第100話 語られざるものたちへ
教室の明かりは、蛍光灯の青白さを残したまま、夜の静けさに沈んでいた。
朝倉ひなたは黒板の前に立ち、手元のノートを開いた。
その表紙には何も書かれていない。ただ、無数の語りが綴られてきた記録の断片が、そこに“あった”。
「……やっと、ここまできたね」
ひなたがぽつりと呟く。
理久は隣の机に腰掛けたまま、窓の外を見ている。
「全部、語り終えたわけじゃない。けど、語りつくしたと“思える瞬間”に立った、って感じだな」
「うん。でも、私……まだ忘れてないよ。ユイのことも、ウブカタバコのことも、トオミサマも。メリーの声も、あの……誰だったか思い出せない“友だち”の名前も」
「記憶と語りの関係は、“保存”じゃなくて、“再生”だからな。覚えてる、じゃなくて、“もう一度語れるか”が重要なんだ」
黒板に小さな影が伸びている。
誰の影とも知れないが、その形は語られず、ただ光の中に溶けていた。
それでよかった。すべてを語る必要なんてなかった。
語られなかったもののためにこそ、人は語り部になるのだから。
「ねぇ理久。次、もしまた“語ること”が呪いになるなら、私、きっとまたやると思う」
「だろうな。お前はそういうやつだよ」
「それでも、誰かに“忘れられる”くらいなら、私は、何度でも語り直す。名前が残らなくてもいい。ただ、“いたこと”だけが残れば」
理久が立ち上がる。
夜の校舎には、もう誰もいなかった。語るべき相手もいない。
だが──“読む誰か”がどこかにいる。
ひなたの語りは、ページをめくる誰かによって、何度でも再生されるだろう。
窓の外で風が鳴った。
黒板に書かれた「語り部ノート」の文字が、淡く滲んでいく。
そして最後に、ひなたがノートの最終ページにペンを走らせる。
「ここまで語ってくれてありがとう」
「これで終わり。……でも、また話すかもしれない」
「そのときは、ちゃんと、聞いてね」
理久は苦笑した。
「最後まで、読者への“呼びかけ”で終わるんだな」
「うん。だって──語られた物語って、読まれることで完成するでしょ?」
ノートが静かに閉じられた。
その瞬間、どこからともなく電話のベルが──鳴った気がした。
完
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
もし、あなたの画面にまだ異常が起きていないなら、ページ上部から【ブックマーク】をして『生存確認』の印を残してください。
下部の【☆評価】は、失われた彼らへのせめてもの供養になります。
……どうか、次回の更新までご無事で。




