女の体に慣れないまま、マナーの女王を出迎えます
朝の空気が、ひんやりした心地よい冷たさをもって部屋に入り込んでいた。窓辺には淡い光が差し、うっすらと薄青い空の気配がうかがえる。私は寝台の上で、少し背中を丸めながらゆっくりと身体を起こす――まだ腰が重く、下腹部にもじわりとした痛みがあって、起床の動作一つが気合いを要する状態だ。それでも、数日前に比べれば随分とマシになった。まるで死にそうな苦しさだった初潮の衝撃は一応ひと段落つき、気持ちも体調も多少なりとも安定してきたと言える。
「……はあ。まだ完全じゃないな……」
息を吐き出しつつ、まずは足を床につけて立ち上がる。誕生日を迎えた途端にこんな大騒ぎになるなんて予想もしていなかった。痛みと嫌悪感に襲われ、侍女のエミーやローザに迷惑をかけっぱなしになったことを思い出すと、胸がぎゅっと小さく締まってしまう。とはいえ今は後ろばかり見ていられない。やっと体が動くようになった今こそ、当主見習いとしての仕事にも戻りたいし、今日は午後に“マダム・ルディア”が来訪するそうだ。いきなり重い予定とは、どうにも落ち着かない一日になりそうだ。
「こんな身体で……ちゃんと乗り切れるかな」
呟いてみても、返事はない。そこにノックの音が聞こえ、ドアの向こうからローザが「お嬢様、おはようございます。失礼しますね」と顔をのぞかせた。私はまだ寝巻き姿で、慌てて髪を撫でながら苦笑する。
「ローザ、おはよう。今日はちょっと遅めの起きになっちゃった。まだ腰が痛くてね……」
「ああ、やっぱり。大丈夫ですか? 無理は禁物ですよ。朝ごはんはもう用意できてますけど、少しでも食べられそうですか?」
私は「うん……ありがと、ちゃんと食べる」と頷いてみせる。ここ数日は本当に人に支えられてばかりだ。恥ずかしい気持ちもあれど、こうして健康な日常へ戻れるのはみんなのおかげなんだと痛感する。前世が男だった自分が今こうして少女の身体に翻弄される状態とはいえ、孤独ではないことが救いになっている。
「じゃあ……着替えて、食堂に行くよ」
「はい。お手伝いしましょうか?」
「助かる……でも、あんまり手伝わないで。ひとりで立ち回れるくらいにはなりたいし……ね」
「承知しました。それでは隣で見守ってますね。危なくなったらすぐ声をかけてください」
ローザがそんなふうに見守る中、私は苦労しながらも寝巻きを脱ぎ捨て、簡易的なワンピースタイプの服へ袖を通す。ドレスまでは着ないが、伯爵家の当主見習いとして最低限の見た目は整えないといけない。腰をギュッと締め付けない服を選んだのは痛みを考慮してのことだが、見栄えのバランスもあって意外と悪くない。少しだけ鏡を見て、髪を整えたら顔を洗いに行く。
洗面の水が、きゅっと肌を引き締めてくれる。それだけで「よし、今日も一日がんばろう」という気が高まるような気がした。まだ体の芯にうずく痛みはあるし、昨日までの違和感が消えたわけではないが、今日はとにかく立ち続けることはできそうだ。痛みを理由に後ろ向きになるのはやめよう。誕生日からこっち、散々落ち込んだし、侍女に迷惑をかけたぶん巻き返したい。
そう思いながら部屋に戻ってくると、ローザが「少し腰をさすってあげましょうか」と提案してくれる。私は恥ずかしい気持ちになりながらも、「助かる……」と素直に甘える。数日前の自分なら「嫌だ、見ないで、触らないで」と言っていたかもしれないが、痛みがあると何もできない。体はまだ子どもだし、前世の男だったプライドはそろそろ邪魔になってきている。これが私の現実なのだから、必要なときには助けてもらうほうが断然いい。
「それじゃあ、食堂行こっか……今日からまた仕事する予定だし、午前中に少し片づけておきたい書類もあるし」
「はい、あまり頑張りすぎない程度にお願いしますね。午後にはあの“マダム・ルディア”もいらっしゃるわけですし」
「うん……わかってる」
顔を曇らせないように気をつけながら頷く。そう、午後にはマダム・ルディア。彼女は貴族子弟へのマナーレッスンを専門に行っている女性で、前に一度みっちり鍛えられた記憶がある。どんなに痛くても「姿勢が甘い」「歩き方が雑」などとビシビシ指摘される可能性大で、私はちょっと身がすくむ。しかも、マダムは私の体調不良を知らずに来るらしく、何も容赦せず容赦なく指導してくるに違いない。想像だけでため息が出るが、幸か不幸か、私にはそれを拒む権利があまりない。伯爵家当主(見習い)として、社交に必要なスキルを会得するのは避けて通れないからだ。
そっとお腹や腰をさすりながら、私はローザとともに廊下をゆっくり歩く。こうして身体を起こして数分も経たないうちに、痛みがじわりじわりと広がり始めるが、我慢できなくはない。これが“毎月続く”とわかったときは絶望しか感じなかったけれど、少なくとも今は呼吸と意志である程度こらえられる段階に来ている。ほんの小さな進歩だとしても、胸を張って“私ががんばった結果”だと思いたい。
食堂へ足を運ぶと、エミーが「おはようございます、お嬢様」と微笑んでくれる。テーブルには温かいスープやパン、野菜がバランスよく並んでいて、一見しただけでお腹がすくようなメニューがうれしい。私はほんの少しだけ腰をかがめてイスに座ると、体の奥がギュッと警報を鳴らした。でも朝ならまだ耐えられる気がする。
「いただきます……。いや、本当に腹が減ってるっぽい。昨日もそこまで食べられなかったし……」
「ゆっくり召し上がってくださいね。あまり一気に食べると痛みも出てしまうかもしれませんし」
「うん、わかった」
そう言いつつ、私はスプーンを手にとってスープをひと口すする。野菜の甘みが口に広がって思わず目を細める。こんなふうに落ち着いて朝食を食べられるのは久々な気がする。誕生日直後の大パニックから続いた鬱屈で、まともに味わう気力もなかったから、今は素直にありがたいと感じる。
「そういえば、朝ごはん食べたら、少し仕事をしようと思うんだ。溜まってる書類があるし、あと多少は勉強もしないと」
「はい、お嬢様のペースでなさってください。お痛みがひどくなれば、無理は禁物ですよ?」
「わかってる。腰が限界なら休むから……ありがとう、エミー」
微笑みを交わす。そのときローザが「あ、それと……あと二時間ほどでマダム・ルディアがいらっしゃいますから、体力を残しておいてくださいね」と声をかける。私は「あ、そっか、そうだった……」と内心で苦笑する。時間があるようで意外とない。レッスンなんて本調子でも疲れるのに、この状態で臨むとか怖いな……と考え、スプーンを握る手が止まってしまった。
「……やるしかないか。仕方ないよね……」
呟くように言って、またスープをすすり始める。前世で男だった私はこういう“マナー”や“ドレス姿での動作”なんて本当に苦手なのに、伯爵家当主として社交に出るためには必須スキルだという。この体調でレッスンなんて正気かと思う反面、逃げたところで後が大変だろうし……。とにかく、朝のうちに力を蓄えておくしかない。
そうして食事を終え、背筋を伸ばしてイスから立ち上がる。腰に少し痛みが走るが、昨日よりはいくらかマシに違いないと自分を鼓舞し、部屋に戻った。そこには当主見習いとして学ぶべき資料がたんまりと溜まっているのがわかる。一瞬うんざりするが、仕事に集中すれば痛みも紛れるかもしれないと考え、机に向かうことにする。
引き出しを開けると、王都からの書簡や近隣の領地からの通達、村の状況報告などが目につく。私はそれらを整理しながら読み進め、必要なメモを取っていく。小一時間も経つと腰が悲鳴を上げてきたので、いったん立ち上がって部屋をうろうろ歩きまわる。歩けばまた痛むが、座りっぱなしよりはマシかもしれない。
「ふう……これ、毎月こんな状態になるのか……やっぱり考えるだけで憂鬱」
悪態をつくように独り言が出る。だけど、この数日で身に染みて思うのは“我慢できない痛みではない”ということ。最初は初潮の衝撃で泣き叫んだが、今はなんとか立ち上がって書類仕事もできる程度には落ち着いている。成長しているのだろうか、自分でもよくわからないけれど、確かに少しずつ動けるようになっている。
そうこうしているうちに、ローザがドアをノックして入ってきた。「お嬢様、お昼時ですけれど……まだ少しお時間はありますが、午後はマダムがいらっしゃいますし、準備を進めておきませんか?」と促される。時計代わりの魔道具をちらりと見やると、もう昼を回っていることに気づく。
「あ、もうそんな時間か……集中してたらすぐだね。まあ、このへんで切り上げるか……。仕事っていってもあまり無理しないほうがいいのかも」
「そうですね。お体を休めながら進めないと、せっかく回復してきたのに逆戻りしちゃったら大変ですよ」
「うん……わかった。ありがとう。じゃあ昼ごはんを軽く食べようかな」
私は立ち上がると腰に鈍痛が響いて「うぐ……」と呻きかけたが、なんとかごまかした。こんな調子でマダムに会えば、姿勢をビシッと保つなんて拷問以外の何物でもないんじゃ……と頭がよぎるが、ぐずっていられない。当主見習いなら仕事や勉強のほかにもマナーを身につけなきゃならないのだ。暗殺や毒など恐れていた頃よりは、まだいい――そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと廊下を歩き始める。
昼食は朝ほどは量を増やしていないらしく、スープと軽いパン、温野菜を中心とした簡素なメニュー。エミーが「午後はレッスンだから、重いものは避けたほうがいいかと思いまして」と言うので、私は「さすが……ありがとう」と返す。実際、お腹いっぱいになると腰痛も増幅する気がして怖いし、そこまでガツガツ食べなくても大丈夫そうだ。こうして少しずつ体に配慮する習慣を身につけるのも、今回の出来事が教訓になったと思えば悪くはない。
「ああ、もう時間が迫ってきたかも……」
およそ1時間ほど経つと、館の使用人が「マダム・ルディアがあと30分ほどで到着されるそうです」と告げにきた。私は姿勢を伸ばしながら眉をひそめる。いよいよか……。手が自然と腰へ行き、“痛みはどうだ”と探ってしまう。まだズキッと引っ張られるような感覚はあるが、動けなくはない。心のなかで「耐えよう」とつぶやく。
エミーが小走りで近づいてきて、「お嬢様、マダムのための応接間はもう整えました。お衣装などはどうなさいますか?」と聞いてくる。私は、大事をとって、軽めの正装を選択することに決める。腰を締め付けないデザインで、それなりにきちんと見えるもの。無理をすればマダムの前で倒れ込む可能性だってある。
「それでいいですよね……マダムは私の体調を知らないけど、これで十分形にはなるはず。実際、ドレスは今ちょっと厳しい」
「わかりました。では、そのままの服装に軽くリボンを添えて雰囲気を出しましょう。それでも十分でしょう」
エミーが手際よくリボンを取り出し、私の腰回りと肩のあたりに少し装飾をつけてくれる。これはマダム好みの装いからは外れているかもしれないが、私が万全でない以上、最低限の礼儀を尽くす形にしておこう。腰がきゅうっと痛むたびに表情が歪みそうになるが、エミーとローザに支えられつつ支度を済ませる。
立ちあがって鏡を覗くと、なるほど簡易ドレスのようにも見えるし、可憐な雰囲気が出て悪くない。これならマダムに「準備不足ね」と言われることもないだろう。私は深く息を吐いて、自分に気合いを入れる。仕事復帰の初日だし、マダムのレッスンなんてハードルが高すぎるが、ここで怯んでいたら先に進めない。
「よし……。あとは待つだけ、だね。痛みと付き合いつつ、マダムを迎え撃とう」
「はい。無理しちゃダメですよ」
ローザの優しげな声に返事をして、私は廊下をひと歩きする。痛むけれど、昨日一昨日のように耐えられないほどじゃない。何とかここまで来られた自分を褒めたい気持ちもあるし、まだ身体の底で「女として成長するのが嫌だ」という思いがくすぶっているのも確かだ。でも、もう引き返せない。私が伯爵家を継ぐのも、この体が女として変わっていくのも、すべては「今」を生きるために受け入れるしかないのだから。
やがて玄関から、「マダム・ルディア様がご到着されました」という声が響く。私は腰の痛みをぐっとこらえ、背筋を伸ばし、エミーとローザの視線を感じながら「行こう」と呟いた。二人は不安そうな顔を浮かべているが、私は軽く笑ってみせる。
「大丈夫……たぶん。行ってきます」
そう言い残して、私は廊下を進む。扉の向こうにはきっと容赦ないレッスンが待っているに違いない。マダムは私の体調を知らないから、遠慮なく指摘や注意を浴びせてくるだろう。しかし、今の私は逃げない。痛みをこらえながら一歩ずつ前へ出る。もう12歳になった。体はまだこの状態だけれど、気持ちまで止まってはいられない。前世が男だった自分が頭の隅で抵抗しているのを感じても、ここで踏み込まなければ何も始まらないのだ。
玄関ホールに足を踏み入れると、そこに立っているのは豪華な巻き髪と優雅なドレス姿のマダム・ルディア。私を見るなり、「まあ、リアンナお嬢様」といつもの調子で朗らかに声をかけてくる。私は腰に響く痛みをぎゅっと飲み込みながら、優雅な微笑みを作って応対した。
「マダム・ルディア、ごきげんよう……本日はよろしくお願いいたします」
全身に緊張が走るが、ここが私の踏ん張りどころ。そう、ここからが本番――今日のレッスンが厳しいのはわかりきっているし、痛みもあるが、私はもう泣いたり引きこもったりはしない。これが当主見習いとしての自分の道。誕生日直後にあった大騒ぎから、やっと一歩進んだ自覚がある。痛みも違和感も、今だけは封じ込めて、マダムが望む“貴族の礼儀作法”をちゃんと身につけてやる。そう決意しつつ、私は軽くひざを折って挨拶し、マダムを応接室へ案内する。
ドアを開ければ、広い室内に柔らかい絨毯が敷かれ、午後のやわらかい陽光が差し込んでいる。ここでレッスンが行われるのだ。マダムは私の背後を「あら、前に会ったときより姿勢が少し良くなっているわね」と観察するような眼差しを向けてくる。私は「そうですか……ありがとうございます」と返しつつ、内心で「できるだけ痛そうな顔は見せないようにしないと」と気を引き締める。彼女に体調のことは知られていないから、余計にいつも通りの厳しさで臨まれるのは目に見えている。
(やるしかない。よし、頑張ろう)
心の中で強くつぶやいて、私はマダム・ルディアに「どうぞ、こちらへ」と招きの言葉をかける。マダムは流れるような動作で部屋に入り、私はその背後で続く。腰の痛みはまだ騒ぎ立てるが、悲鳴を上げるわけにはいかない。これが私の現実だから、何とか乗り越えたい。
ここから先、私がどれほどの試練を味わうかは、マダムに委ねられているのだ――。
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