひなたはスマホを取り出した。
昨日スクショした画像。
今朝見たときよりも、色調が明らかに濃くなっている。木目の中に、黒ずんだ節のような“目”が見える気がした。
「……これって、昨日と違うよね?」
理久がスマホを覗き込み、一言呟く。
「変化してる。お前が語ったことによって、“意味”が強くなった。つまり──」
彼が言いかけたその瞬間、背後の非常階段を誰かが駆け上がる音がした。
「朝倉さん、いる!?」
現れたのは、みなとだった。息を切らし、何かに怯えた表情でスマホを差し出す。
「さっきの……兄の部屋。撮ったら、勝手に通知が出たの。“@Ubk_Box”ってアカウントが、写真にタグ付けしてたの……!」
理久が眉をしかめた。
「そんなアカウント、昨日までは存在してなかった」
「タグ付けって、誰がやったの?」
「……誰でもない。鍵垢でもない。たぶん、“語られた箱自身”だ」




