ドレスより重たい指導? 新任マナー講師は微笑む鬼でした!
朝の空気はやわらかく、薄青い窓辺を透かして穏やかな光が差し込んでいる。私はいつものように大きく伸びをして、ベッドから起き上がった。部屋の奥ではエミーとローザが小さくあくびを漏らしながら、身支度のための準備を進めている。彼女たちはもうすっかり私の同室で寝起きするのが当たり前になっていて、毒事件以来続いている「当主を守るための警戒体制」の一部でもある。もっとも、ここ最近は緊急性のある暗殺の兆候もなく、少しは落ち着いているけれど、まだ完全に警戒を解くわけにもいかないらしい。
「おはよう、リア。今日は珍しく早く起きたわね?」
エミーがカーテンを少し開きながら声をかけてくる。暖かな朝日の斜光が部屋をほのかに照らし、ドレスやタンスの取っ手、テーブルの角をゆっくり浮き彫りにしていく。私は「あ、うん、なんとなくね……」とあいまいに応じつつ、寝ぼけ眼をこすった。
実際、今朝は妙に胸がそわそわしている。理由はわかっている。今日の予定には、“マナー講座”が組み込まれているのだ。まだ午前中はいつも通り領主見習いの仕事――書類整理や勉強をこなすが、午後からは“専門の先生”が来るらしい。それを想像すると、落ち着かないのは当然だろう。
「リア、起きたなら早速朝の準備をしましょう。いつもの書類仕事もいっぱい残ってるし……ああ、あとでベアトリーチェ様からレッスンについてのお話もあるわね?」
ローザが小さなベッドから立ち上がり、軽く伸びをしながら私を見つめる。彼女とエミーは、私の侍女であると同時に友人のような存在でもある。が、今日はこれから“女の子のお嬢様としてのマナー”をしっかり学ぶことになるなんて考えただけで、私としては少し嫌な汗をかきそうだ。前世から続く“男としての記憶”が、こういう“女性らしさの追求”に微妙な抵抗を覚えさせるのだ。
「うーん、やっぱり面倒だなあ……。でも、もう10歳だし、そろそろ11歳になるし……観念しないとダメかな……」
ぼそりとつぶやく私に、エミーはフフッと笑みをこぼす。「観念って……お嬢様、そもそも当主なのだから、貴族の交流も増えていくでしょ? 挨拶一つにしたってマナーを押さえておくに越したことはないわよ」
朝食の席へ向かう前、私は鏡の前で髪をまとめていると、ローザが「でもリア、最近また背が伸びてるわよね。ドレスも丈が合わなくなってきて、急いで調整してるのよ。もう10歳だもんね」と嬉しそうに言う。私は「あ、そうなんだ……。うん、なんか体が少し軽くなった気はするけど……」と首をかしげつつ、じわりと不思議な感覚を覚える。女の子の身体で背が伸びるといっても、前世の男としては妙にくすぐったい気分になるというか、“そろそろ女の子らしく成長していくのかな?”と考えると胸がちょっとざわめく。
ドアを開け、ダイニングへ足を運ぶと、テーブルにはいつものパンやスープ、フルーツ、ハーブティーが用意されていた。ボリスやベアトリーチェは別室で早朝から雑務に追われているらしく、今は私と侍女たちだけで静かに朝食をとる。私は軽くスープを啜りながら、「今日は午前中に例の書類整理とか勉強とか……それが終わったら、マナー講座だよね」とぼんやり言う。
エミーが口元をほころばせて「ええ、ベアトリーチェ様が言うには、これからもっと“貴族令嬢、あるいは当主としての振る舞い”が必要になるから、専門の先生をお呼びしたって。暗殺問題もあるし外出や他の貴族との交流を控えてきたけど、そろそろ学んでおかないといざというとき困るってことらしいわ」と補足する。私は「……まあ、そのとおりだよね」とスプーンを置き、苦笑いを浮かべた。
(暗殺対策のせいで、表の世界――貴族社会――との接触を最低限にしてきたから、マナーを学ぶ場もなかった。……でも、もう10歳で当主として認められてるし、そろそろ“ちゃんとしたお嬢様の振る舞い”を覚えないとまずいか……)
そう自分に言い聞かせつつ、パンをかじる。前世の男意識が騒ぐ一方で、この世界では“伯爵家当主の少女”なのだから避けられない。観念するしかないのだ。
朝食を終え、さっそく部屋に戻って身支度を整える。いつもの簡素なワンピースではなく、今日のスケジュールに合わせて比較的“きれいめ”のドレスを着ることにした。エミーとローザに手伝ってもらい、裾をバサバサさせない程度の装飾がついた明るい色のドレス。コルセットは緩めだが、ウエスト周りが少しだけきゅっと締まる感覚がある。10歳でこれに慣れろというのだから、先が思いやられるが……。ただ、まだ本格的なパニエや超ロングスカートじゃないだけマシかもしれない。
「うわー、やっぱりこういうのはちょっと窮屈……。なんか落ち着かない……」
私は鏡を見つつ唇を尖らせる。エミーは「大丈夫よ、ちゃんと体に合ってるわ。すごく可愛いし、当主らしい品も感じる!」と盛り上がり、ローザも「そうよ、すっごく似合ってる。背も伸びてきたから、以前より断然ドレス姿が様になってるわ」とはしゃぐ。二人ともほんのり目を輝かせていて、まるで自分が着飾っているかのように楽しそうだ。私は心の中で(うーん、なんだろ……前世なら絶対こんなフリフリは……でも仕方ないか)と苦笑。
書類整理などの領主業務は、書斎で行うことが多い。この日の午前中も例外ではなく、私はさっそく机に向かい、大量の書類を確認していく。陳情や要望書がまとまったファイルを一枚ずつめくり、必要な指示や報告を付箋に書き込む作業だ。村の道路整備の願い、貧困地域への施策リクエスト、最近は魔法技術の新しい応用を希望する商人からの要望なんかも増えている。ベアトリーチェやボリスが大筋を判断するが、一応当主である私の目も通す機会を与えてくれる形だ。
「ふう……これ、ほんと多いよね。まだ半分ある……」
ぼやきながらも手を動かし続ける。次の一枚は「領内の村長が新しい農法の許可を求める内容」。その次は「隣領との境界地帯における税の扱い」……うん、面倒くさい。だが、これも当主として大事な仕事だとわかっているから頑張るしかない。
並行して、ベアトリーチェから「歴史や社会制度」の勉強も少し入る。彼女は歴史書を開いて領内の過去の統治例や、王国の法制度(簡素だけど)を解説してくれる。私は前世の知識と照らし合わせながら聞き、メモを取ることが多い。ときどき(こんなに、スカスカな法制度で大丈夫なのか?)とハラハラしつつも、この世界では慣習が強く、かえってスムーズに回るらしい。……いつか大きな波が来るんじゃないかと思うけど、今はとりあえず吸収するしかない。
「さて、これで午前の文書作業は一通り終わりましたね。よく頑張りました、リアンナ様」
昼少し前になると、ベアトリーチェが穏やかな口調で締めくくりを告げる。私は机から身を起こして「はい、ありがとうございます……ちょっと疲れた」とストレッチをするが、ドレスが思うように伸びてくれず、肩まわりが突っ張ってつらい。ベアトリーチェはクスリと笑い、「午後の予定はご存じですね? マナー講師の先生がいらっしゃいますよ」と釘を刺す。
「うう……聞いてます。高名な先生なんですよね、スパルタだって噂だけど……」
私が少し顔を引きつらせると、ベアトリーチェは「そうですね、マダム・ルディアという方で、30代半ばながら相当な実績を持つそうですよ。伯爵家や公爵家のお嬢様たちに厳しく指導して、華やかなデビュタントを成功させたって評判が高いんです」と、まるで他人事のように語る。私は気が重くなって、「まじかよ……」と小声で呟いた。
暗殺対策のため、長らく外の社交界から離れ、ごく一部の行事だけこっそり参加していた私にとって、“マナー”はずっと後回しだった。だけど、今後は他の貴族とも会わねばならない場面が出てくるし、正式な場で恥をかくのは困る――そんなベアトリーチェやボリスの判断で、高名な講師を呼ぶに至ったわけだ。分かってはいるけれど、前世が男性だった私には“女の子の所作”を、それも貴族令嬢のそれを叩き込まれるなんてどうにも気恥ずかしい。
午後、昼食後、私はエミーとローザに後押しされながらいったん部屋に戻り、ドレスを少し直してもらう。伸びかけの身長に合わせ、侍女たちが裾の長さや腰回りを整えてくれるのだが、その間ずっと「リア、きっと優雅に振る舞えるようになったら、すごく素敵よ!」「想像しただけでワクワクしちゃう!」と嬉しそうだ。私は「いや、想像だけならいいけど……実際はたぶん苦痛だよ……」と弱音を吐く。
エミーとローザは「そんなこと言っても、いずれ必要なんだから頑張ってね」と励ましたりからかったり。暗殺問題で他貴族と交流を避けてきたが、すぐに成長する私には今後必須だというのは重々承知。観念するしかないとはいえ、心のどこかで(前世で男だった自分が“優雅なレディ”の仕草なんてできるのかな)という思いが渦巻く。
そうこうしているうちに、来訪の知らせが届く。マナー講師である“マダム・ルディア”が、もう玄関付近に到着しているらしい。私は侍女たちにうながされ、サロンと呼ばれる応接間へ向かう。部屋の扉を開けると、そこには柔らかい光が差し込む窓際に、一人の女性が立っていた。30代半ばくらいだろうか、背筋がピシッと伸びて、やや厳しそうな雰囲気を漂わせている。
「はじめまして。わたくし、ルディアと申します。マナー指導を専門にしておりまして、今後しばらく伯爵家の当主様に礼儀作法を教えさせていただきます」
彼女は深々と頭を下げ、その所作はまさに教科書的。“完璧な淑女の動き”という感じで、私には瞬時にわかる。今後、私はこの人の指導を受けねばならないのだ……もう想像だけで気が遠くなる。私はドレスの裾を揺らしながら、ほんの少しぎこちなく頭を下げた。「は、はじめまして。リアンナ・クラリオンと申します……本日は、お越しいただきありがとうございます……」
マダム・ルディアは私の動きをしっかり観察しているようで、一瞬だけ眉をひそめてから微笑を浮かべる。「お噂はかねがね伺っています。若くして伯爵家を継がれ、毒殺未遂事件など様々な困難を乗り越えられたとか。ですが……一度も本格的なマナー教育を受けていないのですよね?」
(いきなりずいぶんな物言いだな!)
私は恥ずかしさで頬を赤らめながら「はい……そうなんです。暗殺の危険とかあって、あまり外と関わらなかったので……」と答える。ルディアは「なるほど」と短く返事して、ゆっくり口角を上げた。その視線はどこか鋭く、いかにも“スパルタ教師”と噂される雰囲気を漂わせている。
「あまり時間がありませんから、効率的にきっちり教え込む所存です。いつか本格的な社交デビューをされるのでしょう? 当主として、他領の貴族や王族の方々と接する機会も必ず出てまいります。そのときに恥をかくのは、このルディアが許しませんわ」
声にやや熱がこもる。それを聞いた私は(ひえっ、本当にスパルタな感じ……、というか、私、こういう熱血とか、ほんと苦手なんですけど。)と心臓が縮む思いだが、一方で観念する気持ちもある。ここで逃げても何の解決にもならないし、当主として避けては通れない。正直、ドレスを着て優雅に振る舞うのは苦痛だが……少なくとも形だけでも習得しないと、後々困るのは自分なのだから。
「はい……よろしくお願いします。わたし、こういうの得意じゃないけど、頑張ります……」
精一杯の覚悟を込めてそう口にすると、マダム・ルディアは満足げに「ええ、ではまずは基礎の基礎を、じっくり身につけていただきますわ」と頷く。その言葉に圧迫感を感じながらも、私は「今日からは一日かけて教わるんだろうか」と少し冷や汗をかく。実際、午後いっぱいレッスンを受ける予定らしい。
「それでは、当主様。最初にお聞きしますが、ご自分がどの程度“貴族令嬢のマナー”をご存じか、把握していらっしゃいますか?」
「え……どの程度……?」
私は言葉に詰まる。実際、暗殺の恐れで屋敷にこもっていた時間が長かったし、子どもゆえにちゃんと教わる機会がなかった。普段は最低限の挨拶と礼儀だけ身につけているつもりだが……ルディアの求めるレベルとは雲泥の差だろう。ましてや私には“前世男の感覚”があるから、いわゆる“女の子の所作”は根本的に身についていないのだ。
エミーやローザが「その……まだ初心者レベルかと……」とフォローしようとするが、ルディアは「それなら話は早いですね」と微笑する。「基本からすべてを叩き込みましょう。今日のところはご挨拶、立ち方、座り方、歩き方あたりを重点的に。ドレスや食事のマナーは順次……」と鋭い口調で宣言。私は(うわ……もう後戻りできない……)と胃が痛くなる。
しかし、そんな私の心中をよそに、ルディアは「さっそく、あちらで簡単な立ち姿のチェックを」と床を指差す。サロンの中央を空けるように指示し、私に「それでは、立ってみてください。いつもの姿勢で結構ですよ」と言う。その“いつもの姿勢”がどれほどマナー的にOUTなのかを見たいのだろう。これはもう……仕方ない。
私は前世のクセもあり、基本的に足を少し開きがちだし、腕を組んだり重心をずらしたりする癖がある。だが、どうしてもそれが体に染みついていて、気をつけの姿勢や肩をきゅっと張る仕草がぎこちないのだ。数秒間静止すると、ルディアは案の定顔をしかめ、「なるほど、まず背筋が丸い。足幅が合っていない。顎の角度……これは全然ダメ。両腕の置き場も女の子らしさを感じませんね」と矢継ぎ早に指摘を浴びせてくる。
「そ、そうですか……すみません……」
私はスカートの裾を気にしながら消え入りそうな声を出す。前世ならこんな姿勢指導受けたことないし、と心で言い訳するが、ルディアには通用しない。彼女は小さく息を吐き、「当主様、このままでは外で一目おかれるような優雅さとは程遠いです。今日からしっかり矯正しましょう」と、すでに“バリバリの教師モード”だ。私は(ああ、やっぱりスパルタだ……)と観念。
こうして私の「マナー講座」は幕を開けた。きっとこのあと、午後いっぱい、いや明日以降も続くかもしれないが、ひとまず今日は最初の顔合わせと基礎レッスンの導入らしい。ちょうど部屋の外でエミーやローザが「ああ、リアがんばって……」と祈るような表情をしているのが視界に入る。私もこうなった以上、いちいち文句を言っても始まらないので、腹をくくろう。――前世の男としての記憶は心の奥底にしまい、一応“伯爵家の女の子”としてマナーを受け入れなければならないのだ。
というか、なにビビっているんだ!中身は男だろ!男の度胸を見せてやる!
「あの……はい。よろしくお願いします、マダム・ルディア。私、当主とはいえマナーの初歩から習わないといけないと思ってますので……」
ひきつった笑みを浮かべながら私が言うと、ルディアは柔らかく微笑む。「ええ、私がしっかりと指導いたしますから、ご安心ください。どんなに素の姿が乱れていても、正しいレディの所作は身につけられます。……ただし、それなりの鍛錬は必要でございますが。」とにっこり。そこに潜む圧に私は震え上がり、「は、はい……」とだけ答える。立ったままの姿勢を維持しているのも、もうしんどいのに、これから何時間も……大丈夫だろうか。
そんな不安と覚悟が入り混じるなか、エミーとローザは楽しげに目を輝かせている。「リアが優雅に振る舞う姿……見てみたい! きっと可愛いだろうなあ……」なんて言うものだから、私は再び複雑な気分だ。――前世の自分が思う“可愛さ”と、今の身体が求められる“女性らしさ”がごちゃ混ぜになりそうで、頭がクラクラする。しかし、当主である以上、必要なものは必要だ。嫌がってばかりでも進めない。
「それでは、サロンの一角で姿勢・立ち方の再確認をしましょう。さ、当主様、どうぞあちらに……」
マダム・ルディアの呼びかけに、私はドレスの裾をささっと直し、できるだけ背筋を伸ばして歩き出す。パタパタと踏みしめる足取りが、普段より意識しすぎて変にならないよう、必死に調整する。途中でドレスの端を踏みそうになってヒヤリとするが、なんとか耐える。心の中では「大丈夫、大丈夫、私はやればできる……かならずできる……はず……」と自分に言い聞かせながら。
――こうして、マダム・ルディアとの初対面が終わり、本格的なマナー講座の始まりが宣言された。10歳を超え、当主としてさらに成長が求められる私にとって、いよいよ“淑女の振る舞い”を身につける時が来たのだと、頭では分かっている。暗殺を危惧して他貴族との接触を避けてきた期間は、もう終わりが近いかもしれない。
(でも……本当にこれでいいのかな。前世が男だった私が、こうしてドレスを着て、お嬢様然としたマナーを叩き込まれるなんて……むずがゆい……)
そんな違和感が胸をかすめながらも、当主としての務めが優先だとわかっている。どうせ学ぶなら、きっちりやってみよう――そしてどう受け止めるかは自分次第。新しいステージへの準備だと思えば、少しはやる気が出るかもしれない。
私はドレスの裾を踏まないよう気をつけながら、サロンの中央へ向かい、ルディアの指示を待つ。足下には手入れされた絨毯が敷かれ、窓からの午後の日差しがじわりと暖かい。ドキドキと高まる鼓動を感じながら、「よし……やるしかない」と小さく息を吐く。遠巻きに見守る侍女たちの期待の視線を背中に受けながら、私は次の瞬間から始まる“スパルタ講座”に、ほんの少しだけ前向きな気持ちを抱こうとしていた――。
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