3.出会い
染谷一平は、漫画を描くため、よく喫茶マロウドを利用していた。自宅で描くより、このモダンな落ち着いた店内で描いたほうが、捗ったからだ。独りでこの喫茶店を経営する市江さんともすっかり顔馴染みだった。漫画を描くためだけでなく、リラックスする場としても使っていた。今日は連載漫画を描き終えたので、久々の休暇であった。マロウドの店内はいつも通り閑散としていた。ここを使う利用客は、地元の老人や商店街の関係者が多かった。この日は珍しくその老人や商店街の人間たちの姿は無い。独りでスマホを眺めながらアイスコーヒーを飲んでいると、独りの女性客が入ってきた。
染谷は、その姿を見てギョッとした。腰袋に袖なしの衣?何かの芸人か?それとも浮浪者か?わからなかったが、自分の憩いの時間をこの変な女に取られるのは嫌だった。隣には来ないでほしいと、心の中で願う。しかし、その願いは刹那的に散っていった。女は、自分の隣に腰を掛けると、やってきた市江さんに向かって、自分の飲んでいたコーヒーを指さした。女を横目で観察すると、髪はぱっつん前髪、所謂、ショートヘアでかなり若い。自分は今年で26歳になるが、自分より10個は歳が離れていそうだった。こんなに若くして浮浪者か?いや、芸人?いずれも考えにくい。だとしたら、何のコスプレだろう。最近の流行のファッションとも考えにくい。浮浪者にしては、独特の臭いもしない。染谷の脳内を色々な思考がグルグルと駆けまわるが、それらしい答えに考えつかなかった。やっぱり直接聞いてみるに過ぎないか?しかし、この平和なひと時をその女に取られてしまうのは、あまりにも勿体ない。もう少し様子を見よう。
女は、コーヒーを一気に飲み干すと、少し渋い顔をして、すぐに勘定の支度を始めた。その財布というのが、また変わったものだった。
麻袋を巾着にしたような形状で、現代ではまず使わないような代物だった。
女は、小銭を吟味した後、市江さんを呼んで、会計を済ませようとしたが、市江さんが、唖然とした表情で、立っている。
「あなた、このお金ここでは使えないよ」
驚いた口調で、そう告げた。何事かと見てみれば、その女は、古銭を出して払おうとしていた。染谷は、事の始終を見守るか、警察を呼ぶか、自分が支払うかの三択を迫られることになった。しかし、その女の手元にある古銭が妙に気になる。染谷は、大学時代の友人である康介に影響されて古銭収集を趣味としていた。
「市江さん、お姉さん、支払いなら僕がします。そのお金、ちょっと見せてくれないかな」
気が付くと、口と体が両方とも同時に動いていた。
女は、こちらを警戒している目で、下から上に目線を向けて、そっと手のひらを開けて、その古銭を染谷に見せてきた。
「富寿神宝」
と書かれたその古銭は、真ん中に四角い穴が空いていた。若干今の50円硬貨や5円硬貨と比較して精度が低いようにも思えたが、刻印は深く複雑なものだった。錆一つないその硬貨は女の掌の上で銅色にキラキラと輝いている。
「これどこで拾った?」
「私の金銭じゃ」
現代の言葉と少し違っている点があった。まるで、学校の古典の授業で習うような言葉。染谷は、大学で古典を専攻していたので、それを頼りに現代語に訳した。相手には、現代語は通じているようだった。
染谷は、とりあえず、女のコーヒー代を市江さんに支払った。女は礼を言い足早にその場を離れようとするが、染谷が手を引き止めた。
「さっきの銭もう一回見せてくれないか?」
女は麻袋の巾着を開くと、それを染谷に見せてくるのだった。染谷は、一枚一枚手に取り、吟味した。どれも、本物なら、かなり希少価値の高い物だった。
「君、名前はなんという?」
「時子」
「時子さんは、なんでここにいるの?」
「洞窟に入って、出られなくなって、目が覚めたらここに来ていた。あなたの名前は?」
「俺は染谷一平。漫画家をしている」
「漫画家?」
時子と名乗るその女は、演技をしているようには到底思えなかった。漫画家がどういう職業かというのも、知らないようだ。
商店街を歩く人々が、時折、気にしたようにこちらをちらちら覗いてくる。
「ここは、日本の京都という町だ。時子さんはどこから来た?」
「平安京」と、時子はぼそっと答えた。その後、こう続けた。
「元の世に戻る方法がわからない。どうやったら帰れる?」
訳すとこのような風だろう。
染谷は、嘘か誠かにわかに信じられなかったが、いったん時子の言うことを信じることにした。
「時子さん、何であなたが現代にいるのか俺もよくわからないが、一緒に元の世界に戻る方法を考えよう」
時子は、無言でこくりと頷いた。
ひとまず、彼女にそれまでの衣食住を与えてあげる必要があると思った。染谷は、また、喫茶マロウドに戻った。そして、市江さんに事の経緯を説明し、しばらく泊めて貰うことが出来ないか訊ねた。
市江さんは驚いた様子だったが、使ってない部屋があるといって、そこを貸してくれると言った。染谷は、財布から3万円を出すと、それを押し付けるように市江さんに渡した。
「そんなの要らないのに」と何度も断る市江さんだったが、得体の知れない人間を泊めさせてもらうのに、何もなしというわけには行かないと染谷は思った。