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あの日の私を支えてくれた人たち

 朝の光が、まだほのかに眠たげな廊下を横切るように伸びている。さわさわと窓辺のカーテンを揺らす風が、ほんのりと涼しくて心地いい。私は今日も、“伯爵家当主としての見習い”をこなすため、マルディネール伯爵領の領主館内を歩いていた。


 「……ふぁ……」


 つい、あくびが漏れてしまう。昨日まで続いていた“お茶会”の準備や片付けが、体に重くのしかかっているのかもしれない。私はまだ11歳で、もうすぐ12歳――でも、伯爵家当主になるべく勉強中の身として、そうそうのんびりもしていられないのだ。


 ここ、マルディネール伯爵領は海沿いの地で、農業や小さな鉱山などを有していて比較的豊かな土地だといわれている。でも、その分、領内の状況や地元の慣習・ルールをしっかり把握しておかないといけない。早く習得して、みんなの前で立派に当主らしく振る舞えるようになりたい――そう思っているのだけど、覚えることが尽きないから大変だ。


 「リアンナお嬢様、おはようございます」


 執務室――正確には私が勉強と、当主の実務を練習する部屋――の手前で声をかけてくれたのは、侍女長のベアトリーチェ。落ち着いた笑みを浮かべながら、「昨夜はゆっくりお休みになれましたか?」と気遣ってくれる。


 「あ、ベアトリーチェ。おはよう……うーん、まあまあかな。お茶会の後始末、いろいろ助かったよ。ありがとうね」

 「いえ、私だけでなくエミーやローザも動いてくれましたから。もっとも、お嬢様には今日も領民からの報告がいくつか届いておりますので……少しずつ慣れていきましょうね」

 「……うん、頑張る」


 そう返事をしながら、私は小さく苦笑する。実務の勉強といっても、覚えるべき“慣習”や領内ルール、領民とのやり取りの作法など、やることは山積みだ。早く一人前にならなければいけないと焦る気持ちもあるけれど、まだ11歳では完璧にはほど遠い。やるしかない、と思いつつ足を進める。


 ベアトリーチェから受け取った書類やメモの束を抱え、勉強部屋へ向かうと、そこでは侍女のエミーとローザが机周りを整えて待っていてくれた。


 「おはようございます、お嬢様」

 「今日も一緒にがんばりましょう。書類や調べ物は、私たちも手伝いますから」


 二人とも明るい笑顔を向けてくれる。エミーは落ち着いた雰囲気でしなやかな物腰、ローザは元気でハキハキしているが気遣い上手。どちらも、夜も同室で寝起きしている私の頼れる侍女たちだ。


 ……もっとも、私は前世の記憶を持ち合わせていて、それが男性だったこともあり、こうして少女の姿で過ごすのには少し戸惑いもある。とはいえ、最近は当主見習いとしての勉強に忙しくて、その“違和感”をじっくり考えている暇もないのかもしれない。ときどきコルセットの締めつけや身体の変化を意識してしまうけれど、今は何より先に身につけるべき知識が山ほどあるのだ。


 さっそく勉強用の机に向かい、エミーとローザが準備してくれた書類を確認しようとすると、その中にひときわ古めかしいファイルが混ざっていることに気づく。端が少し傷んでいて、装丁も相当年季が入っていそうだ。


 「これ……なんだろう?」

 私が問いかけると、ローザが首をかしげる。

 「ベアトリーチェ様が『古い記録が出てきた』とおっしゃってました。書庫の片付け中に見つかったそうです」


 わくわくした気持ちでファイルを手に取る。表紙の文字はかすれているが、紙をめくれば当時の侍女や関係者の名前がびっしり並んでいるのがわかる。


 「“お嬢様誕生祝い・準備委員名簿”……って書いてある。私が生まれた頃の記録、だよね、きっと」


 そこには、私の両親――伯爵夫妻の名――はもちろん、誕生祝いに関わった使用人たちの名がずらりと並んでいた。その中に見覚えのある名前を見つけ、私は思わず身を乗り出す。


 「エミー、15歳。ローザ、12歳……あれ、二人とも私が生まれたときには、もうそんな年齢だったんだ……」


 そう呟くと、エミーは「ええ、当時は侍女見習いでしたから」と微笑み、ローザは「私なんて、まだ入りたてで失敗ばかり……」と照れ笑いを浮かべる。今のエミーは27歳前後、ローザは24歳前後だ。私が生まれたのは、もうすぐ12年になろうとする昔のこと。そんな頃から二人はこの屋敷で働いていたなんて、改めて考えると不思議だ。


 「私が生まれて、もう11年経つんだ……早いような、あっという間じゃないような……」


 文字で見ると現実味を帯びるけれど、自分の赤ちゃん時代のことはよくわからない。ただ、部分的に妙に鮮明な記憶があるのも事実で、そのせいでいろんな違和感を覚える瞬間がある。でも、大半は思い出せないから、こういう公式の記録を見つけると、知らないことを埋められる気がして興味が湧くのだ。


 「ねえ、二人とも、その頃ってどんな感じだったの? 私が赤ちゃんだったときのこととか……覚えてる範囲で、少し話してくれない? ほら、ちょっとだけ鮮明に覚えてることもあるけど、大半はぼんやりしてるから、色々確認したいんだ」


 私がそう言うと、ローザは「わ、私なんかが話していいのかな……」と困ったように笑い、エミーは「その前にお嬢様の勉強が先では?」とやんわり提案してくる。確かにここで長話を始めるわけにはいかない。私は惜しく思いながらも、「じゃあ、お昼休みとかに聞かせて」と頼むことにした。


 「わかりました。お嬢様が勉強をひと段落されたら……ですね」とエミーがにこやかに応じてくれる。

 よし、と気合を入れ直して机に向かう。慣習やルールの書類に目を通しながら、心の隅では「早く二人の昔話を聞きたいな」と胸が弾んでいた。


 午前中の勉強を終え、時計を見ると昼下がりの時刻。窓の外には夏めいた陽射しが射し込み、穏やかながら少し熱気を帯びた風が吹いている。エミーとローザが「休憩にしましょう」と声をかけてくれたので、私は軽い昼食をとってから、館の控え室へ移動した。


 「大丈夫ですか? 相当集中していましたよね、今の勉強」

 「うん……領内の慣習って複雑で、まとめるのも一苦労。頭がぐるぐるするかも」


 私はテーブルに腰かけながら伸びをして、思わず息をつく。侍女長ベアトリーチェから教わっていることも多いが、やはり一度では覚えきれない。何度も復習して、少しずつ身につけるしかないのだ。


 エミーが冷えたハーブティーを差し出し、ローザがお菓子を並べる。どちらも気配り上手でありがたい。こういうとき、私は年相応に「わー美味しそう!」とテンションが上がってしまう。それでも、ふとした拍子に“前世は男だった”という記憶が蘇るときがあり、そのたびに落ち着かなくなる自分がいる。でも、誰にも言えないし、今はこのままでいいような気がする……いろいろ複雑だ。


 「さて……例の“昔話”、少しだけ聞かせてもらってもいいかな?」

 私が切り出すと、二人は顔を見合わせて笑う。


 「お嬢様が生まれたころ……私は15歳で見習い侍女でした。まだ仕事の段取りもおぼつかなくて、怒られてばかりでしたね」

 エミーが懐かしそうに語り始める。

 「私は12歳で……もっと未熟でしたよ。ベアトリーチェ様や先輩侍女たちにしょっちゅう叱られて……。それでも、お嬢様が誕生されたとき、屋敷はすごくお祝いムードだったんです」


 ローザが続ける。彼女が12歳だった頃なんて、今の私よりさらに若いわけで、どんなに大変だったろうかと想像してしまう。


 「当時の伯爵夫妻――お嬢様のご両親は、それはもう嬉しそうでした。『この子をしっかり守ってね』と、私たち見習い侍女にも優しく声をかけてくださって……」

 「私なんか、赤ちゃんの鳴き声にビクビクしてましたよ。夜泣きがすごくて、ミルクを作ったりおくるみ替えたり……でも、なんだか楽しかったです。赤ちゃんがいるだけで、屋敷の雰囲気がパッと明るくなるんですよ」


 私にはその頃の鮮明な記憶はほとんどない。部分的にぼんやりした映像が浮かぶことはあるけれど、実際こうして二人から聞かないとわからないことばかりだ。


 「大人を一度経験したあとで、また赤ちゃんになったなんて……正直、今でもピンとこない気がして……」

 ポツリとつぶやくと、ローザが「大人……?」という顔をしそうになり、私は慌てて目をそらす。もちろん、転生の事実など話せるはずもない。ただ、私にとっては“自分が本当に赤ん坊だった”というのが不思議で仕方ないのだ。


 「夜中に熱を出すことも多かったんですよ。ベアトリーチェ様や医師の先生があたふたして、私たち若い見習い侍女も交代で看病したり……。朝になって、お嬢様がケロッと笑顔を見せてくれたときは、本当にほっとしました」

 エミーがそう思い出を語ると、ローザが「そうそう、こっちも泣きそうになりましたよね」と大きくうなずく。

 私は知らないところで、そんなドラマがあったんだなあと思うと、胸がじんわりと暖まる。


 「両親が亡くなったあと、私が小さいまま当主を継ぐことになって……いろいろ大変だったよね」

 「私たちも怖かったです。暗殺の危険があるって聞かされて……でも、お嬢様を守りたいという気持ちのほうが強かった。あのころベッドを並べるようになったのは、暗殺リスクを少しでも下げるためでしたけど、いつの間にかそれが当たり前になって……」

 ローザの声には、少し震えが混ざっていた。でも今は、彼女たちが私の傍らにいてくれることが当たり前。改めて思うと、それってすごくありがたいことだ。


 「そう考えると、私がこうして11歳まで無事に大きくなれたのは、二人のおかげなんだね……ありがとう」


 素直な言葉を口にすると、エミーもローザも「そんな……私たちこそ」と照れながら笑ってくれる。ほんのりとした温かい空気が、この応接室に漂う。


 しばらく二人の昔話に耳を傾けたあと、私はそっとティーカップを置いて伸びをした。午後も勉強が続くし、彼女たちもいろいろ準備を手伝ってくれるだろう。昔話の続きを聞きたい気持ちはあるけれど、それはまた後のお楽しみ――じっくり話せば一日じゃ足りないだろうし。


 「ありがとう、二人とも。まだまだ聞き足りないから、また教えてね。ローザの失敗エピソードも興味あるし」

 「わ、私よりエミーのほうが……!」

 「それは勘弁してください」


 軽い冗談が飛び交い、私たちはクスクス笑う。こういう時間は、忙しい日常のなかで私の心をほぐしてくれる大事なひとときだ。


 さて、そろそろ勉強部屋に戻ろう。少しずつ慣習やルールを覚えて、いずれは「しっかりした当主ですね」と言われるようになりたい。両親のことも、私の赤ちゃん時代のことも、知らないことがまだまだあるけれど、エミーやローザをはじめ多くの人に支えられながら成長していけばいいのだ――と、なんとなく前向きな気持ちになる。


 応接室を出て廊下を行くと、午前中とは違う明るさが差し込んでいる。私はエミーとローザと並んで歩きながら、「今日もあとひと踏ん張り、がんばろう」と思わず口に出した。


 「はい、お嬢様!」

 「おまかせください!」


 二人が声をそろえて返事をするとき、私の胸はちょっとだけ誇らしくなる。まだ11歳――もうすぐ12歳――の少女だけれど、いつか本当に伯爵家当主として、堂々とみんなを守れる日が来るように。

 そして、古い記録に書かれた“誕生祝い”の名簿や、二人が語ってくれた思い出を知るほどに、自分の過去が少しずつ鮮やかに紐解かれていくのが楽しくなってきた。いつか、書庫に眠るそのファイルを読み込んで、両親の面影にもっと触れてみたい――そんな思いが心に芽生えながら、私は午後の勉強へと足を向ける。


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