動くのも勉強も大変だけど… 今日の晩餐は逃せません!①
私が左脚に深い傷を負ってから、すでに何日が過ぎただろう。ベッドに伏している間に季節が変わったような気すらするけれど、実際はそう大した時間ではなかったらしい。3歳の身体の回復力と、何よりマギア治療のおかげで、ようやく私は痛みをさほど感じずに歩けるようになってきている。まだぎこちないし、まるで足に重りをつけているかのようにバランスが取りにくいが、それでも「動くたびに激痛が走る」という最悪の状態は脱したらしい。医者やローブ姿の治療師は「焦らずあと少し休養を」と言うけれど、私としては「早く自由に歩き回りたい」という思いが日に日に強くなる。
新しい部屋での生活は快適そのもので、天蓋付きのふかふかベッド、魔道具による空調、そして広い洗面所やお風呂まで備えつけられている。まるで、“この部屋だけで生活が完結してしまう”ほどの便利さだ。領地の名である「マルディネール」や、家名である「クラリオン」も、文字を勉強し始めたことでようやく頭の中でハッキリ区別がついてきた。たとえば、私は“クラリオン伯爵家”に生まれ落ち、その領地が“マルディネール”なのだ。もっとも、昔は両方まとめて「あの辺り」と呼んでいたようだし、私自身も「どっちが家の名前で、どっちが土地の名前なの?」とぼんやりしていたが、ようやく分かったときにはちょっとした達成感さえあった。
前世の知識を活かして文字の習得を急ぎたいと思ってはいても、3歳の身体ではなかなか根気が続かない。大人の脳の断片をもってしても、集中力は幼児のレベルに縛られてしまうし、書き取りをしようにも手が思うように動いてくれない。読み書きの段階でつまずくと「こんなはずじゃ……」とイライラしそうになるが、そこは3歳児らしくあっさり飽きてしまったりして、自己嫌悪と苦笑いを同時に味わう。エミーやローザが明るくサポートしてくれるおかげで、落ち込みすぎずに続けられているのは救いだ。
部屋の中で完結する生活は便利でありがたいけれど、同時に少し“引きこもり感”が拭えない。怪我がほぼ治ってきているとはいえ、暗殺の脅威が完全になくなったわけではないらしく、外の庭を自由に散歩するのはまだ止められている。そもそも危険が潜んでいる可能性を考えれば、当面は屋敷の内部だけで我慢したほうが安全なのは理解できる。でも、私の中には「このままずっと部屋にこもるなんて嫌だ」と訴える声もあるのだ。確かに不自由を感じないほど豪華な空間ではあるけれど……。前世を思い出すまでもなく、誰だって外の空気や景色は恋しくなる。
特に私が気にしているのは“隣の領地”の存在だ。耳にする噂やボリス、ベアトリーチェの断片的な説明によれば、ラグレン公国の領主、エルネスト・ラグレン公爵が今回の事件に関わっている可能性が高いらしい。もともと私の家――クラリオン伯爵家――が“マロヴァ王国”の家臣としてマルディネールを領している一方、ラグレン公国は独立国であり、公爵としての地位を持っている。しかも遠縁の親戚筋ということで、もし私がいなくなれば(つまり死んでしまえば)、マルディネールの相続権を主張できるらしいのだ。前世の法律知識でも、相続人がいない場合には、「特別縁故者」が相続できる、という制度がある。
もちろん、それとは違うだろうが、「相続人がいないなら、一番近い私が」という話しは共通しているのだろう。しかし、そんなことで命を狙われるなんて、たまったものではない。そんな危険な存在がすぐ隣にいるかと思うと、怖くて仕方ない。実際、私が狙われた暗殺未遂が、彼らの差し金でないとは言い切れないのだ。
(もし私が殺されてたら、エルネスト公爵がこの豊かなマルディネールを手に入れたのかな……。領民のためとか言いつつ、本音は自分の勢力拡大が目的かもしれない。)
そんな考えを巡らせるだけで、背筋がぞわりと震える。エミーとローザからは「難しいことは今考えなくていい」と言われるが、領主としての責任――そして前世の理屈っぽい精神――が「そのうち真剣に向き合わなければならない」と警告を鳴らすのだ。
もっとも、いまは身体を治し、基礎的な教養を身につけるのが最優先。ベアトリーチェが用意してくれた入門書には、この大陸の大まかな地理や歴史が分かりやすく描かれている。文字こそ不慣れだけれど、エミーやローザが読み聞かせる形で内容を少しずつ把握できるようになってきた。中でも興味深いのは、私たちが住む“中央大陸”と呼ばれる広大な土地の成り立ちだ。
そこでは、かつてアウレリア帝国が隆盛を極めたが、魔法技術の進展と共に総督(自治派)と皇帝(中央集権派)が対立し、結果として帝国は崩壊。そこから複数の王国や公国が乱立する時代が続いた――という流れがざっくりと書かれている。私の住むマロヴァ王国も、そうした混乱の末に成立した国の一つらしい。そしてクラリオン家の先祖が、初代国王に仕えて活躍した結果、伯爵としてマルディネールを貰ったという由来があるわけだ。なるほど、こういう歴史の中で私たちの領地は確立されてきたのだと実感すると、少し誇らしいような気持ちにもなる。
「でも、世界はやっぱり広いんだ……。いろんな国があって、マロヴァ王国だけでも私の領地とはまるで違う文化を持つ地域がたくさんあるらしいし……」
私は読み聞かせや書き取りを通じて得た知識を頭の中で整理しながら、ぼんやり呟く。エミーとローザは「リアは本当に勉強が好きだねぇ」と笑うが、これも幼児の体がすぐ飽きてしまうから、細切れの時間でちょこちょこと学んでいるだけだ。それでも、まだ3歳にしてはかなりのペースらしく、ベアトリーチェも「もう字も結構分かるようになったわね」と感心してくれた。
そんな“勉強ライフ”を続ける日々の合間、私にはもう一つの毎日の恒例行事がある。――お風呂。怪我がほぼ治ったとはいえ、まだ左脚を完全に動かせないし、無理して転んだりすれば再び傷が開くかもしれない。だからといって湯浴みを怠るわけにもいかないし……結局、毎回エミーとローザがつきっきりで世話をしてくれるのだが、これがどうにも恥ずかしい。幼児の体がほとんど無抵抗に“洗ってもらう”のを受け入れるのに対し、心のどこかに残る前世の感覚が「こんなにも女の子の身体をあけっぴろげに見られるのは……」と赤面させるのだ。
「女の子はきれいにしないとね。特に傷口があるから、絶対に清潔にしなきゃいけないんだよ?」
エミーがそう言ってタオルを持って近づいてくると、私はなぜか体がこわばってしまう。見た目は3歳児だし、エミーも侍女として当然の仕事をしているだけなのに、心のどこかがざわめくのだ。「こっちは女児で、向こうも女性で、そんなに変ではない」と頭では分かっていても、どうにも割り切れない。もちろん、3歳児としての甘えもあるから、結局は「うぅ……よろしく……」と小声でお願いするしかない。そして、湯船につかると「ああ、気持ちいいな……」とリラックスしつつも、若干の恥ずかしさがずっとつきまとい、なんとも言えない感情に包まれる。
もっとも、これまでに暗殺事件があっただけに「ここで転倒して頭を打ったら、バカみたいに死んでしまうかもしれない」という恐れもあり、結果として“お風呂はふたりと一緒”がベストな選択だと受け入れるしかない。妙な葛藤があるものの、疲れた身体をお湯でほぐされるのはたまらなく快適だし、エミーやローザの存在が安心感にもつながっている。私の中の前世の意識は「こんなに甘えていいのか?」と戸惑うが、一方で3歳児の感覚は「もっと甘えたい」と訴えてきたりする。自己矛盾を抱えながら、毎晩その湯船で半分とろけそうになり、優しく背中を洗われているときの幸福感は否定できない。
そんなふうに“甘やかな日常”を過ごしながらも、私の頭の奥底には常に“領主としての責任感”が小さく鳴り響いている。前世で仕事をしていた頃は、多少の理論構築や交渉ごとには慣れていたが、それでもいまの状況はまったく未知の領域だ。暗殺者の危機を抱え、幼児の体しか持たず、しかも“女の子”として生きていく――正直、未知すぎて不安しかない。でも、だからこそ、いま始めた勉強は絶対に無駄にはならないと思うのだ。このまま守られっぱなしで終わるつもりはないし、領民も、エミーやローザも、みんなが笑って過ごせるマルディネールを守りたい。
「リア、書き取りしすぎて疲れてない? また後でベアトリーチェ様が来るみたいだけど、無理はしないようにね」
エミーが私の横でクッションを整えながら声をかけてくる。私はペンを握ったまま「うん……分かった。ちょっと休む」と答える。毎日、少しずつ文字を書いたり読んだりするのは面白いけれど、身体が小さいぶん一度に集中できる時間が限られる。それに、貴族社会やマギア関連の基礎知識も並行して学ぶとなると、頭がぐるぐるしてしまうのだ。エミーとローザは「3歳でそこまでやらなくても……」と苦笑いするが、私からすると「手遅れになる前に“守る手段”を得たい」という焦りがある。
(エルネスト・ラグレン公爵……。ラグレン公国……。独立国で、公爵としての地位を持つからこそ、マロヴァ王国とは微妙に立場が違う。もし本当に、私の領地を狙っているなら……)
そんな考えが頭をよぎっては消える。勉強しながらも、時々ふと暗い想像が湧いてしまうのは仕方ない。とはいえ、いまは怪我を完治させるのが最優先だ。焦って自分を追い込んでも仕方ないし、何より3歳児の身体には限界がある。私はペンを置き、ふぅっと溜息をつく。
「また足が痛む? 大丈夫?」とローザが振り返り、私は苦笑しつつ首を横に振る。
「ううん、足は平気。……ちょっと考えごと……」
エミーが「そりゃまあ、大変だよね。いろいろあるし」と笑ってくれる。そのとき、私の中の違和感がまた小さく疼いた。“女の子の身体なのに、こうしてふたりに甘えたり、時には子ども扱いされたりするのは当然”という状況……前世では思いもよらなかった。でも、この体温とやり取りが優しく感じられるのも事実。そんな矛盾を抱えながら、私はほんの少し伸びをして、部屋の天井を見上げた。天蓋ベッドのレースがゆらゆら揺れ、華やかな魔道具のランプが淡い光を放つ。
「さて……昼ごはんの時間まで、まだもう少しあるから、ちょっとだけ休む? それとも絵本を読んでみる?」とローザが選択肢を与えてくれる。私は少し迷ったが、勉強のしすぎで頭が重いので「絵本、読もうかな……」と答える。すると、彼女はさっそく本棚から鮮やかなイラストが描かれた一冊を手に取って、私の横に腰掛けた。
これが3歳児としての日常――甘い休息と地道な学び。それが今の私に与えられた“役割”なのだろう。やがて、読み物に集中しているうちに脚の痛みや性別の違和感も薄れていき、私の心は物語の世界へ溶け込んでいく。偉大な英雄がドラゴンを退治する話や、魔法使いが街を救う話など、異世界らしいファンタジーが満載で、読み聞かせに合わせてちょっとずつ文字を追っていくと、知らず知らずのうちに語彙や文法を覚えていけるから面白い。
(いつか、私自身が“ドラゴン退治”とはいわないけど、何か大きな問題を解決できるくらいに強くなれたら……)
そんな夢想を抱きつつ、絵本を読んでいく。目に飛び込んでくる新たな文字や単語が嬉しくて、前世の私も昔はこうやって言葉を吸収してきたのかなとしみじみ思う。時間が経つと、エミーが一度部屋を出て昼食の準備をしてくれるらしい。ローザは側に残ってくれるので、何かあっても安心だ。
新しい部屋で、こうして毎日を少しずつ過ごしているうちに、私は怪我の回復を確実に実感していく。足を引きずりながらも、廊下を短く往復できるようになり、お風呂では長く立っていられるようになった。そして勉強も、“あいうえお”に相当する基礎文字だけでなく、貴族制度やマロヴァ王国の仕組み、そしてマルディネールの領土情報など、ちょっとした基礎知識まで頭に入れられるようになっている。
夜、天蓋ベッドに沈みこむ前に、私は心の中で静かに決意を呟く。
(あと少し、ちゃんと歩けるようになったら、もっと詳しくこの領地のことを学びたい。母が残した資料だってどこかにあるかもしれない。エミーとローザにも甘えっぱなしじゃダメだよね……。領民を守るためにも、隣のラグレン公国に対抗できるよう、私が力をつけないと……!)
その一方で、湯上がりに自分の幼い体を見下ろしたとき、「この姿が私なのか」と戸惑う瞬間があるのも事実だ。男として生きていた頃との隔たりは、3歳になっても薄れない。ただ、無理に抗っても仕方ないし、こうして守られて幸せを感じる時間も大切だと思い始めている自分がいる。
(もしかしたら、そのうち慣れてしまうのかもしれないけれど……でも、いいや。いまは考えすぎずに前進しよう。性別がどうであれ、この領地を継ぐのは私なんだし)
そんな半ば開き直った思考を抱えつつ、寝息をつこうとすると、エミーやローザの柔らかな声が子守唄を口ずさみ、私の意識は徐々に夢の世界へ誘われる。大きな事件がなければ幸せな夢を見られるかもしれない。ここが豪華な部屋とはいえ、私にとってはまだ“安全地帯”でしかない。暗殺者の陰謀を振り払うには、不確定要素が多すぎるけれど、やれることを少しずつ積み重ねるしかないのだ。
明日はもうちょっと歩けるかな。勉強も進むかな。お風呂も少しは自分で入れるようになりたいし……そんな幼児らしい小さな欲求と、前世の責任感が入り混じって、私のまぶたは重たく閉じていく。
(この世界で女の子になったこと、正直まだ慣れない。でも……少しずつ変わっていくのかな。成長しながら、マルディネールを守っていく力を身につけるよ……)
そんな決意を胸に、私はレースのカーテン越しに見える小さなランプの光を眺めながら、ゆっくりと眠りへ落ちるのだった。遠くには海のさざ波が聞こえる気がする。私の領地、マルディネール。その豊かな土地と人々を守るためにも、いつかちゃんと領主として自立しなくちゃいけない。3歳という幼い体で、それがどこまで可能なのかは分からないが、少なくとも、歩みを止めるつもりはない――そんな意志だけは、暗闇のなかでも揺るぎなく存在していた。
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