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パン生地が紡ぐ、あたたかい記憶③

 「今、私は14歳の伯爵家の娘として生きているんだよなあ……。同じパン作りでも、こういう環境でやるなんて、昔は想像もしなかったっけ……」

 胸の奥がくすぐったくて、少し笑いが込み上げる。ずいぶん遠くまで来たものだ――でも、こうして趣味の延長のようなことに再び触れられるのは、悪くないな、と思う。窓に映った自分の姿を見ると、腰まわりにエプロンを巻き、髪を後ろにまとめているせいか、いつもより幼く見える。人から見たら「パン作りが上手な少女」と映っているのだろうか。前世じゃ絶対に想像しなかった光景だ。それを楽しんでいる自分が、ちょっとおかしくて、ちょっと誇らしくもある。


 「お嬢様、そろそろパンが焼けそうですから、よかったらこちらへ」

 料理長の声に呼ばれて、私はくるりと振り返る。天板を取り出す作業はやはり使用人の男性がやってくれるようで、すでに石窯からこんがり膨らんだパンの香りがただよい始めている。私は足を速めて調理台へ戻り、わくわくしながら待ち受ける。すると、一枚目の天板が外に出され、熱気とともに漂ってくる芳醇な香ばしさが一気に鼻を刺激してきた。


 「あ……!」

 思わず声を漏らしてしまった。そこには、小さく丸められたパンがすべてぷっくりと膨れ上がり、表面にうっすら金色の焼き色がついている。ところどころに混ざったハーブの緑がアクセントになって、見た目にもかわいらしい。そっと指先で触れてみると、表面はパリッとしているのに内側はふんわりしていそうだ。これは成功の予感しかしない。私は「やった……!」と心の中で小さくガッツポーズを作り、一番手前のパンをそっとつかんだ。


 「あ、危ないですよ、お嬢様。熱いですから、気をつけてくださいね」と料理長が注意してくれるが、私は「あ、はい……」と生返事をしながらそっと箸でつまんで持ち上げる。近づけるとハーブのほろ苦い香りが混ざった湯気が顔を包んで、もう幸せな気持ちでいっぱいになる。できればそのままパクッといきたいけれど、まだ熱すぎて危険そうだ。仕方なく一度皿に取り分けて、扇ぎながら冷ますことにした。


 周囲でも他の参加者たちが自分の焼き上がったパンを見ては「わあ、成功だ!」とか「ちょっと焦げちゃったけど大丈夫かしら」とか、にぎやかに盛り上がっている。そんな騒ぎの中、エミーとローザが「お嬢様、早く食べてみましょうよ! ね、ね!」と目を輝かせながら近づいてくる。私が「すぐには熱いから気をつけてよ」と言いかけるそばから、ローザが「あっつ! でも食べたい!」とふうふう言いながらかじっている。まったく落ち着きがないけれど、その様子を見ると私も負けじと一口味見したくなって、指先でパンをちぎって口に運ぶ。


 「あ……おいしい……」

 口の中いっぱいに、ふんわりした生地の優しい甘みとハーブのほのかな苦みが絡み合い、噛むほどに香りが口中に広がっていく。思わずうっとりしてしまうような味わいだ。ほんの少し塩気を利かせたのが功を奏したのか、苦みと甘みが程よくブレンドされて、あとを引くおいしさになっている。エミーとローザも「これ……最高ですね! 意外とハーブの癖が気にならないです」「パン自体がやわらかいからかな? 食べやすい~!」などと歓声を上げながら頬張っている。料理長も「いやぁ、これは大成功ですね。正直、このハーブをこんなにうまく使いこなすとは思いませんでしたよ」と苦笑まじりに笑っていた。


 「よかった、失敗じゃなくて……」

 私はほっと胸をなで下ろしつつ、またひとちぎり口に含む。焼き立ての温かさが舌先に広がって、心までほんわか温まる気分だ。外見的には「令嬢としてパンを焼いてみました」程度の出来事かもしれないが、私にとってはこれは“小さな達成感”のかたまりみたいなものだ。久々に、こんなにも自然体で料理を楽しめたという事実が、胸いっぱいの幸福をもたらしてくれる。その一方で、少しだけ切ない思いも残る。前世で得た経験を“今の私”がこうして当たり前のように使っている――それっていったい何なんだろう、と。だけど、もう細かいことは考えたくない。こうして得られた幸せを受け入れておけば、何も悪いことなんてないじゃないか。


 「お嬢様、本当にありがとうございます! 私たちもこんなにおいしいパンを作れるなんて思っていませんでした。全部、お嬢様のおかげです!」

 エミーがきらきらした瞳でそう言ってくれる。ローザも「そうですよ! お嬢様、これなら、いつでもお嫁さんになれますね!毎日でも、こんなパンが食べられる将来の旦那様は幸せ者です!!」などと大声でからかってくるから、私は「か、からかわないでよ……!って、いつも、そういう話に結びつけるんだから……!」と真っ赤になってしまう。ここでもまた“花嫁”だの“お嫁さん”だの、そんな単語を言われるたびに心臓がどきりと跳ねて、頭の中が熱くなる。別にそういう方向で頑張っているわけじゃないのに……と思っても、どう言い返すべきかわからない。身体が小さくなった分、余計に照れが増幅されるような気がするのも不思議だ。


 まわりの参加者たちがパンを頬張りながら楽しそうに会話するのを眺めていると、料理長が「あ、そうそう。お嬢様、このあともしよかったらハーブバターやハーブソルトも作ってみませんか? せっかくなら、パンと合わせて楽しんでいただきたいと思いまして」と提案してくれた。前世の私なら「おお、やりましょう!」と二つ返事で飛びついたところだが、今の私は一応“当主の令嬢”という立場だし、加えてさっきから少しはしゃぎすぎている気もする。でも……やっぱり料理には目がない。私は結局、ためらいながらも「あ……いいんですか? じゃあ……お言葉に甘えて……」と遠慮がちにお願いしてしまった。


 「ではこちらへどうぞ。まずは柔らかくしたバターを混ぜ合わせて……」

 「あれ、結局もう一仕事するんですね、お嬢様~! やる気満々じゃないですか!」

 エミーとローザがからかい気味に微笑みかけるなか、私は胸の奥でくすぶる違和感をどうにか隠しつつ、作業台に向かう。ハーブバターを練ってパンに塗ったら、きっとますますおいしいだろうなあ……。そう考えると、また嬉しさが込み上げると同時に、自分自身のふるまいが“少女らしすぎる”のでは? と、ほんの少しだけ悶々とした気持ちも湧いてしまう。でも、こうした楽しみを捨てる理由なんてない。今はただ、胸を張ってパン作りに勤しむのだ。これが私の生き方なのだから。


 朝の冷え込みが消え去った厨房は、どこか祭りの会場のような熱気と笑い声で満たされていた。私もその輪の中で、パンとハーブの豊かな香りに包まれながら、小さく幸せを噛みしめる。前世から引き継いだ記憶と、今この体で築き上げていく日常が、不思議な形で結びついていく感覚――それはほんの少しむずがゆくて、だけどとても心地よいものだった。ひょっとしたら、これが私にとっての“新しい一歩”なのかもしれない。そう思うと、自然と笑みがこぼれて、あたたかい空気が胸に満ちていく。粉の香りと笑い声が混じり合う朝――きっと、こんな時間が私の心を豊かにしてくれるんだろうな。いつかその先に、どんな未来が待っているのかはわからないけれど、今はとりあえず、この喜びを噛みしめておきたい。


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