小さな背伸び、大きな陰謀──幼児の視線に映る赤い矢②
夕暮れを浴びるバルコニーの空気は、昼間の熱気と夜の冷気が混じり合う、不思議な温かさを帯びていた。私――リアンナは、エミーの腕のなかで少しばかり上機嫌だった。3歳を迎えてから、このバルコニーに出て世界を見下ろすのが日課になりつつあり、その時間が一日の中でいちばんワクワクする瞬間でもある。屋敷の廊下も庭も、もうずいぶん自由に歩けるようになったとはいえ、まだ敷地の外には出られない。だからこのバルコニーから眺める、遠くの町や森らしきものは、私にとって“未知の世界”を想像させる絶好のスポットなのだ。
「ほら、もう少し左に体重移すと危ないよ」
エミーが笑いながら私の腰を支え直す。私は心の中で「危険ってほどじゃないでしょ?」なんて思いつつ、つい甘えて彼女の腕に自分の体を預ける。前世の記憶では成人男性だった自分が、いまや3歳女児の身体で侍女に抱きかかえられているのだから、未だに変な感覚が拭えない。けれど、3歳児の心と体は意外なほど純粋に“抱っこされる安心感”を求めていて、結果的に「もっと、もうちょっと……」と依存してしまうことも多い。自分の意思では大人ぶろうとしても、身体が幼いとどうしようもないのだ。
夕陽の赤橙色の光が、屋敷の石造りの壁を淡く染めている。バルコニーの手すり越しに目をやると、先日まで激しかった工事の音もだいぶ落ち着いているのか、遠くからわずかに「カン……カン……」という鉄を叩くような音がするだけだ。たぶん外壁を広げる作業の仕上げ段階だろう。工事が完成すれば、この屋敷の敷地はさらに広がり、将来のための温室や花壇、離れの建物もできるらしい。大人たちが騒いでいたから、けっこうな予算と手間がかかるはずなのだが、それも全部「3歳の私のため」だというのだから、どこか申し訳ない気分にもなる。
それでも、今はそんな政治的事情や予算の話を脳裏から追い出し、単純に“外を見下ろす楽しみ”に浸りたかった。エミーの抱っこはあたたかく、3歳の体にとっては安定感も抜群だ。ただ、まだ景色を見渡すにはちょっと視線が低いかな……と、欲張りな考えが頭をもたげる。そこで、私は思わず――
「ねえ……エミー、もっと……」
と呟く。あまりにもあっさりした要求に、エミーは一瞬キョトンとした顔をするが、すぐに気づいたようで、「あ、もっと高く抱っこしてほしいの?」と聞き返してきた。私は小さく頷き、視線を外に注ぎ続ける。「うん……もうちょっとだけ……見えると、思う……」と言葉は半端だが、幼児らしい舌足らずの発音を自覚しながらも、なんとか意志を伝える。
「よいしょ……っと」
エミーが少し踏ん張って私の身体をさらに持ち上げる。両脇をしっかり抱えられて、私の視線が数センチ、いや数十センチほど高くなるのを感じる。たったそれだけなのに、バルコニーの手すりの向こうに広がる風景が大きく変化した。視野の端に何か白っぽい鳥が飛んでいるのが見えて、私は思わず笑みを浮かべる。そうだ、数日前にも奇妙な色合いの鳥を見かけたっけ。あれは赤と紫を混ぜた羽をしていて、本当にこの世界が“私の前世とは違う異世界”だと実感させてくれた。今日はどんな鳥がいるのか、もしかしたら新しい発見があるかも……――そのとき。
バチンッ……!
「え……?」
まるで火花がはじけたような、花火じみた破裂音が空気を裂いた。こんな時間に花火などあるわけがないけれど、いずれにせよ不自然な衝撃音に、私はとっさに息を飲む。エミーの身体がビクッと硬直し、「いまの音、何……?」と不安そうにつぶやく声が耳にかすかに届く。
次の瞬間、私は左脚の太ももに妙な“圧”を感じた。それは痛みというより違和感、でも瞬時に違和感は激痛へと変わり、私の体内を鋭く駆け抜けた。
「……あ、あ……」
短い声しか出ない。目を落とすと、左太もものあたりに“大人の手のひらサイズの棒”らしきものが突き刺さっているのが見えた。それはまるで矢のように先端が尖り、羽根のような部位も付いていて、私の柔らかな肌に深々と食い込んでいた。
グツッとした灼熱の痛みが一気にこみ上げる。矢が刺さっているというより、火で炙られた鉄棒を押し当てられたような……そんな恐怖をともなう熱さだ。私の頭は一瞬白くなり、声も出なくなる。あり得ない状況だ。誰かが私を狙って、バルコニーに向かって矢を放った? こんな突然……?
「痛い……熱い……!」
ようやく声を出せたと思った瞬間、涙がどっと溢れそうになる。3歳児の体は痛みにあまりにも弱く、理性が追いつかない。
「リアッ!?」
エミーが悲鳴に近い声で私の名を呼ぶ。次には、こちらに背を向け――いや、私からすると“外に背を向けて”という形で抱えるように覆いかぶさってきた。夕焼けの景色がエミーの肩で一気に遮られる。痛みと恐怖が混乱して、私は何が起きているのか分からない。ただ、エミーが私を守ろうとしてくれている気配だけは分かった。
また、バチンッ!! 先ほどと同じような破裂音が響き渡る。花火とは全然違う、もっと鋭い空気の振動。エミーの身体が震えた気がしたが、どうにか彼女は踏ん張って、そのまま私を抱えながらバルコニーの扉へと向かおうとする。
「ローザ! ローザッ!」
彼女が部屋の中に向かって叫んだ次の瞬間、部屋からローザが慌てふためいた足音を立てて飛び出してきた。
「なになに!? 今の音!? キャッ……リア!? 血が……!」
ローザの叫び声は半分泣き声のようだった。エミーが「急いで……中へ……引っ張って……!」と鋭い調子で指示すると、ローザは力任せに私たちを引きずるようにして部屋へ押し込む。私が矢を刺されたままの左太ももをわななかせている間に、二人が何とかバルコニーの扉を閉めて、鍵を掛けるのが見えた。
扉越しに外気が切り離されると、部屋の中に戻って来たという安心感がわずかにあるものの、私の脚からは鈍い熱と血の感触が止まらない。じわりじわりと血が染み出し、肌に貼りつく。こんな流血は前世含めて経験したことがない。
「う、……あ……痛……い……」
もはや声にならない呻きだけが漏れて、3歳児の体が震え続ける。エミーが抱きしめたまま「誰か……医者を! 助けを呼んで!!」と絶叫し、ローザが大慌てで廊下へ走り出す足音がする。
「血が……血が……」
誰かの声が混ざる。私自身も意識が飛びそうなくらいのショックを受けているのを感じた。前世ではこんな流血を直接見ることなどなかったし、いまも目の前で我が脚から漏れ出る赤黒い液体に背筋が凍る。痛い……熱い……おかしい……なぜこんな……。
「大丈夫、リア、大丈夫だから……!」
エミーの声が必死に励ましてくれるが、彼女自身も怯えた顔で、涙目になっているのが分かる。私の服はすでに血で濡れ始め、体温も急速に奪われていくような寒気が襲ってきた。
「あ……し……」
言葉を紡ごうとしても舌が回らない。こんな幼児の体では、痛みに対処する術もなく、思考が真っ暗な底へ沈んでいく。
そこへ、ガチャリと扉が開いて、別の侍女や兵士らしき人が駆け込んできた。みんなが一斉に「医者は!?」「急げ!」「上手く引き抜けるのか!?」と口々に叫ぶ。泣きそうな声、怒鳴るような声。騒然とした空気が私を包み込み、頭の中がグルグルするばかり。幼児の私にとって、この痛みと騒ぎはあまりに刺激が強く、細い意識の糸がぷつりと切れそうだ。
「と、とにかく医務室……!」
聞こえてきた誰かの声に、私は抱きかかえられたまま部屋を出される。視界が激しく揺れ、廊下の照明がキラキラと目に沁みる。何人もの足音が私たちを取り囲むが、誰一人落ち着いた様子じゃない。誰かが半狂乱で「血が……血が……」と繰り返す声が耳を打つたび、左脚の痛みが余計に強く感じられて、私は意識の隅で「もうやめて……」と祈ってしまう。
「ここ……医務室に……!」
慌ただしい叫びの中、私の体は柔らかいベッドか何かの上に乗せられた。するとすぐに「消毒を! 包帯を!」という声が飛び交い、誰かが私の服を裂くように切り開いていく。幼児の私には、その行為自体がさらに恐怖を煽る。失神寸前の頭で「痛い……やめて……」ともがくが、身体は脱力してほとんど動けない。
「血止めを急いで……! 棒を抜くのは医者が来てから……迂闊に抜けない……!」
必死の叫び声が飛び交う。矢、もしくはクロスボウのボルトらしき“棒”が私の太ももに深く刺さったまま。抜こうとすればもっと傷が広がるかもしれない。医者の判断がなければ勝手に引き抜けないのは分かるが、この痛みと血はどんどん私を追い詰めてくる。
「あ……あう……」
もはや、声にならない。口がパクパクして、涙が勝手に溢れてくる。きっと前世だったら、何とか意識を保てただろうけれど、今の私はたった3歳。痛覚も精神的耐性も足りず、一気に意識が遠のいていく感覚に襲われる。
「大丈夫だから……絶対、大丈夫だから……!」
エミーかローザか、どちらかが私の手をぎゅっと握っている気がする。その温もりを感じながら、私は視界の端がじわじわと黒く覆われていくのをはっきり自覚していた。痛い——すごく痛い。でも、もうそれすらぼんやりと霞む。周囲の騒ぎも、どこか遠い遠い場所で響いているように思える。
(こんな……突然……どうして……誰が……)
頭をめぐる疑問は尽きないが、3歳の身体では支えきれないショックが大波のように押し寄せる。バルコニーから見ていた、あの美しい夕焼けが嘘のようだ。いつもならエミーの抱っこが頼もしかったのに、今回は痛みと恐怖が勝ってしまい、意識は闇に沈みこむしかない。血がどくどくと流れ続けている感覚を最後に、私の瞼はゆっくりと閉じられ、騒然とした声も徐々に遠のいていく。
「リアンナ! リアンナ! しっかり……!」
誰かの切実な呼び声が耳に届くが、声を返すことはできない。最後に感じたのは、熱い血の滴が床に落ちる音と、自分自身の呼吸がどこまでも浅くなる感覚。それから、すべてが暗転する。まだ3歳。やっと、いろいろなことができるようになってきたばかりなのに——こんなタイミングで、まさか誰かに狙われていたなんて。幼い身体が浮くようにフワリと軽くなり、私の意識は一気に深い深い闇へ飲み込まれていった。
こうして、バルコニーでの穏やかな夕暮れの一幕は、一瞬で血の惨劇に変わった。幼い領主を狙った謎の矢。その正体は何なのか、誰がそんな仕業を? そして、私の太ももに突き刺さったその凶器によって、私の運命は大きく変わってしまうのか——。
この3歳の体はまだ世の理不尽に抗う力を持たない。驚きと痛みにまみれ、守ってくれる侍女たちの腕の中で流れた血は、きっとこの屋敷と私の未来に、暗い影を落としてしまうのかもしれない。意識が途切れる間際、私はそんな不安を抱きつつも、子どもの涙を流しながら“誰か助けて……”と心の中で叫ぶしかなかった——。
夕焼け空の美しさは、今や遠い彼方の記憶。私の視界は赤黒い暗闇に沈み、一切の感覚を奪われていく。3歳児の頃からこんな試練に見舞われるとは、まさか誰が予想しただろう。あのとき「もっと高くして」なんて言わなければよかったのか、それともいずれ同じ運命が待っていたのか。いずれにせよ、幼い身体が昏倒するなか、私の意識は深淵へ落ち込んでいき、今はただ、周囲の悲鳴と涙だけが遠く耳に残っていた——。
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