花火の余韻から新たな一歩へ――当主見習いの奮闘録
朝の光が窓辺から差し込み、ふと目を開けると、見慣れた天井がまぶしく映り込んだ。ローヴァニアから戻った翌日の朝だというのに、まだあの湖畔で見た色とりどりの花火がまぶたの裏にちらついている気がする。今は自分の領地へ帰ってきているというのに、心のどこかはまだ旅先に置き去りにしてしまったような、不思議な感覚。それでも、楽しかった思い出と同じくらい「さあ仕事を頑張ろう」という前向きな気持ちが胸に湧いている。
ごそごそと身を起こすと、エミーとローザも目を覚ましたようで、二人とも「おはようございます、リアンナ様」と声をかけてくれる。その瞬間、「あ、もう日常が始まるんだ」という意識が芽生えて、私の中に少しばかり背筋が伸びるような感覚が走った。ローヴァニアでの花火大会は素敵な非日常で、あれだけはしゃいだんだから、これからは当主見習いとして領地の業務に集中しなければ。
エミーがいつもの手際で寝間着を脱がせ、着替えを手伝ってくれるあいだ、ローザが「そういえば、ローヴァニアは満喫できました? 帰ってくるまで顔がニコニコしてましたよね」と少しおどけた口調で絡んでくる。私は苦笑いしながら「そ、そんなに顔に出てた? 確かに花火は綺麗だったし、セレイナもリチェルドも一生懸命もてなしてくれたし……」と素直に語ると、ローザは「やっぱり~。リアンナ様があんなに楽しそうなの久しぶりに見ました」と頷き、エミーも「いい刺激になったみたいで何よりです」と優しい笑みを向けてくれる。なんだか少し照れくさい。
そうこうしているうちに衣服の準備が整い、私は深呼吸をして「じゃあ今日も仕事頑張ろう」と自分に言い聞かせる。やはり私は領地を背負う当主見習いの身。最近は領地内のいろいろな制度を整えていて、王都や隣領からの来客に応対することもあるし、以前からボリスさんと相談を重ねていた登記制度の件もある。この世界では魔法の力が普及しているが、私の最大の強みは“前世で培った法律や契約の知識”しかない、と常々感じているのだ。
エミーとローザが揃って私を館の執務室へ送り出すころには、私の心はすっかり切り替わっていた。食事のあと、執務室に足を踏み入れると、予想通りボリスさんがいくつかの書類を机に広げて待っていた。彼は落ち着いた雰囲気のまま私に一礼し、「おはようございます、リアンナ様。お戻りになってから、早速お仕事に復帰されるとのことで助かります」と、どこか安心したように微笑む。
「ただいま戻りました。ローヴァニアはすごく楽しめましたよ。けど、仕事も溜まってそうでちょっと怖いですね」
私が冗談めかして言うと、ボリスさんは「多少はありますが、意外と落ち着いていますよ」と言いながら、書類のひとつを持ち上げる。どうやら、この数日間に発生した領内の報告をまとめたものらしい。私が一応読み通すと、問題やトラブルが激減している印象を受けた。
「これを見る限り、土地をめぐる大きなトラブルはほぼ起きていないんですね。登記制度のおかげでしょうか?」
そう言うと、ボリスさんは大きく頷く。「はい、そうだと思います。以前、二重売買などの問題が多く発生していましたが、今は皆が『ちゃんと登記をしておいたほうが安全』という意識を持ち始めているようで、売買や相続の際に正しく書類を作る人が増えました。そのおかげで土地を巡る紛争はぐっと減りましたよ」
私は内心ほっと息をつきながら、「それは嬉しいですね。今まで領地のどこかで揉め事があるたびにドキドキしてましたから」と感想を述べる。私とボリスさんが過去に取り組んだ登記制度――特に、二重売買への対処や嘘の登記の取り締まりなどを丁寧に整備した結果、こうやって目に見える形で成果が出るのは単純に嬉しい。前世の経験が活かせたことにも、少しだけ誇らしさが込み上げる。
しかし、ボリスさんは「とはいえ、未登記の土地がまだ大多数ですから、完全に普及させるには時間がかかります。今後も、この制度があることを丁寧に周知して、住民が無理なく登録できるよう働きかける必要がありますね」と続ける。確かに、私たちが想定する“理想のかたち”には程遠いのだろう。住民は書類手続きになじんでいない人も多いし、魔法の力が当たり前のこの世界では、わざわざ書類管理をする発想が新しいのかもしれない。
「ええ、登記制度は維持・運用こそが肝心ですもんね。なるほど、じゃあ、次の段階としては、もっと周りに協力を……」
そうやって計画を練ろうとする私に、ボリスさんは「それと、もう一つちょっとした課題が出てきています」と別の書類を取り出して見せる。そちらには「商品の売買トラブル」といった内容が書かれているようだった。私が読み進めると、どうやら土地ではなく、モノを売り買いするときの契約が問題になっているらしい。
「ここ数ヶ月、物資の行き来が増えてきた影響で、取引トラブルが増えているようですね。代金の支払い時期や送料の負担、あと引き渡しの細かな時期など……習慣で乗り切れていない事案が目立っています。お互い、『当然こうするはず』と思っていたのに、実は相手は別の慣習で考えている、など」
ボリスさんはさらりと概要を説明する。その話を聞くと、前世での契約知識がふっと脳裏をよぎる。確かに売買には「お金と品物は同時に交換しましょう」とか「送料は買主が負担」などの常識的ルールがある。しかし、この世界では、地方や業界によっては独自の慣習もあるはずだし、なにより、この世界は地域差が大きい。しかも魔法道具などの特別な品物が絡むと、尚更揉めやすいだろう。
「なるほど。未発達の契約ルールだと、いちいち習慣の食い違いでトラブルになる……」
私は首をひねりながら呟く。するとボリスさんが「あくまで慣習で済ませてきたので、体系的な法規が存在しないんですよね。いちいち裁配人や領主の元へ持ち込まれても困りますし」とため息をつく。土地の件と同じように、ここでも前世の法律知識が役に立つ予感に、私の胸は軽く高鳴り出す。
「私、これにも何か対策が提案できるかもしれません。具体的なルール化っていうのを進めたり、売買契約を明文化する仕組みを考えたり……少し時間が欲しいですけど」
そう言うと、ボリスさんは目を丸くしてから頬を綻ばせ、「やはりお嬢様には頼りになりますね。ではまた、まとめていただいたらよろしくお願いします」と笑顔で了承してくれた。私は「了解しました」と小さく頷き、頭の中で構想を練り始める。契約の基本原則、配送費用の負担、リスク分担、どこか前世の条文と似たような仕組みを取り入れられそうだ……。帰ってきて早々だけど、仕事意欲が湧いてくる。花火大会で充電できたおかげかも、と内心苦笑する。
そうして一日の執務はあっという間に終わりを迎えた。契約問題を解決する草案のアイデアを思いついたり、登記制度の追加施策を再検討したりしていると、時はすぐに過ぎてしまう。ボリスさんも「きょうはこれくらいにしましょう。お嬢様も長旅明けですし、無理は禁物ですよ」と声をかけてくれた。私としてはもう少し突き詰めたい気分だったけれど、頑張りすぎて体調を崩しては本末転倒だ。心地よい疲労感を感じながら、私は執務室を出る。
廊下を歩いて部屋へ戻る途中、エミーとローザが「お疲れさまでした!」と声をかけてくる。二人とも笑顔で、「今日は一日中やる気満々でしたね。やっぱり花火大会でリフレッシュしたから?」とからかってくるのが可笑しい。私は照れ隠しに「べ、別にそんなことないけど、まあ楽しかったのは確かだよ」と笑い返す。
部屋に入り、夜の寝支度をする頃には、やはり体が重たくなっているのを感じるが、嫌な疲れ方ではない。むしろ、生き生きと働けた充実感があるのが不思議だ。エミーとローザも私のそばに来て、しれっと枕をポンと叩きながら「リアンナ様、すっかり元気取り戻したじゃないですか」と嬉しそうに話す。
ローザが「花火大会に行く前は、ここ最近お仕事が山積みで少しピリピリしてたでしょう? でも今は随分やる気に満ちあふれてるように見えるよ」と言い、エミーも「やっぱり時には遊ぶのも大事ですよね。お嬢様って、昔から仕事も真面目すぎて、なかなか自分をリフレッシュさせないところがありましたし」と補足する。私は「そ、そうかなあ」と苦笑いするが、実際言われてみれば、長いこと仕事のことで頭がいっぱいになっていた気がする。
「そういえば、リチェルド様は楽しそうでした?」とエミーがいきなり質問してくる。「え、あ、まあ……すごく目を輝かせてたよ。温泉街の少年が森と湖に興味津々って感じ」と答えると、ローザはニヤリと「ふーん、じゃあ二人でしっかり満喫したのね?」と冷やかし全開。私は「ちょ、そういうのじゃないから!」と慌てて否定する。確かにリチェルドは花火の最中、私のほうをよく見ていたような気がしたし、少年らしく素直に驚いていた姿が微笑ましかった。けれど別に彼に恋愛感情を抱くわけじゃない。私はあくまで、彼の純粋さにちょっと羨ましさを感じる程度だ。
そんな雑談を交わしているうちに、ローザが「ああ、そうだ。夜はまだ涼しいですし、風邪を引かないようにしないとですね。最近天気の変化激しいし……」と私を気遣い、エミーが「きょうはもうお休みになられては? 仕事も一段落しましたし、明日はまた頑張りましょう」と勧める。私は「確かに、夕方まではバタバタしてたから疲れてるし……」と頷き、ベッドの上に腰を下ろす。シーツの感触が心地よく肌に当たって、思わず背筋から力が抜けそうだ。
少し沈黙が流れ、三人でその日の話を振り返る。登記制度の進捗や、物品売買トラブルの増加、それらをどうやって解決するか……真面目な議論をするかと思いきや、エミーとローザは柔らかな口調で「主人公様なら大丈夫ですよ。なんてったってアウレリア帝国の名宰相みたいだって!」と励ます。私は一瞬どきりとするが、彼女たちは前世のことは知らない。ただ、この世界に無い法的な発想をする私を面白がっている程度だろう。
「ま、まあ、なんとかするよ。ありがとね。こういう地味な制度を整えるのは、私、得意分野かもしれないし……」と返しながら、ふと「また世界がちょっとだけでも住みやすくなるなら嬉しいな」と思えてくる。暗殺や戦乱に怯えず過ごせる未来を作るためには、地道な制度づくりが必要だと考えてきたが、最近はほんの少しずつ成果が出ている気がする。そう考えると悪い気はしない。
「よーし、明日も頑張ろうっと。エミー、ローザ、ごめんね、私と一緒で、仕事も忙しくて」と伝えると、二人は「いいえ、大丈夫ですよ~。お嬢様が頑張れるようにサポートするのが私たちの役目ですから」と笑う。それでも疲れているのは事実だから、今夜はさっさと休んで明日に備えたい。私はそっとベッドの中に潜り込み、二人もおやすみなさい、と言って灯りを落とす。
暗くなった部屋の中で、私は目を閉じながら静かに息を吐く。闇に包まれた空間で浮かぶのは、ローヴァニアの夜空に咲いた大輪の花火、そして土地制度や契約制度を整える地味な作業の日々……まるで正反対の二つの風景だが、どちらも私にとっては欠かせない大切な出来事だと改めて感じる。楽しい時間があるからこそ、仕事を頑張ろうと思えるし、仕事にやりがいを感じられるからこそ安心して遊べる。そんな相乗効果を、ようやく自分が掴みかけているのかもしれない。
ふと、リチェルドやセレイナの顔が脳裏をかすめる。彼らが私に抱いている好意や期待、あるいは仲間としての気楽さも含めて、今の私にとってはとても大きな支えになっていると気づく。と同時に、前世の男としての自分が感じる「どうしてこんな状況で少女の体をしてるんだろう?」という違和感も、すでに日常の一部になっている。意識しすぎないようにしていても、ふとした拍子に胸を刺すような感覚は消えない。それでも、いまこうして仕事にも遊びにも前向きに取り組めているのは、大きな成長かもしれない。
私は内心で「一歩ずつでいい、焦らなくていい」と自分に言い聞かせる。いつかもっと複雑な問題が押し寄せるかもしれない。けれど少なくとも、いまは私ができることを、私なりのやり方でちゃんとこなしていきたい。そして、ローヴァニアの花火みたいに、私も皆を明るく照らせるような当主になれたら……なんて、ほんの少しだけ夢見る。
「……おやすみ」
エミーとローザがそれぞれ寝台を整えたまま、一言二言交わし、周囲がしんと静まる。私はまぶたをゆっくり閉じると、すうっと体が沈んでいくのを感じた。透き通る夜の空気に包まれながら、心の中では「登記制度も契約制度も、もっとちゃんと整えよう」「暗殺の危険からも自由に暮らせる未来を作りたい」と多彩な思いが繰り返しわきあがる。だけど、それは明日からの課題。今はただ、この落ち着いた夜を受け入れて眠りに落ちるのみ。
そうして小さく胸を弾ませながら、私は夢の端へと沈んでいく。花火の残像がまだほのかに温かく胸を灯す。明日がどんな一日になるのかはわからないが、少なくとも私は私のペースで、前世の知識とこの世界の人々との繋がりを活かして、微力でも領地をより良くしていけたらいいと思う。まだ13歳の少女としての視点と、かつて大人だった自分の視点、その両方を使いこなすのは容易ではない。けれど、この体とこの世界で生きる以上、それが私の歩む道なのだ。
そんな想いを胸に抱きつつ、私はいつしか深い眠りへと落ちていった。今日は特別な行事もなく、ただの日常だったとしても、こうして満足感とやる気を同時に感じていられるのは幸せかもしれない、と微笑んで眠りの中へと沈む。朝になればまた、新しい課題と楽しい雑談が待っているだろう。私はその一つ一つを大切にしながら、自分のペースで進んでいこう。そう心に決め、意識を闇に溶かしていくのだった。
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