パン生地が紡ぐ、あたたかい記憶①
朝の空気がまだ肌を刺すように冷たく感じられるころ、私たちがいる伯爵家の廊下には、うっすらとした白い息が漂っていた。屋敷じゅうの暖炉はもう火がくべられていて、夜の間にそこそこ室温は上がったはずなのに、それでも朝の冷えはしっかりと残っている。きゅっと冷えた床石が靴底から伝わってきて、思わず背筋が伸びてしまった。
今日はいつもとは違う予定が詰まっている。私が朝食を取る時間帯は、普段なら落ち着いたサロンで、エミーやローザと他愛ない会話を交わすのが常だ。けれどきょうは、少し早起きをして厨房へ直行することになっている。どうやら「料理長が主催するパン作り講習」があるそうで、侍女長のベアトリーチェやボリスから「領主としても顔を出されてはいかがでしょう」と勧められたのだ。最近は書面仕事ばかりで息が詰まりそうだったし、たまにはこんな“生活に密着したイベント”に参加してみるのも面白そうだ。それに、こういう勉強も大事だろう。そんな軽い気持ちで承諾したものの、出発間際になって「あ、でも、異世界のパンって、前世と同じなのかな?本当に大丈夫かな」と不安が湧いてきて、やたらそわそわしながらエミーとローザに背中を押されている。
「リアンナ様、ほらほら、もう少しテンション上げていきましょうよ! パン作りですよ、ワクワクしませんか?」
エミーがからっと明るい声をかけてくる。一方、ローザは「ああ、パンの匂いって幸せですよねぇ。ああもう、早く食べたい!」と鼻先をくんくんさせている。エミーとローザは私よりずっと年上のはずなのに、こういうときはまるで子どものようにはしゃぎまわるから面白い。私が「そんなに匂いがする?」と尋ねると、彼女たちは「うんうん、もうバターと小麦粉の匂いが混じって、食欲全開ですよ!」と鼻息荒く答えてきた。
(ふーん、この世界でも、材料は同じなのか)
そう言われて意識を向けると、たしかに廊下の先、厨房のほうからほのかな香ばしさが漂ってきている気がする。バターというよりは、酵母が発酵しているような、少し酸味を帯びた香りかもしれない。私は「そっか、きょうはパン作りの講習だから、もう生地を仕込んでいるのかもしれないな……」と思いながら、上半身を軽く伸ばして深呼吸してみる。微かに粉っぽい空気が鼻孔をくすぐり、なんとなく懐かしい気分が押し寄せてくる。懐かしい――というか、どうしてだろう。私はこの世界でパン生地をこねたり焼いたりする姿を、実はそこまで頻繁に見てきたわけじゃない。なのに、こういう粉と酵母の匂いを嗅ぐと、まるで長い歳月をともに過ごした相棒のように感じてしまう。……まあ、理由は、なんとなく自分でわかっているけれども。
「リアンナ様、いまどんなことを考えてたんです? なんだか表情がほころんでいますよ」
ローザが私をのぞきこんできて、私は思わず「い、いや、別に」と言いかけて言葉を濁す。変に突っ込まれてはいけない。背中を軽く叩かれながら、厨房の扉へと近づいていくと、ますます香りが強くなる。ドアの向こうでは、すでに数名の使用人や見習いの若者が慌ただしく動いているようだ。バタバタと足音が聞こえ、木べらやボウルが立てる金属音がリズミカルに響いている。
「では、お嬢様、お先に失礼しますね!」
勢いよくローザがドアを押し開けると、中からぷわっと濃厚な小麦粉の香りがあふれ出してきた。わずかな蒸気が鼻先を温かく撫で、私は「うわぁ……」と感嘆の声を漏らす。部屋の中は思った以上に広く、壁際には大きな石窯がどんと構えている。その周囲には何台もの調理台が並び、すでにいくつかの生地が寝かせられているらしく、薄布がかぶせられた丸い形の塊がところどころに見える。
「やあ、お嬢様、ようこそ。朝早くからありがとうございますね」
エプロン姿の料理長がこちらに気づいて声をかけてきた。彼は白髪交じりだが背筋が伸び、笑顔には貫禄と優しさが滲んでいる。私は「おはようございます。きょうはよろしくお願いします」と笑顔で挨拶を返し、エミーとローザも隣で深々と頭を下げる。すると料理長は「はいはい、こちらへどうぞ」と、私たちを奥の調理台へと案内してくれた。
テーブルの上には粉と酵母、水、塩など、パンを作るための基本的な材料がずらりと並んでいる。その中でも目を引くのは束ねられた森のハーブだ。セレイナの領地から取り寄せられたと言われるその葉は、少し霜の色をまとったような淡い緑色で、触れるとしっとりとした冷たさを感じる。ぱっと見たときはまるで固そうにも見えるが、指先でつまんでみるととても繊細で、ちょっと強い力を加えたらすぐに破れてしまいそうだ。私はそっと香りを確かめるように鼻を近づけて息を吸う。すると、予想した以上に上品な青い匂いが胸いっぱいに広がった。
「これがセレイナさんのところのハーブか……」
一瞬、あの森と湖の映像が頭に浮かんで、私は懐かしい気分に浸る。セレイナが大切に管理している森林からやってきたかと思うと、ちょっとだけ特別感を覚えてしまう。私がぼんやり感傷に浸っていると、料理長が「このハーブは香りが弱い代わりに、ほんのり苦味があって面白い味になるんですよ」と説明をつけ加える。私は「そうなんですね。じゃあバランスを見ながら入れないと、せっかくの味が台無しになるかも……」と軽く口走ってしまう。
その言葉に料理長は目を丸くして「お嬢様、パン作りに詳しいんですか?」と不思議そうに尋ねてくる。私は一瞬「やばい、知りすぎているところを見られたかな」と焦りつつ、「あ、いえ、そんなことないんですけど……理屈くらいはちょっと聞きかじっただけで」と濁す。料理長は「なるほど、興味を持ってくださっているだけで嬉しいですよ」と頷き、特に深くは詮索しなかった。ほっ、と胸をなで下ろしながら、私はまじまじと粉やハーブを見つめる。前世で身につけたパン作りの知識が指先からむずむずとこみ上げてきて、今すぐにでも生地に触れたい衝動にかられる。
エミーとローザが横で「わぁ、見てください、こんなにたくさんの粉が!」とか「うちでいつも見る小麦粉より白くてきめ細かいですね!」と興奮ぎみに話しているのを横目に、私はスカートの裾が粉まみれにならないように気をつけながら調理台へ近づく。料理長が用意してくれた大きなボウルに粉をはかり、水を加え、酵母を馴染ませるところから始めるのだが、やはりここでも体が勝手に動いてしまう。粉の量を量る際、指先でさっとすくったり、余分を払い落としたりするその動作が、妙に板についているようで、私は周囲の視線を密かに感じて恥ずかしくなる。
「お嬢様、お手元が慣れていらっしゃるんですね。生地づくりはお好きなんですか?」
ふと、若い使用人の男性が話しかけてきて、私は軽く目を伏せながら「そ、そう……ですね。昔からちょっとだけ興味があった、というか……」と口ごもる。正直、昔からという表現が合っているかどうかは微妙なんだけど、まあ大枠で嘘はついてない(まあ、前世からだし!)。周囲の人が納得してくれるならそれでいい……はずだ。
さあ、いよいよ粉と水、酵母をボウルに入れて混ぜ合わせる工程が始まる。講習会のほかの参加者が「まずは粉をさらっと混ぜて、少しずつ水を足しながら……」と料理長の指導を受けている中、私も同じ工程を辿りながら手を動かしていく。ボウルの中で粉がしっとりと水分を含み、最初はパラパラの状態だったものが、しだいに粘り気のある塊へと変化していく。この過程を目にすると、前世で培った感覚が一気に甦る。ああ、そうだ、こんなふうにして生地はできていくんだ。……それこそ、月に何度もパンを焼いていた時期がある。いろいろ配合を変えたり、発酵時間を研究したりして、あのころはやりすぎだろうってくらい熱中していた。だって、焼きたては美味しいんだもん。……って、今はそんな昔話に浸っている場合じゃないか。
そろそろ生地がこねやすい段階までまとまってきたので、ボウルから調理台へ移す。ぽってり重い塊を手のひらで受け止めると、指先がむずむずうずく感じになって、私は思わず鼻歌が出そうになる。思わずエミーが「あれ、リアンナ様、楽しくなってきました?」とニコニコしながら声をかけるので、私は「え、ええまあ……ちょっとだけ、ね」と顔をそむける。こんなことで浮かれている自分がなんだか恥ずかしいけれど、本当にワクワクしているんだから仕方ない。
調理台に生地を置き、両手でぐっと押し伸ばすようにしてこねていく。生地が柔らかく抵抗してくる感触は、とても心地よい。まるで自分と会話しているみたいな感覚があって、「ああ、少し水分が多いかもしれない」「もうちょっと粉を足してあげたらいいな」と脳内で次々と結論が出てくる。私はそういう微妙な調整が好きなのだ。すると料理長が後ろから「お嬢様、こね方がかなり上手ですね。焦らなくて大丈夫ですよ。もうちょっとゆったりで……」と声をかけてきた。ところが、私の手元は勝手にリズムを刻んでしまい、一瞬で生地の表面がすべすべになるまでこねあげてしまう。自分でも「あれ、早すぎたかな」と思うほどだ。
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