揺れる思い出と、私たちの場所
朝の澄んだ光が廊下をゆったりと包んでいる。まだ人の気配が薄い時間帯に、私はいつもより少し早く目を覚まし、館の奥へと足を進めた。大きく伸びをして、一度深呼吸。なんだか落ち着かない気分だった。
今日も当主(見習い)としての勉強があるし、領内のこまごまとした相談は山ほどある。摂政を務めるボリスさんや侍女長のベアトリーチェからも、覚えるべきことを次々に提示されるだろう。それでも、今の私が最も気になっているのは、両親のこと。私は生まれてすぐに母を失い、1歳にもならないうちに父も亡くしたため、ふたりの顔や声をほとんど知らない。
(母は病気で、父は事故で……。私がここにこうして立っているのは、あの人たちの遺した領地を守るため……だよね)
それは幼いころから聞かされていた事実だけれど、私は両親の姿を頭の中で具体的に描くことができない。愛情を注がれた記憶も何もないまま、ただ“存在していた”と人から聞くだけ。それが、妙にむずがゆい。別に寂しさを訴えているわけではないのに、やっぱり知りたい気持ちが抑えられないのだ。
朝食を済ませ、勉強と実務練習を兼ねる執務室へ入ると、ベアトリーチェが書類の束を整頓していた。王都や近隣領地との情報交換、領民の陳情、慣習の確認など、多種多様な資料だ。私は机に腰かけ、ゆっくり深呼吸をしてから手を伸ばす。
「今日もよろしくお願いしますね、お嬢様」とベアトリーチェが静かな声で言う。私はうなずき、「はい。少しずつでも覚えていきます」と返事をする。まだ11歳の身で、当主としては半人前どころか四半人前かもしれない。でも、前へ進まないわけにはいかないのだ。
書類のなかでも目を引くのが、先日棚から見つかった古いファイル。私が生まれたときの“お嬢様誕生祝い・準備委員名簿”と銘打たれたものだ。それには、領内の使用人や当時の侍女たちの名前がびっしりと記されていた。きっと父や母に関する記述も、どこかに少しはあるかもしれない。ただ、そのファイルを開くと胸がざわついてしまう自分がいて、私はまだまともに読み返せずにいる。
午前中、書類をある程度片づけてから、ベアトリーチェに一礼して席を立つ。ちょうどいい休憩時間だ。廊下を抜けて、館の一角にある控え室で軽くお茶でも飲もうかと思ったところに、侍女のローザが声をかけてくる。
「お嬢様、お疲れさまです。少し休みませんか? ハーブティーを用意しましたよ」
エミーも微笑みながら、「そろそろ目と頭を休めるころですね」と続ける。ふたりとも私より年上で、伯爵家に長く仕えている侍女だ。人手不足だった時期も含め、幼いころから私を助けてくれている存在でもある。
「ありがとう、ちょうど休みたかったの」と言いながら、私は控え室のソファに腰をおろす。カップから立ち上る香りを吸い込み、ほっと肩の力が抜けた。
そして、心のなかに渦巻いていた疑問がつい言葉になってこぼれ出る。
「ねえ、エミー。ローザ。私、両親のことをほとんど覚えてないでしょう? 母は病気で、父は事故で、すぐにいなくなっちゃった……。それを今さら言ってもどうにもならないんだけど、それでも……やっぱり何か知りたいんだ。あの人たちが、どんな考えでこの領地を守っていたのか、とか……」
ふたりは視線を交わし合い、そっと表情を引き締めたあと、ローザが苦笑まじりに口を開いた。
「私たちも当時は見習い侍女で、あまり詳しいことはわからないんです。お嬢様のお母様は産後の肥立ちが悪く、そのまま病床に伏してしまわれて……。お父様は公務で忙しく、家をあまり空けられない状況が続いていたと聞きました。最終的には事故に遭われて……」
「そう。だから、私たちも直接お話しできたわけじゃなくて、先輩侍女や周囲の大人から伝え聞いただけ。お二人がどんな方だったのか、ほんのかすかな断片しか知らないんです」
エミーが静かに言うのを聞いて、私はため息をつく。ここにいる誰もが当時のことを詳しく知っているわけではない。もしかすると、母と父について掘り下げようとしても、大きな手がかりは得られないかもしれない。
それでも、私はぼんやりした胸の痛みを抱えてしまう。親という存在が“そうだったんだ”と他人事みたいにしか語れない自分と、伯爵家当主(見習い)としての肩書きが、どうにも噛み合わないように感じられる。
「そっか……。うん、ありがとう。大丈夫。無理に聞くつもりはなかったんだけど、どうしても一度は……と思って」
カップをいったんテーブルに置き、私は深いため息をついた。エミーとローザは、困ったようにしかし温かな視線を向けてくれている。彼女たちの優しさが、私を救ってくれることは何度もあったけれど、両親を知らない私のこの気持ちまでは、さすがにどうにもならないのかもしれない。
午後になり、私はまた書類仕事を進める。ボリスさんとの相談も必要だ。彼はもともと父の補佐をしていたらしく、両親が健在だったころのことを少し知っているようだが、あまり詳しく話してはくれない。摂政として領地を運営する役回りに専念している彼にとっては、過去を振り返るより、今の案件を片づけるほうが大事なのだろう。
夕方を迎えるころには、頭がぐったりと疲弊していた。たくさんの報告や要望を一通り読み込み、ベアトリーチェにまとめておいた疑問点を伝える。習わなければいけない慣習も複雑で、今日はもうこれ以上詰め込めそうにない。
夜、寝室に戻り、私は暗い天井を見つめながらひとりで考える。母は病気で、父は事故で失われた。それは揺るぎない現実としてこの伯爵家に残っている。暗殺の陰謀や政治的対立があったわけでもなく、たった数年の幼さを待たずして両親のいない道を歩み始めた私。そういえば、ほんの幼いころに「どうして私だけ親がいないの?」と思った記憶があった気がする。でも、その疑問を口にしたところで、誰も答えをくれるわけじゃなかった。
(でも、今の私にできることは、この領地を守ること。両親がどんな人だったかを掘り下げるより、まずは当主として一人前になるほうが大事なんだ……)
そう頭では理解している。だけど、少しだけ、心の中で何かがくすぶっている。両親の人生のどこかに、私が生まれてきた理由――それを読み解く小さな手がかりがあるかもしれない。あの古いファイルや書庫の資料を見れば、何かしら父や母の行動の記録があるのではないか。もしかすると、それが今の私の根拠になるかもしれない。
翌朝、また少し早く目が覚めて、私は書庫へ足を向ける。古い棚には埃をかぶった文書や記録がいくつも詰まっている。いつか本格的に整理しなきゃとベアトリーチェが言っていたけれど、まだまだ手が回っていないのだ。
「今の私に余裕があるかわからないけど……せっかくだし、探せるものは探そう」
そう呟いて、棚を一つずつ開けはじめる。何十年も前の行事報告や、家臣の記録帳などが散乱していて、どれを読めばいいのかもわからない。けれど、見つからないとわかっていても、行動しないよりましだと感じた。
先日見つかった“お嬢様誕生祝い・準備委員名簿”のファイルも手元にある。そこには母と父の名前が、形式的にしか載っていないかもしれないけれど、もしかすると誰かのメモ欄にちょっとした言及があるかもしれない。小さなことでもいいから、知りたいのだ。自分がこの伯爵家に生まれ落ちた意味を。
埃がふわりと舞い上がり、朝の光の筋がそれを照らしてキラキラと浮かび上がる。私は何冊かを手に取り、そっとページをめくってみる。文字が薄れて読みづらいものもあるが、多少の手間をかければ解読できそうだ。
(父と母がどんな言葉を残していたのか、見つかるかな……)
そう考えるだけで胸が高鳴る。両親と直接会話したわけでもなく、大切に抱かれたわけでもない私だけれど、たった数行でも思いを感じられる手がかりを発見できるなら、そこから一歩踏み出せる気がする。
古い紙の手触りを感じながら、私は静かに読み始める。小さな冒険が始まったような心地だ。全部が徒労に終わるかもしれないけれど、何もしないよりは進みがある。いつか、正式に伯爵家当主として立つとき、両親のことをほんの少しでも語れる自分になりたい――そんな願いを抱いて。
朝の太陽が書庫の窓を通して差し込み、ページを照らし出す。そこにはかすれた文字で誰かの書き付けが……。ほんの数行を読んだだけで、いつもとは違う緊張が走った。見慣れない名前、見慣れない出来事。もしかすると、母や父のことが書かれているかもしれない。私は息をつめて、そのまま読み進めていった。
もし父と母が生きていてくれたら、私は何を話せただろう。伯爵家当主としての苦労話か、それともごく普通の親子の会話か。答えは出ないけれど、いつか何かを見つけて、心をそっと支えてくれる証を手にする日が来るかもしれない。それを信じて、私はページをめくり続ける。
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