2歳になりまして、ただいま言葉拡張中。侍女と歩む異世界の日常③
「もう二歳?!」
エミーが目を丸くしながら、私を抱き上げたまま嬉しそうに声を弾ませる。気がつけば私、赤ちゃんから“幼児”に差し掛かっていたらしい。前世の感覚では当たり前の年齢の流れだけど、いまの私にとっては大きな区切り。なぜなら、生まれ落ちてから約一年半、いろいろなことがあったものの、ようやく「二足歩行」に近づいたり「単語」を口にしたりと“幼児的”成長が実感できるようになってきたのだ。
もっとも、まだ「よちよち歩き」が完璧になったわけではないし、長い文章をペラペラしゃべれるわけでもない。それでも、1歳前後のころとは確実に違う。バランスを崩して転んだりもするが、エミーとローザが「大丈夫だよー!」と支えてくれるし、何より「立ち上がる!」という意志に身体が応えてくれるようになった。それだけで、私の世界観はずいぶん変わってきた。
正直、前世の知識や理屈をもってすれば、もっとスムーズに歩けたり話せたりしてもいいんじゃないか? なんて思ってしまう瞬間はある。だけど、私の脳や筋肉は“幼児”のレベルにしか発達していないから、理屈でわかっていても体が思うように動かないのだ。たとえば、“右足を出して、重心を移動して……”と頭で考えても、実際にはフラついて尻餅をついてしまう。
同じように、言葉を理解していても発音がついてこない。口や舌がうまく回らず、「あ……う……」レベルの音しか出ないこともしょっちゅう。私の精神は大人でも、身体が現実的に追いつかない。これが“赤ちゃんとして生まれ直した”という宿命なんだ、と半ば諦めながらも、日々奮闘している。
しかし、それが悪いことばかりでもない。前世のように焦って時間に追われる生活ではなく、日々の小さな変化に喜びを感じながら成長できるのは、むしろ贅沢な体験かもしれない。歩行の練習で2~3歩進むだけでも、エミーとローザは「すごいすごい!」と目を輝かせてくれる。大人としては気恥ずかしくもあるが、体が“子ども”だとこうも感情を丸ごと受け止めてしまう。表情も自然とほころんでしまうのだ。
「リア? ラント? ナッサ……」
私が口の中でごにょごにょと音を転がすようにしてしゃべっていると、エミーが「え、今“ラント”って言った!?」と大興奮。横でローザも「すごい! もっと言って!」と顔を寄せてくる。私は半ば恥ずかしがりながら、もう一度「ラ……ント?」と繰り返す。うまく発音できているのか分からないけど、二人が「やったー!」と喜ぶ様子を見ると、こちらもつい照れ笑いしながら達成感を味わってしまう。
“ラント”はどうやら“仕事”や“何か頑張ること”を指す単語らしく、侍女や兵士がしょっちゅう使っている。私がよちよち歩きの練習をするときもエミーやローザが「ラントだね~」と励ましてくれたりするので、頑張ること=ラント、的なニュアンスをなんとなく感じ取っている。
ほかにも、「ラトゥ」は“寝る”、「ナッサ」は“いいね/かわいいね”、「イクラ」は“ごはん”のようなニュアンス――これらはだいぶ言い慣れてきた。以前は「ナッ…ッサ」と変な区切れになったりしていたのが、2歳を迎えたころにはもっと滑らかに「ナッサ!」と言えている。もっとも周囲からすると全然滑らかじゃないかもしれないけど、私なりのレベルアップを感じる。
私が2歳に近づいたあたりから、エミーとローザの立ち位置もちょっとだけ変化している。以前は“何をするにも二人揃ってオロオロ”していたのが、最近は家の人々から信頼されるようになったのか、主に私の世話を任されるケースが増えたようだ。先輩侍女に叱られる頻度も減ったらしく、時々エミーが「最近褒められちゃった」と言っているかのように、鼻高々な態度をとることがある。
ローザは相変わらず素直で天真爛漫だけど、一年前に比べると背が伸びたような気がするし、受け答えにも落ち着きを感じる。そりゃ私も成長するが、彼女たちも年を重ねているわけで、精神的にも少しずつ大人びているのかも。
とはいえ、二人ともまだまだ子どもと言える年齢だから、私との「遊び」に全力で盛り上がってくれる。床に寝転がって、私のはいはいを応援したり、変な歌を即興で作って私をあやしてみたり、時には「ねえ、こっちおいで~」と鬼ごっこみたいなことをしたり。私が転べば本気で心配して、泣きそうになる。ある意味、姉妹のような温かい雰囲気だ。
私が2歳を迎えてからしばらく経ったある日のこと。部屋の隅で伝い歩きをしていると、ふと「もういけるかも」という気持ちが込み上がった。手を離してみたら、意外にも2、3歩は何とか進めたのだ。ドキドキしながらもう一歩、もう一歩……と慎重に足を運ぶ。
結果、5歩くらい歩いたところで転んでしまったが、エミーとローザが「すごいよ! 見た? いま歩いたよね!?」と言っているかのように、めちゃくちゃ盛り上がっている。私も心臓がバクバクしているが、それ以上に「歩けるって、こんなにすごいことなんだ……」という興奮に包まれていた。
なるほど、これが“幼児の初歩き”か。前世でそんな記憶はもちろんないのだけれど、体の構造が未発達な状態からいきなり重力に逆らって歩くのって、ものすごい挑戦なんだと身をもって知る。私の精神は大人でも、体が本当に頑張って動いてくれないと成立しない行為なのだ。
この「数歩でも歩ける」という経験は、私の世界をまた少し広げた。エミーやローザの手を借りずに物を取りに行けたり、扉のほうへ向かおうと試みたり。“はいはい”よりはスピードは遅いかもしれないが、“人間の歩行”には独特の気持ちよさや達成感がある。侍女たちも、言葉の意味は全部はわからないが、とにかく褒めてくれるから、モチベーションが高まるばかりだ。
ここで問題というか、実感として不思議なのが、“体が成長すると、それに連れて心も子どもっぽくなる”ということだ。前世の大人の記憶があるとはいえ、最近は素直に感情を表に出したり、ちょっとしたことで嬉しくなって笑ったりする自分に驚くことが多い。
例えば、エミーに「偉いね~」「よくやったね~」と頭を撫でられると、前世の自分だったら「そんな子ども扱いしないで」なんて思ったかもしれない。だけど今は「あ、撫でられて気持ちいい……もっと撫でて~」と心から嬉しくなる。あまつさえ、ローザが抱っこしてくれたりすると、安心感で目を瞑ってしまったり。
これは、本能的なものなのか、“幼児の体”が私の脳や精神に与える影響なのか、あるいは両方なのかもしれない。確かに前世の大人感覚が消えたわけではないが、“子どもとして振る舞うほうがしっくりくる”シチュエーションが増えている感じだ。最初は抵抗があったけど、今は「これもアリか」と受け入れ始めている。
同時に、理屈では「家臣の反乱やクーデターが怖い」「暗殺されたらどうしよう」といった不安を持ちながらも、“子ども”としての日常に幸せを感じている自分がいる。寝る前にローザが子守唄のようなものを口ずさむと、それに身を委ねてすぐ寝落ちしたり、食事の際にエミーがスプーンで口元まで運んでくれれば、多少苦いものも頑張って食べてしまう。
この相反する感覚──「大人としての警戒心」と「子どもとしての安心感」──が混在しているのが、私の一番のキーポイントだろうか。今のところは安全そうだし、私ができるのは成長を続けることだけ。だから、もう少しこの“子どもの感情”に身を任せていいんじゃないか、と思うようになった。
2歳になった私は、ほぼ毎日、「はいはいと伝い歩き」「簡単な単語の練習」「侍女たちと遊ぶ」「食事をする」「昼寝や夜の睡眠」といったスケジュールで過ごしている。1歳だったころよりは運動量が増え、言葉の稽古も欠かさずやっているので、それなりに疲れやすい。でもその疲れが気持ちよかったりするから不思議だ。
エミーは私を抱っこして「きょうはリア、すごく“ラント”したね!」と褒めてくれたり、ローザは「じゃあラトゥしようか」と寝かしつけの準備をしてくれたり。そういう風に単語がやりとりされるたびに、「おお、コミュニケーションが通じ合ってる……!」と感動する。まだぎこちなくても、確かに“会話”らしきものが成り立っている気がするのだ。
そして、私のことを「リア」と呼んでいるが、「リアンナ」と呼ぶこともある。どうやら、これが私の名前らしい。
屋敷の外庭へ出る機会も増え、ちょっとした冒険心をくすぐられている。まだ自由に駆け回れるわけじゃないが、エミーやローザの手を借りれば少し遠くまで歩いて花を見たり、小さな虫に驚いたりして大騒ぎしている。
ある日、蝶がふわりと舞い降りてきたとき、私はそれを追いかけようとして思いきり転んでしまった。ひざを少し擦りむいて泣きそうになったが、エミーが抱きしめて優しく慰めてくれ、ローザも、元気づけるようななにかと声をかけてくれた。
結局、痛みはあったものの、すぐにまとめ役らしく女性のところに連れていかれ、さっと手当てされて、何かはげますような言葉を言われてしまった。痛いのはイヤだけど、こんな風に皆に構われるのは、やっぱりどこか悪くない……と思ってしまうあたり、やはり私も幼児化しているのかもしれない。
2歳になって、言葉と歩行の練習を積み重ねているうちに、私の感情の大半が“幼児”としての素直さに染まりつつある。前世ではあり得なかったような感情の揺れが頻繁に起こり、「あれ? 私、大人のはずじゃ……」と戸惑う瞬間もあるが、もうそこまで違和感を覚えなくなってきた。身体が“幼児”なら、心だって自然に寄り添うものなのかもしれない。
これが今の私にとって最大のキーポイントかもしれない。“前世の知識と理性”はあるのに、“身体の発達や情緒”が幼児そのものだから、どうしても二つの感覚が衝突する場面がある。でも、だんだん“幼児モード”に身を任せるほうがラクで幸福感があるのを知ってしまったのだ。
もちろん、現実的な不安──クーデター、陰謀、領地の政治──はいつか目の前に立ちはだかるだろう。でも、それまでは体を育て、言葉を学び、少しずつ世界を知っていけばいいと腹をくくっている。何より、私は今、エミーやローザの優しさに包まれ、安全を確保されながら、ささやかで幸せな“幼児ライフ”を過ごしているのだから。
エミーとローザは、一人で歩けるようになる日を心待ちにしているらしい。何せ、一人歩きできれば、私ももっと自由に動けるし、二人にとっても少し手が離れてラクになるかもしれない。
私は私で、「早く歩きたい!」という欲求もあれば、「転んで痛い思いするのはイヤだな」という赤ちゃん的な恐れもある。それでも、この幼児の身体が見せる成長力はすさまじい。あと数か月、あるいは半年ほどで、もっとスムーズに足を運べるようになるだろう。
言葉も同様に、“もう少しで何かが弾ける”と思っている。すでに単語単位ならかなりキャッチできているし、私自身が思わず口をついて出る音の精度も上がってきた。2歳半くらいになったら、短いフレーズを言えて、エミーやローザとちょっとした会話ができるかもしれない。それを想像するとワクワクが止まらない。
一方、前世の理屈で考えれば、「子どもは3歳ごろから急激に言葉を覚え始める」というイメージがある。つまり、あと1年もすれば私なりにコミュニケーションをかなり高度に取れるようになるはず……と思うと、クーデターや陰謀への対応も、やっと少しは可能になるのかもしれない。まだ先の話だけど、希望は捨てていない。
こうして、2歳を迎えてからの私は、“体の影響を強く受ける精神”と共存しながら、まるで本物の子どもみたいに素直に笑い、泣き、喜び、怖がっている。前世の自分なら「こんな感情の振れ幅、恥ずかしくないか?」とツッコミを入れていたかもしれないが、不思議と抵抗感が薄れてきた。
なにしろ、エミーやローザが、私のありのままを見てくれているのだ。彼女たちにとって私は、大切なご主人様でありながらも、いつも抱きしめたい“可愛い子”でもある。その光が私の不安や警戒心を和らげて、体の本能と心がバランスを取っているような気がする。
まだまだ先は長いけれど、2歳に突入した今、私の歩幅は少し広がり、単語のレパートリーも増え、侍女たちとの絆も深まっていく。精神が大人でも、幼児化した体はそのまま。そして、この体こそが私の現実なのだ。それを受け入れ、いかに“今この瞬間”を楽しみ、身につけるべきものを吸収するか──それが、領主として遠い将来に備える最初のステップだろう。
いつか、大きな試練が待っているのかもしれない。いや、私の置かれた立場からすれば、それが待っていないわけがないだろう。貴族であれば、特権はあるが、義務も、そして危険も背負うことになる。しかし、今は、成長することだけを考えればいい。
ふと、前世の憲法を思い出す。日本国憲法では、戦前まであった華族制度は廃止された(例外として皇族に関する制度は存置された。)。かつて華族はいろいろと特権があってよかったろう、と思っていたが、どうやら、それだけではなく、いろいろと負担もあったらしい。今だって華族制度は無くなっても、歴史のある家とか、企業の経営者の家とか、そういうところに産まれた人は、豊かさだけではなくて、責任も引き受けているだろう。制度がなんであれ、人は、良くも悪くも、自分の産まれに大きく左右されるということか。
これから先の数か月、きっと私はもっと歩けるようになり、もっとしゃべれるようになる。エミーとローザの優しさに包まれながら、私は“幼児”としての生活を謳歌しつつ、同時に“前世の知識と理屈”を小さな頭の片隅で磨いていく。それが今のところ、私に与えられたこの新しい人生、異世界転生の“幼児ライフ”なのだから……。
前世日本 日本国憲法
第14条1項 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
同2項 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
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