溶けゆく毒と、消えない決意――7歳当主は眠らない②
意識が戻る――その衝撃は、まるでいきなり深い水底から引っ張り上げられたかのような感覚だった。飲み込んだはずの空気が逆流してくるように胸が苦しく、思わずゴホッとむせ返りながら、私は大きく嘔吐の動作をしていた。口から何かが出ている気がするけれど、実際には空っぽの胃袋がひっくり返るばかりで、ほとんど液体は出てこない。
「……っ……はぁ……はぁ……」
ひどい吐き気に襲われながらも、どうにか息を整えようともがいていると、周囲から「よかった……!」「落ち着いて、ゆっくり息を」といった声が聞こえてきた。ぼんやりとした視界の向こうに、人影が動いている。その人影が誰なのか、まだはっきり分からない。頭がぐらぐら揺れて、体中が軋むように痛い。
(私は……どうなったんだっけ……? たしか……ラズィーナ……食べて……倒れた……)
断片的な記憶が脳裏をよぎる。鮮やかな赤い実、胸を締め付ける痛み、息が吸えなかった恐怖、そして暗転――あれからどれほど時間が経ったのか。混乱する思考を整理しようとするが、また嘔吐の衝動が込み上げてきて、私はうめき声を上げながら身をかがめてしまう。
「リア、しっかり……! まだ力まないで……落ち着いて……」
聞き覚えのある声――エミーだ。彼女の声が妙に震えているのが分かる。視線を向けようとするが、目がチカチカして上手く焦点が合わない。とにかく吐き気と息苦しさが断続的に襲い、全身が痙攣するように震えて止まらない。
「おお……まだ苦しがっていますね……。もう一度、身体を安静に……」
今度は男の声。低く落ち着いた響きだが、深刻そうな響きが混じっている。さらに、何かひらひらした布の衣擦れの音が近づく。前に“暗殺未遂”で大怪我したときに見かけた医師……だったと思う。間違いない。ローブ姿に見えるその人が、慌てて私の体を支えようとしているようだ。
そして、もうひとり――ローブを纏った女性の姿が視界の端に映る。手には緑色の宝石があしらわれたネックレスのようなものを持っており、それを私の腹部近くにかざしている。何か小さな呪文のようなものを呟いているが、耳がぼんやりしてよく聞き取れない。
「ど、どう……? 苦しみが和らいで……?」
周囲の声が飛び交う中、私はまた吐き気に襲われ、ぐっとこみ上げてくるものを止められない。脳が揺れるような痛みと、食道を締め付けられるような不快感。何かを吐き出したくても、すでに胃の中は空っぽのはずで、粘液のようなものしか出てこない。
「ちょ、ちょっと……水を……タオルを……!」
誰かが慌てて動き回る気配がする。頭の裏には冷たい枕の感触――やはりここは医務室らしい。空気に薬草と消毒液の独特の混ざり香が漂っていて、嫌でも思い出す。前の暗殺未遂で長期入院した場所と同じだ。久々に嗅ぐこの匂いは懐かしいというより、不安と痛みの記憶を呼び起こしてぞっとする。
やがて、なんとか吐き気の波がひとまず治まり、私は荒い呼吸のまま、かすれ声で「ここは……?」と問いかける。するとすぐにエミーが顔を近づけてきて、目尻に涙を浮かべながら答えてくれた。
「リア、ここは医務室。……あなた、ラズィーナの実を食べてすぐ倒れて……危なかったんだよ……」
言葉の端々が震えていて、彼女がいかに怖い思いをしたのかが伝わる。続いてローザの顔も見える。涙で目を赤く腫らしていて、私をじっと見つめては「よかった……本当によかった……」と繰り返している。私が重症で倒れた間、どれだけ不安だったか考えると申し訳ない気持ちにもなる。
(そっか……あのベリーを食べてから、激痛と呼吸困難に襲われて……ここに運ばれたのか……)
状況を思い返そうとすると、また胸の奥がつかえるような苦しさがやってくる。エミーたちが必死に支えてくれているが、それでも身体が勝手に反り返り、熱いものがこみ上げてきて、再び吐こうとする。喉がひりついて、胃酸のような苦味が鼻に抜ける。あまりに苦痛で思わず目が潤んでしまう。
「落ち着いて……大丈夫……もう毒は……」
医師が何か言いかけるが、その言葉が最後まで聞き取れないほど、私の身体は再度うねるように痙攣する。まるで内臓を鷲掴みにされたような痛みに耐えながら、私は声にならない悲鳴をあげた。すると、エミーとローザは目をそらせず、手を握りしめて私を見守る。彼女たちも辛いだろうが、私は正直それどころではない。
「医師殿、これは……本当にもう大丈夫なのか?」
耳に飛び込んできたのはボリスの声。侍女長ベアトリーチェの声も聞こえる。「息がまだ苦しそうではないか」「一度は意識を取り戻したが、予断を許さないのでは……?」と、心配げに話す声が交錯する。どうやら二人も駆けつけてくれているらしい。
「いまのところ、命に別状はありません。ただし、毒素か何かの類が体内に残っている可能性があり、油断できません。こちらの魔術師の診断によれば、再度発作が起きるリスクもあるようです……」
医師が硬い表情で答える。横にいるローブの女性――魔術師だろう――が、また緑の宝石ネックレスを私の腹部あたりにかざしながら、小声で何かを唱える。私はそこに注視しようとするが、激痛と吐き気で視線が定まらない。
痛みでどうしようもなく、涙がぶわっと溢れ出す。こんな苦痛、前世でも味わったことがない。喉や胸が焼けるように痛み、呼吸するたびに針が刺さるみたいだ。吐きたいのに何も出ない嘔吐感が何度も身体を波打たせ、ほんの少し空気を吸うのもままならない。あまりの苦しさに声が出せず、せいぜい「う……あ……」という呻きしか出ない。
その私の苦悶を見て、エミーとローザは明らかに顔を歪める。泣きそうになりながら手を握ってくれるのはありがたいが、私としては「なんでこんな目に……」という混乱が強い。ラズィーナを食べただけで、まさかこんな激しい苦痛に襲われるなんて、普通では考えられない。
「な、なんで、こんな……」
やっとの思いで言葉を搾り出すが、声がかすれてロクに聞き取れないかもしれない。ベアトリーチェが冷静な口調で「原因を調べています。もしかすると……」と続けようとするのを、私はなんとか耳を向けようとする。
「毒……? でも、あれを贈ってきたのは……友好関係を深めようとする領地で……例の敵対的なあのラグレン家は無関係のはず……」
息も絶え絶えにそんな疑問を呟く。腐っていたとかなら単なる食あたりかもしれないが、あの苦しみは尋常じゃない。普通の腹痛や食中毒の次元を超えているように思うし、もし毒だとすれば、誰が何の目的で仕掛けたのか……頭がぐるぐるして思考がまとまらない。
「腐敗か単なる食あたりでは、あそこまでの激痛や呼吸困難は起きにくいでしょう。私どもも、毒の可能性を疑っています。ただ、送り主が本当に仕掛けたかどうかは分かりません」
ベアトリーチェの言葉に、ボリスも低い声で「慎重に調査する必要がある」と同意の息を漏らす。だが、そのやり取りをちゃんと聞いている余裕が私にはほとんどなかった。再びこみ上げる強烈な嘔吐感に、体が丸まってしまう。
「ぅっ……げほっ……がはっ……!」
中身などもう何も残っていないのに、喉が勝手に収縮して吐き出そうとする。苦しくて涙が止まらない。胃液のような苦味だけが喉を焼き、息ができないほど咳き込む。周囲は「落ち着いて、落ち着いて」と必死に支えてくれるが、身体が意思に反して暴れるように痛みを発する。
「だ……め……く、苦しい……いや……っ」
意識が混乱して、思わず子どものように泣き叫んでしまう。いや、実際に7歳児なので、ここまで追い込まれると弱音を吐かずにいられない。前世が男だった意識がどうこう言っている場合ではない。ただ「助けて」「苦しい」と繰り返すしかない。
エミーやローザは私の手や背中をさすり、医師や魔術師は必死に処置をしてくれているようだが、この痛みと息苦しさはすぐには治まらないらしい。まるで身体の内側を誰かに握り潰されているような感覚が断続的に襲い、私は声にならない悲鳴を何度もあげる。
「落ち着かせる薬を……! ローブの女性がもう少し魔力を……」
「薬草の煎じ薬を持ってこい!」
バタバタと人が走り回る音がする。私がいるベッドの周りに何人も集まって、てんやわんやしているのが何となく分かるが、意識が朦朧として周囲が霞んで見える。
(死ぬ……かも……)
そんな絶望が脳裏をよぎった。あのとき、私は前世から転生してこの身体になった。まさかまた死を迎えるなんてことがあるのか。こんなにも苦しいまま終わるのは嫌だ、と叫びたいのに、叫ぶ余力すらない。全身から力が抜けるように痙攣が落ち着きかけたと思うと、今度は息ができずにまた手足が震える。まさに地獄のような苦しみだ。
「リア、もう大丈夫……大丈夫だから……!」
エミーの声が聞こえる。私の頬をさすってくれている感触。だが、その言葉に応える体力はない。瞳が勝手に閉じようとし、胸の奥で息苦しさがくすぶり続ける。もう何も考えられない。痛みに意識を削られ、もはや抵抗する気力もない。
(やだ……また死ぬの……? こんな女の子の身体で、何もできないまま……?)
悔しさと恐怖が入り混じった感情がこみ上げてくるが、それすらも途中で薄れていく。世界が遠ざかる。痛みもひと塊になって、頭の奥で鈍く響き続けるだけ。喉が焼けるように痛く、涙が頬を伝うのを自覚しながら、私は再び意識を手放そうとしていた。
――怖い、怖い、怖い。誰か助けて。私は死にたくない。7歳の身体にまとわりつく絶望感が、前世よりも強烈に胸を締め付ける。けれど、抵抗する手段は何もない。周りがどれだけ支えてくれても、私の中で暴れる毒か何かが止まらない限り、この苦しみは終わらない。
医師の声、魔術師の呟き、エミーやローザの泣きそうな呼びかけ――すべてが遠くで混ざりあい、やがてノイズに消えていく。私はまたしても“眠り”というより“気絶”のような深い闇へ引きずり込まれそうになる。もしかしたら、もう戻ってこれないかもしれない。でも、意識をつなぎ止める方法は見つからない。まぶたは重く、身体は引き裂かれるほど痛み、呼吸はままならない。
(こんなの、嫌だ……まだやりたいことがたくさんあるのに……外へも出たいし、こんなドレスじゃなくて別の服も着たいし……それに……領地のこともラグレン家の陰謀も……何も分からないまま)
そんな断片的な思考も、次第に闇の底へ沈んでいく。疲れ切った体は、痛みさえ感じなくなるほど深い眠りに落ちようとしている――いや、意識を止められないまま堕ちていく感覚だ。最後に聞こえたのは誰の叫び声だったろう。エミーか、ローザか、それともベアトリーチェか。もはや確かめる術はなかった。
(ああ、もうダメなのかな……?)
すべての感覚が遠のき、暗黒へ吸い込まれる。私は恐怖と絶望を抱えたまま、再度意識を手放していた。
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