哀しみと笑顔の六か月――赤子領主の目覚めた世界③
父親が亡くなったあの日から、さらに数か月が過ぎた。私は生後半年を超え、気がつけばもうじき一歳を迎えそうな時期に差しかかっている。赤ちゃんの成長は驚くほど早いらしく、この数か月のあいだに私の行動範囲や言葉の理解度は少しずつ広がっていた。
もちろん、まだ歩けるわけではない。はいはいですら、まだぎこちない状態だ。ただ、腹ばいで移動したり、転がって移動したり――そうしたちょっとした行動によって、部屋の隅にある玩具や布切れまで自力で行けるようになったのは大きな進歩だと思う。寝返りだけで一喜一憂していたころを思えば、格段に視野が広がっている。
そして、言葉についても変化があった。
最初はただの音の塊でしかなかった侍女たちの会話が、だんだんいくつかの単語に区切れを持って感じられるようになってきたのだ。赤ちゃんの脳は吸収力が高いとはいえ、やはりゼロから覚えるのは簡単ではない。でも、毎日耳にしていると、挨拶っぽいフレーズや、私に呼びかけるときの名前っぽいものなどが、徐々に区別できるようになってきた。
たとえば、若い侍女が私の顔を覗きこんで発する「ナッサ、ナッサ」という言葉は「さあ、可愛いね」みたいなニュアンスらしい。私がキョトンとしていると、「ナッサ~」と繰り返して笑うので、多分何かしらの愛情表現だと理解している。また、眠そうにしているときには「ラトゥ、ラトゥ」と言われることが多く、これが“寝ようね”あたりの意味なのかもしれない。
もちろん、まだ詳細に意味を把握しているわけではないが、“赤子へのあやし言葉”だと推測できる程度には耳が慣れてきた。そこに加えられる表情や仕草をヒントに、さらに理解を深める――そんな日々を重ねている。
侍女たちは、驚くほど優しく、そして私を大切にしてくれている。
両親を相次いで失った私に対する同情もあるだろうし、なにより私が家の当主として“形だけでも”相続しているから、ぞんざいに扱えないという事情もあるのだろう。でも、それだけではなく、彼女たちからはどこか母性を感じる。本当に私を可愛がり、支えようとしてくれているように見える。
特に若い侍女がふたり、私の世話を主に担当していて、いつも交互に抱っこしてくれたり、沐浴の準備をしてくれたりする。彼女たちは見た目も声も似ていないのだが、声のトーンがどちらも柔らかくて心地いい。私が不安そうに泣き出しそうになると、両手で頭を支えながら「ナッサ~」とか「ルミィ」と笑いながらあやしてくれる。その笑顔を見るだけで、赤子の私も自然と気が紛れるのだから不思議だ。
私がはいはいの練習を始めようとしたときも、床に毛布を敷いて万が一転んでも大丈夫なように整えてくれた。まだ腕の筋力が足りず、思うように体が進まないのだが、何度か繰り返すうちに、ほんのわずかだけ前に進めることを発見。すると侍女たちは拍手をして「リア! リア!」と喜んでくれた。まるで子どもの運動会を見守る親みたいで、微笑ましく思うと同時に、私もつい笑顔になってしまう。
一方で、私は、どうやら領主の地位を“形式上”継いだということらしい。
まだ赤子ゆえに実務などできるはずもないが、周囲の大人たちは、必ず私に一礼してから報告書らしき束を抱えて部屋を出て行ったり、武装した兵士が廊下で私を見かければ足を止めて敬礼したりと、やけに丁重な扱いを続けている。
ただ、あからさまに「私に権力がある」というよりは、“大事な跡取りを万が一にも傷つけられない”という意味合いのほうが強いように感じる。実際、私がいつ命を狙われるか分からない、という警戒感もあるのだろう。侍女たちも、その立場を理解しているのか、必要以上に私を外へ連れ出すことはなく、安全が確保されている子ども部屋で面倒をみてくれる。
結果として、私は1歳になろうとするこの時期まで、ほとんど敷地の外へ出たことがない。前世のように自由に散歩や買い物ができるはずもなく、屋敷というごく限られた世界の中で成長を続けているわけだ。
それでも、この世界の言葉を少しずつ学べるのは大きい。侍女たちが呼び合う名前――「ニセラ」「ファルナ」――そういった単語も耳馴染みになってきて、どうやら彼女たちが仲間を呼ぶ呼称だと分かってきた。さらに私を指すときに用いられる「ラータ」という言葉も聴こえてくるが、これが私の“名前”かどうかはまだ確信が持てない。ときどき、他の言葉と一緒に発せられるので、“領主様”みたいな意味合いかもしれないし、単に“小さい子”と呼んでいるだけかもしれない。
しかし、たまに「ラータ」と単独で呼びかけられるときもあるので、もしかしたら私の固有名詞がそれなのかと考える。まあ、仮にそうだったとして、前世のように“姓”も“名”もハッキリあるのかどうか、この世界の習慣を知らないからなんとも言えないが。
さて、そんなこんなで、生後10か月、11か月……と月日が流れていくと、私の身体は確実に成長している。以前は寝返りが精一杯だったが、今ははいはいらしき動きができるようになり、少しずつだけど部屋の中を自分で移動できるようになった。侍女の一人が床で待ち受けながら「ナッサナッサ」と声をかけると、私は必死になって手足を動かして進み、彼女の足元へなんとかたどり着く。すると「オーラ!」という賛辞とともに抱き上げて頬ずりしてくれる。
立ち上がろうとつかまり立ちに挑戦してみるものの、まだ足がふらついて転びかける。危うく頭を打ちそうになるが、侍女が身を挺してクッションになってくれた。泣いてしまうと、そのまま「ルミィ……」と優しい言葉であやしてくれる。こうして私は、赤ちゃんとして順調に(?)スキルを習得し、少しずつ体を使いこなせるようになってきた。
言葉の理解はさらに進んでいる。
侍女や兵士の会話をじっと聞いていると、よく出てくるフレーズを何とか推測することができる。まだ短い単語を断片的につなげている段階だが、「ナッサ」はどうやら肯定や褒め言葉の意味を含み、「ラント」は“仕事”に関する用語っぽい。騎士が自分の役目を果たす際に「ラント、ラント」と意気込んでいるのを見かけるからだ。
そんなふうに、私は自分なりに単語リストを頭の中で作っては、次に繋げる作業を繰り返す。前世が弁護士だったからといって、言語学の専門知識があるわけではないが、少なくとも「暗記してパターンを推測する」というやり方は苦にならない。司法試験受験生時代の勉強方法が、ここでちょっとだけ役に立っているかもしれない。
そして、気づけば私の生後1年目が近づいてきていた。
実際、正確な日付を意識しているわけではないが、侍女や文官が、指を一本立てながら話している。たぶん「あの子はもうすぐ1歳になる」といったニュアンスの言葉を語っているのだろう。私がこの世界に来て、もう一年が経とうとしているということだ。
あっという間に感じる一方で、両親の死や領地の相続など、あまりに濃密な出来事が詰まりすぎていて、非常に長い時間を過ごしたようにも思える。前世の人生観では想像できなかった苦難が、赤子の身に容赦なくのしかかっている現実だ。
1歳といえば、はいはいが本格化し、伝い歩きする子も出てくる時期だろう。私はまだ歩けないけれど、部屋の中の家具に掴まって膝を曲げ伸ばしするくらいはできるようになった。バランスを崩すと、侍女たちが慌てて支えてくれる。私が笑うと、彼女たちはとても嬉しそうな顔をするし、「アナメー」「ナッサ!」などの言葉を連発して大騒ぎするので、私も一緒になって楽しんでしまう。
言葉に関しては、理解こそ微妙だが、私自身が発音しようとする気配が出てきた。何かを指差して「あ、あ」と口にしたり、侍女たちに向かって「ナッ……ナッ」と言ってみたり。すると彼女たちは大喜びで声をあげ、「あなた、今 喋ったわね!」みたいな調子で抱き寄せてくれる。そのときの温もりや安心感が、本当にありがたい。
そんなふうに、彼女たちが“私を甘やかしながらも、きちんと面倒を見てくれる”のは、私が領主だからというだけじゃないと信じたい。もしかすると、本当に赤ちゃんを可愛がる気持ちがあるからこそ、こんなにも優しく接してくれているのだろう。私はそれを感じながら、この世界にも人間らしい温情があるのだと知って、ほんの少しホッとする。
1歳相当の能力――具体的には、はいはいであちこち行けるし、簡単な物を掴んだり投げたりできるし、“発声”も単語の断片程度なら出せるようになってきた。コミュニケーションにはほど遠いけれど、それでも生後半年のころに比べれば大幅な進歩だ。
もし私が今後、さらに言葉を理解し、ある程度意志を伝えられるようになれば、この屋敷内での政治や運営に小さな影響を与えられるかもしれない。前世で弁護士をしていた経験を、完全に無駄にはしたくないという思いがある。だが、焦ってはいけない。ここは中世風の社会だ。法や制度がどうなっているかすら、まるで分からないのだから。
それに、私はまだ1歳。立ち上がるのもやっとで、クーデターや陰謀に対抗する力などない。侍女たちが優しくて救われているが、このまま守られるだけで終わるわけにもいかない。いつか自分の足で立って、この世界で生きていく覚悟を持たねば……と、ぼんやり考える。
ともあれ、今は赤子として与えられる優しさを受け止め、日々を過ごすしかない。私が少しでも安心して笑顔を見せれば、侍女たちや騎士たちは微笑み返してくれる。それだけで、失った両親の穴を全部埋められるわけではないにしても、孤独を紛らわせることができるのは確かだ。
1歳になるまでに、屋敷の中ではちょっとした行事が予定されているらしく、侍女や文官が準備に追われている気配がある。私の1歳の誕生日を祝おうというのだろうか? 母親の死、そして父の死により暗い影を落とす屋敷だけれど、こうした行事をきっかけに、少しでも明るい気分になれたらいいのだが……。
結局、両親を亡くしても、私はどうにか1歳の誕生日を迎えようとしている。侍女たちは「1歳になると、もっと喋るかもしれない」という期待を口にしているようだ。私も、体の成長や言葉の理解が進めば、屋敷の大人たちと本当の意味で交流できるだろう。
前世での私は、ただの弁護士で、何か特別な知識、能力、技術があったわけではない。そして、ここでの生活においては、その知識がすぐに役立つとも思えない。私が得たのは、“領主”という危うい立場だけ。果たしてそこに意味を見いだせる日は来るのか。
しかし、侍女たちが優しく接してくれる今のうちに、私は言葉を覚え、体を動かす練習をし、少しでもこの世界で生き抜く力を蓄えるしかない。それが1歳相当の能力を得ることの重要性でもある。はいはいが自由にできるようになったら、部屋の外へこっそり冒険……できるかもしれないし、危ないかもしれないけれど、何もしないでいるよりはいいだろう。
(両親がいない私の未来は、茨の道かもしれない。だけど、侍女たちがこんなにも優しく支えてくれるなら、少なくとも心が折れることはないだろう……。言葉が少し分かってきたし、彼女らを味方にして、1歳になったらもう少し視野が広がるはず。)
そう自分に言い聞かせながら、私は這いつくばるようにベッドの端へ移動してみる。ぐらりと転びそうになるが、そこで侍女がやってきて腕を添えてくれる。私は笑顔で「アー……」と声を出し、彼女も「ナッサ!」と嬉しそうに返してくれた。
――そう、今はこれでいい。言葉にならないやりとりでも、少しずつ心が通じ始めているのを感じるから。領主とか赤ちゃんとか関係なく、彼女たちは私を大切に思ってくれている。その優しさに甘えながら、私は1歳の誕生日を目指して、さらに成長を続けるのだ。
前世 日本国 民法
第882条 相続は、死亡によって開始する。
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