小さな背伸び、大きな陰謀──幼児の視線に映る赤い矢①
私が“3歳”の誕生日を迎えた日、屋敷の廊下は少しだけ賑やかだった。といっても盛大なパーティが開かれるわけではない。両親を失った私にとって、大げさなお祝いはまだ重荷が大きい。それでもエミーやローザ――私を日々お世話してくれる若い侍女たち——が、小さなケーキらしきもの(この世界ならではの材料で作ったらしい。)を用意してくれ、「3歳おめでとう!」と満面の笑みで差し出してくれた。その優しい光景を見ただけで、私は胸がいっぱいになってしまう。
「おめでと~!」「今日から3歳だね!」
ふたりの声は、まるで大冒険に出発するときの出陣祝いみたいに明るい。私としては“やっと3歳か”という思いと、“もう3歳なんだな”という戸惑いが入り混じった、不思議な気分だった。前世の意識では「子どもの成長なんてあっという間」くらいに考えていたはずが、実際に“赤ちゃん”から“幼児”へと日々を積み重ねてみると、この3年間(実際には2年ちょっと)に、ものすごい濃さと変化を感じる。まさに命がけで毎日を生き延びてきた、そんな達成感すらあるのだ。
この世界に生まれ落ちたときは何もできず、ただ眠り、泣き、ミルクを飲むだけだった。でもいまは——
「エミー、……これ、開ける?」
「うん、いいよ。リアが自分でやってみる?」
「うん、わかった…」
こんなふうに、簡単なやり取りくらいなら、もうほとんど“苦労なし”でできるようになった。言葉の理解力もだいぶ上がり、大人たちの会話を断片的に捉えるだけではなく、全体の文脈をなんとなく感じ取れることが増えている。自分で考え、判断し、受け答えできるのは、想像以上に自由度が大きい。もちろんまだ3歳なので、長い言葉や複雑な話は苦手だが、あの2歳のころに比べれば天と地ほどの成長ぶりだ。
歩く方もかなり上達した。伝い歩きやよちよち歩きを卒業し、ふらつきは多少あれど、部屋の中をスタスタ移動できる。廊下の端から端までなら、少し重心を保ちながら、なんとか転ばずに到達できるようになった。まだ疲れやすいし、走るとすぐ息が上がってしまうけれど、それでも昔(たった半年前だけど……)は考えられなかったほど行動範囲が広がっている。加えて、トイレトレーニングもほぼ完了したので、エミーやローザの手を煩わす回数が減った。失敗が皆無とは言えないが、一人で部屋の簡易トイレに行って戻ってくるのは当たり前。夜中に「おしっこ…」とつぶやいても、一人で行けないわけではない。でも、まだちょっと暗いのが怖くて、侍女を呼んでしまうのが常だ。
この“怖がり”が何とも微妙で、頭の中では「別に暗闇に怯える必要ないだろう?」と大人の理性が囁くのに、身体が勝手にビクビクしてしまう。やっぱり3歳の子どもらしい怖がりは消えないようだ。エミーやローザに「だいじょうぶ、こっちにいるよ」と抱っこされると、一瞬で安心する自分がいて、恥ずかしいと思いつつ甘えてしまう。寝る前なんかも「もう一緒にいてよ」とわがままを言ってしまう瞬間があり、そのたびに「ああ、私、前世でいい歳した男性だったのに……」と内心赤面する。でも、どうしようもない。体が幼いと精神にもダイレクトに影響が及ぶらしく、少しの不安でぐずりそうになったり、泣き出しそうになったりするのが3歳の現実だ。
エミーはそんな私の様子を見て、にこにこしながら「3歳って、まだまだかわいい盛りだから問題ないよ〜」と言う。ローザも「私も小さい頃よくわがまま言ったし、普通じゃないかな」とか笑っている。頭で「普通」と分かっても、やはり前世の自分を思い出すと引っかかりはある。が、それでも彼女たちに頼るのは心地よく、結果的に甘え倒すスタイルを実践してしまう。たぶんこれも、幼児の体が私に強制している本能なのだろう。姿見に映る小さな女の子が、侍女にべったりしている姿は、客観的に見たらほのぼのだけど、当人としては複雑だ。
また、自分が女の子であるという違和感は相変わらず心の奥底にくすぶっている。ただ、毎日の生活や成長の忙しさにまぎれて、そこまで強く意識しなくなってきているのも事実だ。着る服も基本的に男女区別が少ないデザインだし、髪も少し伸びているが厳密にはショート寄りだ。前世と違う身体——特に違和感を覚える瞬間は、たとえば侍女が体を洗ってくれるお風呂のときなどくらいだろう。3歳になると、さすがに少し抵抗が減ったが、見た目にも完全に“幼児の女の子”だからこそ、「本当にこれが自分?」と変な感慨にふけることもある。だが、もう慣れというものは恐ろしい。日常的にそういう扱いを受け続けると、だんだん「ま、そういうもんか」と受け流す心が生まれてきている。これが自然な“幼児らしさ”に溶け込むってことなのだろうか。
さて、3歳になった私の毎日は、朝起きてトイレに行き、簡単な手洗いと着替えを済ませ、エミーやローザと共に食事をとり、少し遊んだり廊下を散歩したり、昼寝をしてまた遊んで……というルーティンが基本。前世みたいに“仕事”に追われるわけじゃないし、時間感覚はかなりのんびりしている。けれど、体力がないぶん何をするにも疲れやすく、一日が終わるころにはクタクタ。頭の中はまだ幼児の混乱と、大人の理性がぶつかり合い、時々妙にわがままが出たり、後から「しまった……」と自己嫌悪に陥ったりする。侍女たちが「気にしないでいいよ」と笑ってくれるから大丈夫だけど、やはり申し訳なさが拭えない。一人で部屋の隅に隠れて、「いい歳した男だったのにな……」と心の中でつぶやくこともある。
そんな私にとって、一番の息抜きは“バルコニー”に出ること。2歳半を過ぎてから習慣になったが、あれから数か月経っても、あの景色に飽きることはない。外壁の拡張工事がほぼ終わり、敷地が広がりつつある様子や、遠くの森や奇妙な建物、カラフルな鳥が舞う光景は、毎日見ても新鮮だ。特に朝と夕方は空の色が美しく、微妙な色合いの雲が広がるのを抱っこされながら眺めていると、“私って本当に異世界にいるんだな……”という実感が湧いてくる。前世じゃできなかった経験ばかりで、ちょっと心が踊る部分もある。
ただ、屋敷の内部には何やら不穏な空気が漂い始めているのも確か。文官や兵士が慌ただしく行き来するのはいつものことだが、最近は「どうも、ほかの領地との関係が……」とか、「周辺農村で怪しい動きがある」とか、隠そうとしても私の耳に届いてしまうほどの騒ぎが起こることが増えているらしい。エミーやローザに聞いても「子どもには関係ないよ〜」と笑われるだけだけど、私には前世で培った妙な勘があり、“あ、これ、なんかマズい流れでは?”と胸がざわめく。3歳児の口ではうまく言えないが、言葉がかなりわかってきたぶん、どうにも落ち着かない感じが心を支配することがあるのだ。
ベアトリーチェは相変わらず穏やかな笑みを絶やさず、「リアンナが元気なら何も問題ないわ」と言ってくれる。私が「え、けど……さいきん、みんな……」と切り出しかけても、「心配しないでいいのよ。あなたはあなたができることをすればいいから」と優しく諭すだけ。そんな“子ども扱い”に対する苛立ちも、幼児の体が「それ以上はしんどい」と訴えてくるため、最終的には「むー……」と唸って諦めてしまう。夜になると遊び疲れた身体が寝落ちするので、ますます考えを深める余裕がない。まあ、体が健全に育つのはいいことなんだけど、本当にこれで大丈夫なのかなあと漠然とした不安が残る。
とはいえ、3歳児の生活には小さな楽しみも多い。昼食後には侍女たちとおしゃべりしながら簡単なレクリエーションをすることが習慣になりつつある。積み木や絵本(この世界の独自文字や絵が描かれたもの)で遊んだり、短い童謡(魔法や伝説が絡む不思議な歌)を歌ったり。言葉を大体わかるようになった私には、それらが好奇心を満たす格好の機会だ。実際、侍女長ベアトリーチェが「そろそろ文字を教えようか」と動きだすのもそう遠くなさそうで、私としてはワクワク半分、ドキドキ半分。文字を読めるようになったら、マギアの基礎を学ぶ入り口になるかもしれないし、領地に関する書類にも目が通せるようになるかもしれない。そう思うと一刻も早く学びたい気持ちが湧くが、同時に前世の経験から「焦ると失敗する」とも知っている。やはり体が幼児である以上、適度なペースが大事だろう。焦燥と理性と、幼児らしい気まぐれが頭の中で争う日々である。
その中でも確実に言えるのは、歩行能力が上がるにつれ、屋敷内を自由に動き回る楽しさが倍増していること。ときどきローザが「リア、ちょっとだけ外に行きたいんだよね?」と聞いてくれるが、あいにくまだ敷地外への外出は許されない。それでも、バルコニーから外を眺める時間を長く取ってくれるようになったのは嬉しい。私が「もうちょっと見たい…」と言うたびに抱っこで連れていってくれるのだ。2歳のときより背が伸びたから、柵越しでも前より視界が開けているように感じるけど、まだ抱き上げてもらったほうが遠くが見やすい。これが中世っぽい街並みかと思いきや、ところどころに不思議な建築が点在し、魔術の痕跡がありそうな気配があり――私が前世で知っていた世界とは段違いの異文化を感じる。やはり、ここは完全に別の世界なのだ。
そんな風に、バルコニーから世界を眺めるのが毎日の習慣になったある日のこと。私は夕暮れ前のオレンジ色の空を見に行こうとエミーにせがむ。「バルコニー、いきたい…」と。彼女は「はいはい、じゃあ夕飯の前にちょっと行こうね」と快く応じてくれた。ローザは別の用事で離れていたので、エミーが私を抱き上げ、廊下を歩いてバルコニーへの扉を開ける。すると、まだ工事の名残か、やや騒がしい音が微かに聞こえてきていた。でも私は気にせず、「早く、外、見たい!」とわくわくしながらせかす。
バルコニーに出ると、さすがに夕日は少し傾きかけており、見慣れた風景が淡い金色に染まっていた。柵に近寄って立つと、やっぱり少し足元が不安定だから、エミーが後ろから支えてくれる。「だいじょぶ?」と声をかけられ、「うん、だいじょぶ」と答えるけど、もっと高いところから遠くを見てみたい。私は思わず口を開く——
「ねえ、……もうちょっと…高くして?」
ほんのわずかな言葉だけれど、自分でも驚くくらいはっきりとした声音だった。エミーは「あら?」という顔をして、「つまり、もっと抱っこの高さを上げてほしい?」と確認してくる。私がコクンと首を縦に振ると、彼女はにこりと笑って「わかったわ」とそっと私の身体を持ち上げ、さらに安定するよう腕を組み直してくれた。視界がふっと広がり、さっきまでは見えなかった屋敷の外側が一望できる。遠くには森の端が見え、屋敷と町を結ぶ道らしきものが伸びている。人影はまばらだが、何人かが荷車らしきものを押しているのが分かる。夕焼け空を背景に、ふいに鳥が一羽飛び立ち、その鮮やかな羽が金色に輝いた。
見とれていると、エミーが「どう? よく見える?」とささやき、私は思わず「うん……きれい……」と息を飲む。そして同時に胸にわき上がるのは、この世界での暮らしへの期待感と、得体の知れない不安感がないまぜになった奇妙な感覚だ。身体は確かに成長しているが、それと同時に、外の広い世界や、この国で起こりうる危険が手に取るように迫っている気がする。何となく、どこかで私を狙う魔の手が動き出しているのではないか……と、前世の勘が警鐘を鳴らしている気がするのだ。でも、それを言葉にできるほどの語彙もなければ、具体的な根拠もない。ただ胸の奥がざわつき、夕焼けに染まる風景がどこか不穏なシルエットに見えてしまう。まだ3歳の私は、その不安を振り払う術を持たない。
「リア、どうしたの? 黙っちゃった」とエミーが気遣う声をかけてくれたが、私は「う、ううん……なんでも…ない…」と首を振るにとどめる。エミーは小さく微笑んで「そっか。きれいだね、夕日……もうちょっと見たい?」と優しく尋ねる。私は再度コクンと頷きながら、「……うん、もうちょっと……」と鼻声になる。こういうとき、3歳の体はすぐ感情が込み上げ、泣きそうになるのが厄介だ。結局、エミーが何も言わずに抱きしめてくれるので、私はその腕のなかで夕焼けの光に染まる景色を眺め続ける。
——私はまだ小さい。3歳の幼児に過ぎない。けれど、この体は確かに育っているし、言葉もかなりわかってきた。いつかは屋敷の外へ自由に行き来できるようになるだろう。そのときに、私が真に“領主”としての責務や、この世界の不穏な影と向き合うのかもしれない。いまはまだ“女の子の身体”に戸惑いながら、侍女に甘えてしまう自分もいるけれど——このバルコニーで感じる風と光を胸に刻んで、“次のステップ”へ進む勇気を蓄えていこう。私は夕日の向こうに、未知の未来を重ね合わせながら、ほんの少し、背伸びをした。
「ありがと……エミー……」と小声でつぶやくと、彼女は「ふふっ……どういたしまして」と笑い返してくれる。そんなやり取りに救われながら、私は幼児としての“いま”を受け入れ、成長する意欲を絶やさない。中には不安もあるし、“男だった自分”とのギャップもあるけれど、ここで止まるわけにはいかないのだ。まだ具体的に“危機”は見えないが、なんとなく感じる不穏な空気はたしかに存在していて、私を急かすかのように覆いかぶさろうとしている。
そんな夕暮れのバルコニーで、私はもう一度、「もっと高く……」と小さくねだる。エミーは困ったような顔をしつつも、片腕でしっかり私を支えながら少し姿勢を変えてくれた。これでさらに視界が開け、遠くの町並みや森が鮮明に目に映る。夕日の黄金が、まるで未知なる冒険の舞台を照らしているようにも見え、幼い胸が高鳴るのを感じる。でも——そこに潜む影を、まだ誰も見つけられない。私は言葉を覚えたばかりの3歳児。甘えとわがままのはざまで揺れながら、遠くを見据えて“いつか自分の足で立つ”日のことを思い描く。次の瞬間、ふいにエミーが「もうそろそろ暗くなるから、中に戻ろうね」と声をかけ、私は名残惜しさに「も……もうちょっと……」と返す——。
こうして、3歳になったばかりの私がバルコニーで見上げる夕空は、鮮烈なオレンジと神秘的な赤紫が溶け合いながら、あらゆる可能性を秘めているように思えた。そして、その輝きの向こうで、蠢く影は確実に私の未来へ手を伸ばそうとしている。いまはまだ、それを具体的に察知することはできないけれど、何かが動き始めている気配だけは感じる——それが幼児の直感か、前世の記憶の警鐘か。それでも私は“もうちょっと高くして”と背伸びするばかり。3歳のこの目に映る世界は、広がりと危うさを同時に孕んでいる——そんな予感を胸に、私はバルコニーから遠くを見つめ続けるのだった。
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