溶けゆく毒と、消えない決意――7歳当主は眠らない①
朝のやわらかな陽射しが、敷き詰められた白い石畳を静かに照らし出している。私は――リアンナ・クラリオン、先日7歳になったばかりの伯爵家の当主ということになっている――屋敷の中庭をぐるりと見渡して、大きく息を吸い込んだ。久々に外の空気を思いきり味わえる時間がやってきたのだ。といっても、敷地の外へ出られるわけではない。あくまで“屋敷の庭”の範囲で、安全がしっかり確保された状態でなら、多少自由に歩き回れる――それだけの話。しかし、屋内に閉じこもりきりだった日々を思えば、この限られた自由だけでも嬉しい。
(……それにしても、やっと庭に出られるようになった……7歳になったし、脚の怪我だって完全に治ったんだから、そろそろ屋敷の外を散歩してもいいじゃないかって思うんだけどな)
そんな小さな不満を頭の片隅で抱えながらも、私は石畳の上をトントンと軽く足踏みしてみる。以前の怪我の影響は、もうまったくない。むしろ、この幼い体には溢れるほどのエネルギーが詰まっている気がする。前世の記憶があるおかげで、自分がいまどれだけ「子どもらしい体力」を獲得しているかがよく分かるのだ。それは奇妙な感覚だけれど、とにかく走り回れることが嬉しい。
「リア、あんまりいきなり走ると転ぶから、気をつけてね~」
と、少し離れたところからエミーの声が飛ぶ。毎回同じ注意をしてくれる。見れば、彼女とローザがこちらを警戒するように立っていて、私を見守っているのがわかる。そう、万が一また“暗殺未遂”のような事態が起きる可能性を排除できないから、庭とはいえ警備や侍女が常に付き添うことになっているわけだ。
(安全のためっていうのは分かるんだけど……もうちょっと自由がほしいなあ)
それでも、久々に本格的に身体を動かせる喜びが勝り、私は小さく息を吐いてから石畳を蹴り、駆け出した。風が頬をかすめるこの感覚――前世で大人だった頃、ジョギングなんかをしていた懐かしい“走る”という行為を思い出す。あのときは健康管理のためにやっていたが、今は無邪気に全力疾走できるだけで心が踊る。足も痛まないし、体全体を使う解放感が何とも言えない。
庭の奥まで走り抜けると、周囲は高い塀に囲まれていて、さらに兵士たちが見回りをしている姿も見えた。確かにここなら安全だろうし、誰か怪しい人物が入り込もうとすればすぐに分かるはずだ。私が止まって振り返ると、エミーとローザが「あーあ、もう……」という呆れ顔で追いついてくる。でも、その表情には少し微笑みも混じっている。
「大丈夫、大丈夫。もう脚は完治してるし、転ばないよ~」
私が軽く手を振ると、ローザが「そうは言っても、いきなり全力疾走しちゃうんだから」と苦笑い。エミーも頷きつつ、「怪我が再発したら大変よ?」と釘を刺してくる。いつものことながら、心配症なのはありがたい半面、ちょっと窮屈に感じる。
そして、何よりも窮屈に思うのが、今私が着ているこの“ひらひらドレス”。色味はまだ抑え気味にしてもらってはいるけれど、7歳の女の子らしいフリルやレースはしっかり付いていて、スカートの裾がふわっと広がる。走るとやや邪魔になるし、何より気分的に落ち着かない。前世で男だった意識があるからか、やっぱりこういう“女の子らしい”衣装には微妙な抵抗があるのだ。
(もうちょっと動きやすい服がいいのに……いっそ、ズボンとかでもいいのに……)
でも、伯爵家の“お嬢様”として、周囲はあくまで女の子の恰好を当たり前と考えていて、私が文句を言ってもなかなか真面目に取り合ってくれない。「女の子なんだから、可愛い服を着ようね」という空気に流されるばかり……。仕方なく私も迎合している形だが、いつか“服装の自由”を取り戻したいと思わないでもない。
そうやってドレス姿で走り回るのはちょっと嫌だけれど、庭には興味をそそるものがいくつもあった。花壇には見たことのない形状の花が咲き乱れ、まるで違う世界から切り取ってきたような彩りを放っている。温室の中には、異世界らしい奇妙な葉の植物がうねうねと茂っているのを窓越しに見られるし、遠くには屋敷を取り囲む大きな塀がそびえ立っていて、その向こうにはうっすらと森や山が見える――それらもどこか幻想的な雰囲気を漂わせている。
(うわぁ……やっぱりここは前世の日本とは全然違う場所なんだ……)
長い年月をかけて少し慣れた気になっていたけれど、改めて外の空気に触れると、この世界が“異世界”であることを強く感じる。不思議な花や樹木、そして空の色合いまでも微妙に違う気がする。でも、それがなんだかワクワクするのだ。まるで童心(いや、実際に7歳児なんだけど……)に戻って探検しているような高揚感がある。
「ふぅ……」
しばらく走り回って少し息が上がってきた。石畳の脇に腰を下ろし、軽く呼吸を整える。運動してほてった身体に、朝の風が気持ちいい。前世でもランニングをしていたが、今は小さな足で駆け回るだけで全身が熱をもって、汗がじわりと浮かんでくる。
エミーとローザがそばに寄ってきて、「水分とる?」と小さな水筒を差し出してくれたので、私は受け取ってゴクゴクと飲む。なんだかんだ言って、周りの気遣いには感謝している。自由が利かないとはいえ、保護されている安心感はそれなりに大きい。
ほっと一息ついていると、ふと視界の片隅に“何か荷物の山”が見えた。庭の端のほう――屋敷の運搬用通路に面した場所に、大きな木箱や布で包まれた荷物がいくつも置かれている。まるで市場の出店が丸ごと移動してきたかのような光景だ。
「……あれ、何かいっぱい荷物が置いてあるね。こんなにたくさん、どうしたの?」
私がローザに尋ねると、彼女は「ああ、あれね」と視線を向けてから「あれは定期的に送られてくる特産品の荷物よ。ちょうど今日到着したばかりなんだって」と答える。「荷物の検査が終わって運び込まれたところね。」
エミーも頷きながら、「異なる領地どうしで、特産品のやりとりをしているの。うちからもあちらに送ることがあるし、こうして定期的に届くこともある。今回は……どこからだったかしら」と首を傾げた。するとローザが「確か、同じマロヴァ王国の所属で……フローレスク家からの荷物だって言ってたわ。フェルバルトって領地を治めている家」と教えてくれる。
「フェルバルト……」私は思わず声に出す。聞いたことがあるような、ないような……。王国の中でも特に林業と鉱業が盛んな場所、というのは噂程度に聞いたかもしれない。どうやらそこで作られた工芸品などが今回届いたらしい。
「へえ……どんなものなんだろう?」
興味をそそられ、私はエミーとローザの目を窺う。彼女たちは「うーん、まあ見るだけならいいんじゃない?」という感じの表情で、苦笑混じりに頷いてくれた。
近づいてみると、木箱の蓋が開けられ、いくつもの工芸品が詰め込まれているのが見えた。金属の光沢を放つオブジェ、複雑な模様が刻まれた木製パネル、宝石のような小さな石を埋め込んだ飾り皿……どれもが“異世界”らしいデザインや色彩で、私の心をわくわくさせる。
「わ……すごい……こんなに綺麗なものを作れるなんて……」
思わず感嘆の声を漏らす。前世では工芸品にそこまで興味を持っていなかったが、実際にこうして触れられる距離にあると、その芸術性に圧倒される。
周りを見渡すと、ほかにも何やら奇妙な籠や金具、装飾品が入った小箱がいくつも積まれている。細かい手仕事の痕跡が感じられ、眺めているだけで時間を忘れてしまいそうだ。
「フェルバルトは林業と鉱業が盛んな土地だから、木材や鉱石を使った工芸が発達してるんだってね。こういう交流で、お互いの文化を理解したり、特産品を宣伝し合ったりするのよ」
ローザが解説してくれる。エミーも「相手が喜ぶと、うちの土地の特産品も広まるわけだし。こういうやりとりは古くから続いてるの」と続けた。
私はひとつひとつの品を珍しそうに眺めまわるが、そのとき、ふと視界の隅に籠が置かれているのを見つけた。ざっくりと編まれた籠に、鮮やかな赤い実が山盛りに入っている。大きさはラズベリーに似ているが、粒がやたら大きい。
「……あれは何だろう? 果物……だよね?」
そう呟いて、思わず近づいて見ると、確かにベリー系の柔らかそうな果実がぎっしり詰まっている。ちょっと触ってみたいけれど、さすがに勝手に取って食べていいのかは迷うところだ。ローザに視線を向けると、彼女は「ああ、それは『ラズィーナ』っていう実らしいよ。いろんな地方で特産品になっているんだって。今回の品物の中に混ざってたみたい」と答える。
「ラズィーナ……ラズベリーみたいだけど、サイズが……大きいね。どんな味がするんだろう……」
私が好奇心を抑えきれずに聞くと、エミーが苦笑しながら「食べても大丈夫だと思うけど、食べすぎはお腹に良くないかもよ」と言う。私が「ほんの少し味見したいだけ……」とおどけてみせると、ローザと顔を見合わせたあと「まあ、大丈夫じゃない?」という流れになった。
さっそく小さな粒をひとつ摘んでみる。赤く透き通る果肉がぷるぷるしていて、なんだか美味しそうだ。舌の上に乗せると、ほんのりした甘さと、わずかな酸味がじんわりと広がり、意外と柔らかい。果肉の汁が口の中に広がって、ちょっと瑞々しい感じがする。確かに滋養に良さそうだ。
「おいしい……甘いけど、少し酸っぱくて、何だか体が元気になる感じ……」
思わず呟き、飲み込むと、さらにもう一粒食べてみたくなる。けれどエミーが「食べすぎないでね」と念押しするので、少し自制してふた粒目を口に入れる。同じように甘酸っぱさがやってきて、それを味わいながら私は小さく笑った。
「エミー、ローザもどう? おいしいよ。ほら……」
そう言って、私が籠から数粒を手に取って、二人に近づこうとした瞬間――
突如、身体の奥から“ぎゅうっ”と何かに締め付けられるような感覚が走った。肺のあたりが固まるというか、息を吸おうとしても空気が入ってこない。まるで胸郭を急に鷲掴みにされたような激痛が走って、私は思わずラズィーナの実を手から取り落とした。
「――っ、あ……ぐ……」
声にならない声が喉の奥で詰まる。次の瞬間、猛烈な吐き気が襲い、胃の中がひっくり返るような感覚。私は抑えきれずに嘔吐し、甘い液体が口からこぼれ落ちる。その瞬間、視界が暗転しかけ、足が震えて倒れ込みそうになる。何が起きているのか分からない。ただ、呼吸ができない。空気がまったく入ってこないのだ。
「リア!? 大丈夫、どうしたの!?」
エミーの慌てた声が遠くで響き、ローザの悲鳴も聞こえる。けれど、耳がぼわんと鳴って、周囲の音がうまく掴めない。体の中から空気が逆流して抜けていくような、あるいは誰かに肺を掴まれているような苦しみが止まらない。呼吸しようとしても、何かが喉を塞いでいるようで、息がまったく通らない。
「ぐっ、ぁ、……あ……」
変な声しか出せない。咳をしてみようにも、肺が動いてくれない。内臓がぐしゃぐしゃに握り潰されるみたいな痛みが胸から腹へ突き抜けてきて、一瞬、頭が真っ白になる。何かを叫ぼうとしても声が出ない。呼吸したいのにまったくできない恐怖と苦痛が重なり、私は地面に手をついて蹲りながら身体を揺らす。
「リア、しっかりして……!」「だれか……救護を呼んで……早く……!」
エミーとローザの声がかすかに耳に飛び込んでくるが、それどころではない。意識が遠のいていくのが分かる。喉の奥から血が湧くような感覚さえあるが、実際には何も出ていないのかもしれない。とにかく呼吸ができない。肺が動かない。死ぬ――そんな直感が脳内を駆け巡った。
痛みと苦しさでどうしようもなくなりながら、私は地面に顔をつけるように倒れ込む。ドレスの裾が汚れるなんて、もはや意識していられない。視界が黒く染まり、鼓動がとんでもない速さで鳴り響くのが分かる。だが、それも徐々に遠ざかる気がする……頭が回らなくなり、ただ苦しみに身を委ねるしかない。
(ああ……なんで……こんな……。息ができない……あれ? ラズィーナが原因……なのかな……?)
わずかにそう思いかけたが、すぐに思考が断ち切られる。呼吸できない。息が詰まる。身体の中の空気が全部抜き取られたみたいな恐怖が膨れ上がって、意識は完全に暗転する。私の小さな身体は、ドレス姿のまま地面に崩れ落ち、そのまま動けなくなっていく――。
エミーやローザの絶叫が遠のいていく。ひんやりとした石畳の感触だけが、かろうじてこの世界との繋がりを示していた。
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