『ありがとう』が言えたよ。2歳の病で深まる絆②
夜の闇が深まり、廊下の足音もだいぶ落ち着いたころ。私——リアンナは、まだ微熱と喉の痛みを抱えたまま、ベッドの上で浅い眠りを繰り返していた。
いま私は2歳の幼児だが、“ほんの少し前”までは「リア」とだけ呼ばれていた。侍女長であるというベアトリーチェは、私のことを「リアンナ」といっているので、これが正式名前なのだろう。ただ、その名前を、自分のものとして少しずつ理解し始めたばかりだというのに、今回の風邪でそれどころではなくなっているのが現状だった。
それでも、エミーとローザの献身的な看病のおかげで、私は何とか長い夜を乗り越えようとしている。
彼女たちに温められたタオル、少し苦い薬草の煎じ薬、そして優しい言葉の数々——熱でぼんやりした頭に染み込むそれらが、私の幼い体と心を支えてくれるのを感じていた。
「リア……リアンナ……?」
隣から、ローザの囁くような声が聞こえる。私は返事する気力があまりなく、「……うん……」と唸るような声を出すだけ。それでも伝わったのか、ローザはホッと息をついて、「そっか……よかった」と微笑んだ。
まだ夜中らしく、部屋の照明は落とされ、廊下から漏れる明かりだけが頼りだ。ベッドの横では、エミーが薄いブランケットをかけて椅子に座っているのが見える。彼女も疲れているはずなのに、交代で世話をするために横にならず踏ん張っているのだろう。
私の額や首筋を何度も確かめては、濡れタオルを取り替えたり、汗を拭いたり……。数時間前までの大騒ぎは落ち着いたが、油断せず看病を続けてくれている。
(本当に……助かる。ごめんね……)
心の中で何度も謝り、何度も感謝しているけれど、言葉にできない。幼児の身体で熱があると、意識はどうしても朦朧としてしまい、行動もままならない。私は再び夢とうつつのあわいに落ち込み、遠のく意識の中でエミーとローザの姿をぼんやりと見つめるのだった。
どれほど眠ったかわからないまま、私は突然の喉の痛みに襲われて浅い夢から目覚めた。口の奥が焼けるようにヒリヒリして、息苦しさが増している。もしかして体温がまた上昇したのかと不安がよぎる。
「はあ……はあ……」
思わず熱い吐息を漏らす私を見て、椅子でうとうとしていたエミーがはっと目を覚まし、「ローザ……ローザ!」と小さく声をかける。ベッド脇の床に座り込んでいたローザが跳ね起きて、私の額に手を当てる。そうすると、ローザは慌てて水桶のほうへ走っていき、エミーが私の肩をそっと支える。
大人の頭なら冷静に「これが発熱のピークかな」など考えられそうだが、身体が痛くて声も出せず、それどころではない。まぶたが重く、汗と寒気が同時に襲ってくる不快感で体が震える。
「エミー……」と呼びたいが、声がつっかえて「あ……え……」としか出せない。そんな私を見て、エミーの瞳が濡れたように潤み、おそらく、「もう少しだからね」という意味だろうか、何か声を絞り出す。彼女もほとんど寝ていないようだが、それでも私を優先してくれる。
ローザが戻ってきて、タオルを優しく首筋に当ててくれる。強い冷たさではなく、ほんのり冷たいぬるま湯で絞った感じのタオルが、一瞬だけ心地よい。私はそのわずかな安らぎにしがみつこうとするけれど、すぐに頭の中がぐらりと傾くような感覚を覚える。
(意識が飛んでしまいそう……いや、眠らなきゃ回復しないし……どうすれば……)
熱と痛みの狭間で思考が堂々巡りする。幼児の体は、これほどまでに脆くて弱いものなのか。深い戸惑いと恐怖が胸をつかんで離さない。前世の大人として経験した風邪なんて、ちょっと苦しくても一人で対処できたはず。けれど、今は違う。何もできない。この痛みを訴える術すら限られている。
ローザが私の手をぎゅっと握り、目を合わせてくれる。私が震える指先で応えようとすると、エミーが何かと励ます声をくれる。
それを聞いて、私が小さく頷こうとした瞬間、ふとドアが開いた。覗き込んだのはベアトリーチェだ。薄暗い中でも変わらず落ち着いた雰囲気を纏い、静かに部屋に入り込んできた。
ベアトリーチェは何か小声で言いながら、私の額にそっと触れる。エミーが何か報告すると、彼女は「あら……」(?)と微かに息をつく。その表情はやはり少し心配そうだ。
ベアトリーチェが私の喉のあたりに手を当て、軽く摩ってくれる。どこか祈りのような仕草にも見えるが、魔法を使っているわけではなさそう。ただ、侍女長としての豊富な経験から、最適な看病法を判断しているのかもしれない。
私はその手の温もりを感じて、ほんの少し心が和らぐ。いつも「リアンナ」と呼んでくれる彼女は、私が認識した「自分の正式な名前」に寄り添うように、静かに息を合わせてくれている気がする。
ベアトリーチェの穏やかな声が、暗闇にやさしく響き渡る。ローザとエミーも、それに続いて、まるで「もうちょっと頑張ろう」というように私の手を握ってくれる。
私はまた一度、瞼を閉じる。もう眠れるのか、眠れないのか、自分でもわからないまま、深い呼吸をすることに専念する。ベアトリーチェが軽く背中をさすってくれているのが心地よく、そのまま意識が再び薄れていった……。
いつしか部屋が薄明るくなり、私はゆっくりと目を開けた。
「ん……」
咳き込みそうになりながらも、昨夜ほどの息苦しさは感じない。頭痛も軽減されているようだ。まだだるさは残るが、「眠れたことで体力が少し戻ったのかも?」と、前世の大人意識が微かに分析をする。
部屋の中には淡い朝日が差し込んでいて、エミーとローザが私のそばで寄り添うようにうつらうつらしている。二人とも簡易なブランケットを掛け、私の様子を見守りながら寝落ちしたようだ。
「あ……もう朝か……」と心の中で呟く。幼児の体はまだ痛むが、夜中ほどの高熱感はなくなった。首や背中にかいた汗が嫌な感じでべたつくものの、意識がだいぶクリアになった実感がある。
私はそっと身を起こそう……とするが、まだフラつく。「うう……」と思わず唸った声で、エミーが目を覚ましてしまった。
「……あ、リア! おはよう……」
寝ぼけまなこをこすりながらも、エミーが私に笑顔を向ける。その顔にはクマができているが、何だかホッとした様子。
彼女は私の額に手を当てて、少しすると、安心した表情になった。
続いてローザも目を覚まし、何かと歓声を上げる。私もそれを聞いて、(よかった……)と胸を撫で下ろす。
「……あ……う……」
まだ舌がまわらず言葉にできないが、エミーが何かとこちらを覗き込む。私はごくりと唾を飲み込み、さほど痛みがないことに驚きつつ、「あ……り……が、……と……」と呟いてみた。
エミーが大興奮で、何かをローザに確認し、ローザも目を輝かせて言う。なんとか、単語を聞き取ると、「すごい」「リア」といっているようだ。実際にはカタコトどころではない音だったと思うが、二人にとっては嬉しい言葉だったみたいだ。
ローザが意気込んで部屋を飛び出す。「ベアトリーチェ」といっていたので、報告にいったのだろう。エミーは、手際よくタオルとお湯を用意し始める。
私は半ば身を任せる形で、エミーに上体を起こされ、背中を拭いてもらう。今までの汗が染み込んだ寝巻きを脱がされ、代わりに新しい部屋着を着せてもらうと、すっと体が軽くなった気がして、ほっと息をつく。
エミーが申し訳なさそうに何か言うので、私は「ありがとう……」と伝えたい。でも、まだ声がちゃんと出ない。ただ、軽く首を振りながら微笑む仕草で、何とか感謝を表現する。エミーはそれを感じ取ったのか、目元をうるませつつ、と微笑んでくれた。
私は改めて思う。
(幼児って、本当に体が弱いんだな……でも、その弱さゆえに、こうして周りがサポートしてくれるんだ……)
前世で大人だったころの私は、たとえ風邪を引いても「自分で何とかしなきゃ」と思って誰にも頼れなかったことが多い。けれど今は、体は幼くても、周囲が全力で手を貸してくれる。その温かさは、言葉にできないほど身に染みて感じられた。
ほどなくして、ローザがベアトリーチェを連れて戻ってくる。ベアトリーチェは私の額に手を当て、ほっとしたように何か言うと、と優しい笑みを見せた。エミーとローザが「やった!」と小声でガッツポーズをとっている。
「リアンナ?」と続けて、ベアトリーチェが何か問いかけるので、私は小さく「う……あ……」とだけ答える。まだ思うように発声できないが、少なくとも唇を動かす余裕は出てきた。ベアトリーチェはそれを見て、何か優しそうな言葉をいうと、背中を撫でてくれる。
また、薬草の煎じ薬をもう少し飲むよう薦められるが、先ほどほどの苦さには驚かない。むしろ微かにホッとする苦味が、少しの間だけ頭をシャキッとさせてくれる気もした。
ベアトリーチェはエミーたちに何か言っている。でも、その落ち着いた声音は、まるで“もう大丈夫”と保証してくれるようだ。
私は弱々しく微笑み返す。まだ言葉が出ないが、心の中には「ありがとうございます」と何度も唱えている。ベアトリーチェが何かいい、エミーとローザは恐縮していた。
しかし、私は“みんな十分すぎるほど頑張ってくれた”としか思わない。むしろ間に合ってよかったと安堵の気持ちばかりだ。
結局、その日はずっと部屋にこもり、私はベッドの上で静養を続ける。熱が下がったとはいえ、まだ完全復調には遠い。けれど頭の重さが徐々に和らいでいく感覚を味わいながら、改めて“体が良くなる”という喜びを噛みしめる。2歳の体での病気は怖かったけれど、“回復”という概念がいまは輝いて見える。まるでまた一つ、世界が広がったようだ。
エミーとローザは、交互に私を見守りつつ、体を優しく拭いてくれたり、少量ずつ水分や柔らかい食事を与えたりしてくれる。私はそのたびに拙い声で「……あ……う……」とか「ん……」と応じ、ほのかな意思疎通をする。前世の私なら「もう少し会話できたらいいのに」とイライラしそうだが、今はこれで十分。何せ、私の思いが伝わると二人が笑顔を見せてくれるから、それで満足だ。
ちなみに、ボリスというおじさんはあまり姿を見せないままらしく、廊下で時おり、何か控えめに声をかけてくれる程度だ。ローザいわく「ボリスさん」は、家のことをまとめている?みたいな人らしい。私としては“あの落ち着いた声が聞けるだけで心強い”感じで、直接会話はしていない。
夕刻が近づいたころ、私はだいぶ体を起こせるようになっていた。とはいえ無理は禁物なので、枕にもたれて半分座った姿勢くらい。エミーは、何か嬉しそうに言い、ローザも目を細める。
エミーが安堵して何か言って、ローザも半泣き顔で笑う。私も昨日の夜を思い出すと、あの悪夢と高熱が体に及ぼした恐怖は忘れがたい。でも、その恐怖から救ってくれたのは二人とベアトリーチェ、そしてこの屋敷の皆だったのだ。ボリスという人だって、私の見えないところで、この屋敷、領地の仕事をしているに違いない。
(私、いろんな人に守られてるんだな……)
そんな実感が胸に込み上げ、なんだか感極まって泣きそうになる。けれど、もう幼児の感性が“素直に涙を流してしまえ”と囁く一方、前世の大人の理性が“照れくさい”と抵抗する。どちらにせよ、喉が痛いので声を出した泣き方はできず、結局目にうっすら涙を溜めるだけにとどめる。
「ん……ありが……と……」
うまく発音できなくても、一生懸命そう伝えようとする。するとエミーとローザは「あ、リア、今ありがとうって……!」と大騒ぎし、手を取り合って喜んでくれる。私がこんな体調不良の最中、わざわざ発音しようとしているのが嬉しいらしく、二人は何度も「リア、ありがとうね! 私たちも本当によかったよ!」と返してくれる。
もちろん、完全に回復したわけではない。日が暮れる頃には、また少し熱がぶり返す気配があり、ベアトリーチェが何か二人に指示を出す。熱が一度でも高くなると、2歳の体には大きな負担が残りやすいからだ。私も納得して、「今日は大人しく寝ていよう……」と腹をくくるしかない。
しかし、エミーとローザにとっては心配が少し和らいだらしく、部屋の空気も先夜ほど張り詰めてはいない。ローザが何かを告げる。私は、私は弱々しく首を縦に振る。
ローザが、何か歌を歌い出す。優しい歌声を聴くうちに自然と眠気が訪れ、まぶたが落ちていく。
(これから先、クーデターや陰謀なんかがあったらどうしよう……。私は、この体で乗り越えられるのかな……)
不安は尽きないが、今回の看病で私の中には“皆が支えてくれる”という確信が芽生えた。すぐに何かが変わるわけではないけれど、幼児だからといって孤独ではないのだ。私にはエミーとローザがいるし、ベアトリーチェがいる。ボリスも何かと指示を出してくれているらしいし、いざというときは一丸となって対処してくれるかもしれない。
そう考えると、私が今やるべきは“無理をせず、体を大事に育てること”だ。いつか、自分の名前「リアンナ」を堂々と名乗れるくらいの強さを手に入れるためにも、まだ幼児の体には学ぶことが多い。
(今回の病気に懲りたし、次は早めに言葉で伝えられるようになりたいな……。語彙を増やして……)
再び夜が訪れ、私は昨日ほどの苦しみはなくベッドで静かに横になっている。エミーが私を抱っこして寝かしつけてくれようとするが、さすがに2歳の体でも体重が増えてきたからか、何か重そうだという意味の言葉を呟いて苦笑している。ローザは、どうやら手伝いを申し出たようで、二人で交互に抱っこや背中トントンをやってくれる。私はそのたびに穏やかな眠気を感じる。
「リア……」
エミーの声が耳に優しく届く。リアに続く言葉はまだよくわからないが、私はぼんやりと「ありがと……」と心の中で返事をする。実際は「あ……」程度の声しか出せないけど、エミーは察してくれたのか、ニコッと笑って「いい子だね」と頭を撫でてくれる。
幼児の体で頭を撫でられる感覚は、なんとも不思議に心地よい。前世の大人だったころは、なでられるなんて想像もしなかったからこそ、今の私は素直に嬉しくなる。
こうして看病の二日目の夜を迎えながら、私はゆっくりと回復への道を歩み始めていた。若干の熱はあるものの、あのピークの地獄のような苦しみからは解放され、少し落ち着いて寝られそうだ。
ふと、ベアトリーチェが顔を出し、何か声をかけてくれる。二人に指示を出しているようだ。二人は「はい!」と声を合わせ、ベアトリーチェに「おやすみなさい」を告げたあと、私に向き合う形で優しく微笑む。
「リア、おやすみ。」
ローザがそっと布団をかけ直し、エミーがライトを落とす。私は、幼児の体に染みる疲労を感じつつ、安心して目を閉じる。今はただ、彼女たちの温もりを背中に感じながら眠りにつきたい。
これが、私の“初めての病気”。2歳の身には過酷な洗礼だったが、それを経てわかったことがある。
――私は、一人じゃない。
どんなに苦しくても、どれだけ言葉を失っても、エミーやローザ、そしてベアトリーチェのような大人たちが力を貸してくれる。いずれ私が成長して、クーデターや陰謀といった現実に立ち向かう時期が来るとしても、彼女たちの存在がある限り、私はきっと大丈夫だ……そう信じられるようになった。
布団の中、軽く熱を帯びた体を抱えながら、私は微かに微笑む。苦痛も不安もまだ残っているけれど、心はそこまで沈んでいない。幼児の本能と大人の理性が交じり合った、不思議な感覚が胸の奥でやわらかく光を灯している。
ふと、前世の知識が頭をよぎる。親権者がいない場合は、未成年後見人という者が選任され、その者が、未成年者の権利義務を管理することになっている。見慣れない手続だが、この世界の私にとって、それにあたるのが、ベアトリーチェか、ボリスさんなのだろう。父が、後を託したのだろうか。
(私、リアンナ。これからも頑張ろう……。まだ2歳だけど、“いつか”きっともっと強くなれる……、いつか、ここの領主として、みんなを支えて、守ってみる……)
そんな想いを抱きながら、私はそっと寝返りをうち、エミーとローザの声が遠のくのを感じる。長かった病の苦しみが、闇夜の奥へと消えていき、代わりにほんのりとした安堵が体を包み込む。
外では薄い月明かりが夜空を照らしているのかもしれない。けれど私にはもう関係ない。次に目覚めたとき、きっと私の熱はもっと下がっていて、昨日よりも少しだけ強い幼児の体になっていると信じて——まどろみの中で、私は幸せな呼吸を繰り返すのだった。
前世 日本国 民法
839条1項 未成年者に対して最後に親権を行う者は、遺言で、未成年後見人を指定することができる。ただし、管理権を有しない者は、この限りでない。
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