真っ白な日常 ~優~
プロローグ
「晶くん。聞いて欲しいことがあるの」
電話の受話器から聞こえた言葉には、何故か重いものが含まれている。そのためなのか、声が微かに震えているような、そんな口調だと朝霧晶は感じた。
電話の相手は、幼なじみの麻宮めぐみの姉、紀子からだった。
「いいけど、何?」
普通に答えたつもりだったが、晶の言葉は少し冷たい。そのせいなのかはわからない。ただ、長い沈黙が続いた。
「めぐみが……死にたいって……。そんなこといわれて、どう答えていいかわからなくて。あの子、冗談なんていわないから……」
「そう……。そんなに心配しなくていい。誰かに言ったってことは、生き方を知りたいって思ってることだから……。大丈夫……」
紀子の言葉に、胸が締め付けられる感覚が晶を襲った。ゆっくりと、自分の言葉で紀子に答える。
「……ごめんね。めぐみのことお願い。私が頼めるの、晶くんだけだから……」
「わかったから、気にしすぎて、ぎこちなくならない方がいい。変に心配されると、かえって鬱陶しいから……」
「うん、ありがと。じゃ、おやすみなさい」
紀子の言葉に晶は、同じように「おやすみ」という言葉を口にして、紀子が受話器を置く音を確認してから、自分も置いた。
(……死にたいか……)
頭の中で、そうつぶやいて晶は自分の中にも、似たような感覚があることを感じていた。
シーン1 居場所
決められた日常。その中に晶はいる。人間世界の束縛された、自由のない場所。自分の意志さえも叶わない、ただ与えられた日常に流されているだけの世界。抜け出すことのできない、不確かな場所。この世界で晶は、中学生と呼ばれる存在だった。力無き生かされているだけの存在。
「此処は何処なんだ……」
「図書室よ」
一人で窓の外から、空を眺めてつぶやいた晶に、めぐみがそう言ってきた。華奢なめぐみを見て、晶は昨日の電話のことを思い出す。
無表情というわけではない。が、疲れているような、無気力な雰囲気がめぐみの表情にはあった。
「……そうだな……。じゃ、人はどうして存在している?」
言った晶は、本気でその理由や意味を知りたかった。わからないから誰かに聞く、それが、たまたまめぐみだっただけ。
「存在してるから、存在している。意味や理由なんて、誰にもわからない……。でも、生きることを続けることが、正しいことだって、あたりまえのことだって、みんな言うわ……馬鹿みたい……」
話していくうちに、めぐみは苦しそうな、哀しそうな、そんな表情をした。その言葉を晶は、否定するつもりはなかった。
(同じことを考える……)
「変な奴……」
「……そうね……」
二人の会話を聞く人はいなかった。放課後の図書室は、テスト期間中を除いてはほとんど利用する人がいない。図書委員が退屈そうに、下校時間まで本を読みながら待っている。
その図書委員の位置から、窓側にいる晶たち二人は死角になっているため、見えなかった。少し沈黙が続いてから、
「他人のことは……言えないか……。おまえ、人は嫌いなのか?」
そうめぐみに聞いた。
「そんなことはないよ……」
不思議そうな視線で晶を見て、めぐみは言う。そのめぐみの視線を、まっすぐに晶は見つめる。見られていることを気にせずに、めぐみは近くにある椅子に座った。
「お姉ちゃんから聞いたでしょ、私が死にたいって言ったこと」
「ああ」
「……わからなくなるの。決められたままに学校行って、知識を記憶して、それをテストして、沢山与えられた知識を記憶して、それを必要なときにうまく引き出せる人が、評価される。学校に限らないけどね。もっと歳を取って、会社で働いたとしても、結局は同じことの繰り返しでしょ?」
晶はめずらしそうにめぐみの言葉を聞き続けた。いつもは、自分からこんな風に話し出すことはない。少しだけ微笑むと、めぐみは言葉を続けた。
「……だからかな、生きてることに疲れちゃった……」
「繰り返される毎日か……。やっぱり俺はわからないな、今、自分が何処にいるのか」
晶は、寂しそうに自分を見つめるめぐみの視線が受け入れられなかった。ゆっくりと視線を外すと、窓から遠くの空を見る。少し暗くなりかけている、冷たい空だった。
「此処は図書室。そう呼ばれているから……。でも、私にも本当に何処にいるのかなんて、一つもわからない……。私の知っていることはみんな、誰かに教えられたことだけだから。私が知っていることは何一つないもの」
知識、記憶、意識。自分という意識だけは、あるのだろうと晶は思う。ただ、自分が基準とする、考えることの元となるものが、結局は誰かに与えられた知識だけ。そう考えると、自分という意識も、創られたものに過ぎない。
「自分が恐くなるときがある。俺は、俺なのに、本当に俺なのかってな……。ただ、知らないうちに、操られているだけなのかって。こんな風に考えることも、プログラムされているなら、消えて無くなってもいいかなって思う……。何年経っても、同じだから」
晶の言葉に、めぐみは少しだけ笑う。晶はただ怪訝そうに見た。
「……同じ繰り返しが壊れたらいいの?」
「いや、そんなに単純じゃないだろ。……理由なんてないのかもな。誰かを好きになるのも嫌いになるのも、感覚的な方が大きいから。理由は後から考える……。消えたいって思うのも、なんとなくなのかも」
「私は死にたいわ、居場所がないもの」
そうめぐみは即答した。晶は驚くよりも先に、苦しかった。身体の何処が締めつけられているのかはわからない。ただ、苦しかった。
「俺の近くじゃ駄目か?」
「それってどうゆう意味?」
聞かれて晶は言葉につまる。が、答えられないからではなかった。めぐみの質問の意味がわからなかったからだ。
「このまま、今みたいにこうして近くにいること。それだけだ……」
「一生?」
そう聞かれて、めぐみの問いに気がついた。
「俺はそのほうがいい」
めぐみは答えなかった。そのまま沈黙して、しばらくずっと太陽が沈むのを見ていた。
シーン2 人
昼休みの屋上は昼食を目的に、人が集まる。そんな賑やかな場所で晶は、仰向けになって空を見ていた。人の話し声をBGMにして、じっと空を流れる雲を眺めている。
危険がないように、かなりの高さまて鉄柵で囲んである屋上は、少し視点を変えれば、刑務所のようにも思える。
(……なんかこのまま消えてくれないかな)
めぐみではないが、今、この全身の力を抜いて、漠然とした時間の中にいると、生きているという行為が本当に疲れることだと感じてしまう。周りの楽しそうな声は、晶には雑音としてしか聞こえていなかった。
「楽しい?」
「……そうかもしれない。気分は悪くないな。空を見てると、吸い込まれていく感じがして、此処から別の何処かへ行けそうな気がする」
自分を覗き込むようにして話しかけてきためぐみに、晶は視線をめぐみの瞳に変えながら言う。めぐみは表情を変えないで、晶の隣で同じように仰向けになった。
午後の授業の始まるチャイムが聞こえてくる。まだ残っていた生徒たちが急いで教室に戻っていく中で、二人はその場を動かなかった。チャイムが鳴り終わっても、二人はしばらく空を見続けていた。
「行かないのか?」
「……晶の近く……。私の居場所は……」
すごく哀しい声だと晶は思う。何も言葉を口にできなかった。
(迷惑なのかな……、俺がめぐみを束縛してる……)
そう思うと苦しくなる。近くにいたいのは自分の方だということが、晶にはわかっていた。だから、何も言えなかった。
「一人でいるとね、苦しくなるの。寂しくて、誰かに近くにいて欲しいって……。でも、こうして学校に来て、沢山の人の中にいると、もっと苦しくなるの。周りに自分と同じはずの人が沢山いるはずなのに、どうしても私は他の人とは同じ場所にいられない……」
空を見ながら聞いていた晶は、めぐみの声が少しずつ震えてくるのがわかった。泣いている時の声……。
「わかる気がする……。俺もそうだから、俺は何処に行けばいいかなんてわからない。周りに流されてるだけ……。同じかな、一人の時は寂しい。けど、みんなといると息苦しくなる……」
意識してはいなかった。自然と胸が締めつけられて、同時に涙腺が脆くなっていくのがわかる。
「……どう……して泣くの……」
「そんなの、この身体に聞け……」
(変だな……)
二人はじっと空を見ていた。冷たい空だった。けれど、その空に吸い込まれそうになると、涙が止まっていくのがわかる。
めぐみが起き上がった。コンクリートの上で仰向けになっていたから、少し表情を歪めた。晶はそのまま空を見ている。
「……どうして一人じゃ駄目なのかな……」
膝を抱え込んで蹲りながらめぐみは言う。寒くなったのか、身体が震えている。十月の終わりとはいえ、屋上の風を長時間浴びていれば、震えても不思議ではなかった。コンクリートも冷たい。
「弱いから……。本当に強ければ、人は滅びてる。この自然の世界で、人は生きるために数を集めた。自分より強い動物を食らうために……。その名残かな……。つまり、生きるには一人じゃ駄目だって、潜在意識の中に残ってるんだろ……」
(だとしたら、なんで生きようとするのかな)
他の動物は生きるために、行動してる。しかし、晶は違った。生きているから、何をするのかを考える。
「……人は他の動物に襲われること、ないから……。守られた環境があるから、だから、生きてることの重さがわからなくなる」
「日本は特にね。……お姉ちゃんに謝らないと……」
突然、めぐみはいうと微笑んだ。晶は不思議そうに感じる。めぐみと会話をする。その内容が答えのないことでも、会話をしているときはだけは心地良かった。
(……みんな不安だから、意味はなくても話をするんだろうな……)
全てに前向きで、死にたいなんて思わない人を、意図的に孤独にしてしまう。たとえば、話し掛けられても無視をする。そっけなく答える。阻害し続ける。そんな環境に追い込んだら、前向きなままでいられるだろうか。
その答えは、やってみなければ晶にはわからない。けれど、かなりの心理的苦痛になることは確かだと感じた。
(……必要とされなくても、阻害されないだけまだいいのかな……)
「心配してくれる人がいる。それで、十分なはずなのに……」
「晶は駄目なの?」
「……死にたいとは思わない。けれど、消えたくはなる……」
ゆっくりと晶は起き上がった。外が寒いからか、自分の心が寒いのかはわからなかった。その両方なのかもしれない。身体が冷えたので、起き上がった。
「居場所あげる。私の近く……」
「……変な奴だな……」
めぐみは大きく頷いていた。自然に微笑んだまま……。
シーン3 事故
金曜日の夜に、紀子から晶に電話があった。突然の誘い……。
「晶くん、めぐみのことありがとう」
「何が?」
「くす、いいわ。それより、あした家にこない?なんか久しぶりに逢いたいし」
「……別にいいけど……」
「それなら、絶対来てね。待ってるから」
一方的な電話だった。それでも、晶は気分は良かった。先日受けた電話の声と比べて、紀子が嬉しそうなのが伝わってきたからだった。一つ疑問なのは、なんで自分に会いたがったかである。
「……変な姉妹……」
めぐみの家は晶の家から、近かった。歩いて十五分くらい。自転車だと五分もかからない。晶は自転車で、めぐみの家へ行った。
父親は、晶とめぐみが小学校へ入学したその年に、交通事故で無くなった。母親はそのショックで今も入院している。めぐみは祖母と姉妹で暮らしていた。
玄関の戸の前で、チャイムを鳴らす晶。すぐに紀子が出てきた。めぐみとは対照的に、いつも微笑んでいる。その紀子が泣いていた。
「……めぐみが……、めぐみが……」
涙を溢れさせて、紀子は中々伝えようとしている言葉を口にできなかった。
心臓が激しく鼓動する。良くないことを晶は考えた。めぐみに二度と逢えない気がした。恐くなって、それでもじっと紀子の言葉を待つ。不安な感情を堪えて……。
「事故にあったの……。晶くん迎えに行くって、家を出てすぐに車に……」
「それで……、それで!めぐみは!!」
叫ばずにはいられなかった。失いたくなかった。身体の胸のあたりに、穴が空いてしまいそうな気分だった。
「今、おばあちゃんと総合病院に……」
反射的に自転車に乗って、走り出していた。運ばれた病院は、近くにある。晶はまっすぐそこに向かう。
(……こんなに簡単にいなくなるなよ……)
手術室の前に、手を合わせためぐみの祖母が座っていた。連絡を受けた、学校の担任が顔を真っ青にして晶を見る。
「めぐみは?」
女性の教師は首を横に振って、まだ何もわからないという。
時計の音が、妙に頭の中に響いた。遅れて紀子も来たが、手術中の文字は灯されたまま、まだ消えていない。一時間が経過していた。
誰もが沈黙していた。時々、扉が開かれて、慌ただしく、看護婦が行き来する。紀子が、その看護婦に聞こうとするのを止めたのは、晶だった。落ち着くと、酷く自分が冷静なのがわかる。
(……死んだら許さないからな……)
そう心の中でつぶやいた瞬間、手術室の扉が開かれた。点滴をしたまま眠ったままのめぐみが運ばれていく。
「めぐみは、めぐみは大丈夫なんですか?!」
出てきた医者に向かって紀子が、泣き声のまま聞いた。
「……手術は成功しました。後は、意識が戻るのを待つだけです……」
短くいって、医者は早々と通り過ぎていく。晶は、それを気にせずに、めぐみの運ばれた部屋へと歩いた。
しかし、その日の夜は肉親さえも面会謝絶だった。事務的な口調で看護婦に説明されると、晶だけでなく、紀子や祖母も家へ返された……。
次の日の朝から、晶は病院へ行った。面会謝絶は外され、紀子がめぐみの枕元の椅子に座っていた。
「……麻酔はもう切れているって……。でも、意識が戻らないの……」
「……」
何も言葉が浮かんでこなかった。めぐみは、眠っているようにしか見えなかった。腕や脚の包帯が痛々しいが、表情は穏やかに見える。
「二、三日の間に目覚めないと……」
「……かわってやれればな……」
拳を強く握り締めて、晶はつぶやいた。紀子の方が沈黙ししてしまう。ゆっくりと、紀子は立ち上がると、祖母に電話してくるといって病室をでた。
「卑怯だろ、一人だけ寝るなんて……」
晶はそういって泣いた。どうして涙が溢れるのかはわからない。このままずっと眠り続けたら、そう思うとどうしても涙をとめられなかった。
シーン4 幻
図書室の窓から外を眺めていた。十一月がもう終わろうとしている。晶は、目覚めないめぐみのことを考えていた。
(……逢えないのか……)
病院には、毎週通っている。心の無いめぐみがベッドで眠っているだけだった。日に日に痩せていくのがわかる。点滴だけでは、栄養は補えても、筋肉を維持させることはできない。
言葉を交せなくても、めぐみを見るだけで少し気分は楽になる。もし、存在そのものが、いなくなってしまっていたら、晶は、自分がどうなっていたかわからなかった。
「生かされているから、生かしてもらっている人のために生きる……。けど、話せる相手くらいは欲しいけどな……」
一人になって、確信する。認められなくても、めぐみという存在が、自分の居場所だったことを。たとえ、受け入れられなくても、晶がめぐみという居場所を求めていた。
「他の人じゃだめなの?」
そう、めぐみが聞いた。いつもの疲れたような表情で、じっと晶を見て答えるのを待っている。
「……わからない。けど、少しでも重なる何かを持ってないと……。めぐみが一番、狭くなくて、広すぎもしなかったから」
自分を見ているめぐみに、晶は嬉しそうにそういった。めぐみはそのまま晶を擦り抜けて、窓の外を見る。
「ねぇ、いつも何を見ていたの?」
「……図書室。窓に映る図書室……そこにいるおまえの顔……」
夕焼けが、めぐみの髪を栗色に染めた。晶は、少しずつ苦しくなっていく気がした。
「変な奴……私なんかのどこが……」
「……それは、俺のセリフ」
めぐみに触れようとして、晶の手は何も無い空間を擦り抜けた。目の前にいたはずのめぐみの姿が消える。
(……何をしているんだ……)
一人になるといつも見えてしまう。それが、めぐみそのものなのかは、晶にはわからない。自分が創り出した幻なのか、それともめぐみが、自分の前に本当に現れているのか……。
(俺は、そんなに弱いのか……)
今まで、居場所として存在していた人。めぐみは、もう晶に近づいてはいけない……。
夕日がもうすぐ消えようとしていた。最近いつも、陽が沈むのをこの場所で見ている。
「……此処が俺の居場所か……」
シーン5 声
病室からの風景は、図書室の窓の外に似ていた。絵に描けばまるで違うのに、晶には同じように映った。
「一人で話をしても、面白くない。なんで、目を開けないんだ?そんなに、眠ってる方が好きなのか?」
自分の見る幻のめぐみと話をする方が、楽だった。答えが返ってくるから……。
点滴が、ゆっくりと落ちているのを見る。取ってしまったら、めぐみは楽になるのかと、考えることもあった。
(心臓が動いていることが、生きているというのなら、俺におまえの命、奪うことできるわけない……)
目を閉じたまま動くことのないめぐみに、晶は複雑な気分だった。
「……俺は、ずっと一人で話してるだけで終るのか?……死んでもいいか?なんかさ、ずっと見守ってられるほど、強くないから」
そう言って、晶はナイフを手にした。ゆっくりとそれを自分の首に近づける。
(……死んだら、楽だろうな……)
思って、ナイフを持つ手に力を込める。首に痛みを感じた。ゆっくりとナイフをスライドさせていく。自分が何をしているのか晶には良くわからなかった。
首の痛みを感じたまま、めぐみの色褪せた唇をただ見つめる。
「無力だな……」
首の傷を指で触れた。赤黒い自分の血の感触が不快だった。死ぬことを実行できる強ささえない自分が、弱く思えた。
(……結局、一歩も近づけなかったのかな。近づけたって、錯覚してただけ……。馬鹿だよな……)
じっとめぐみを見つめた。すぐに壊れそうなほど、弱々しい表情をしている。そのまま吸い込まれるようにして、そっと唇を重ねた。ぎこちない状態のままずっと、唇で唇に触れる。手を握ることは何度もあった。けれど、それでは伝えられない感情を止めることができなかった……。
(……物語なら、ここで目覚めてくれるんだろうな……)
そう思った瞬間、めぐみの瞳が開いて晶は驚いて唇を離した。どうしていいのかわからなかった。ただ、なさけない表情で、めぐみを見つめる。
「やっと……、戻れた……」
小さな声が、聞こえた。めぐみの口から発せられた声だった……。
また、幻を見ている。そんな気分だと晶は思った。それなのに、涙が溢れて止まらなかった。ゆっくりと笑む瞳。めぐみは本当に苦しそうに、泣いている晶を見た。
「……ずっと、聞こえてた。ずっと、話したかった。でも、身体が動かなかった……」
話しをするのが辛そうだった。それだけ身体を動かすという行為は、今のめぐみにとって力がいる。
「全身の感覚が無くて、ちゃんと、晶が来てくれてることわかっていたのに……」
「……原因なんていい。理由なんていい。ただ、言葉が交せるなら、それだけでいい……」
めぐみの手をしっかりと握って、晶は言う。めぐみが事故に遭ってからはじめて晶は握り替えされた。
「……唇が暖かかった。気持ち良かったから、ありがと……」
そう微笑んで、めぐみはそのまま眠った。今度は、夢も見ることのできる眠り……。
エピローグ
病院の敷地内に二人はいた。めぐみは回復してきたものの、まだ自分の力で歩くことができない。晶はゆっくりと車椅子を押して歩いた。
枯れ葉が、冷たい風に流されるように落ちてくる。
「眠っていたときね、真っ白だったの」
「?」
車椅子を止めて、めぐみの顔を覗き込む。めぐみは後ろを見上げるようにして微笑むと、すぐに前を向く。
「……何も無いの。ただ真っ白で、晶の声が聞こえるの。でも、自分の身体がないの……。
死にたいなって考えたときと同じ。自分の居場所だけ探してた……。だから、自分以外のものが、真っ白にみえる……。
あの時キスされて、暖かかった。身体の感覚が戻ってきて……」
「……真っ白な日常……。自分しか見えてないか……。おまえの意識が戻らなくて、不安だった。すごく死にたいって何度も考えて。けど、どうしてもできなかった……。
もしかしたら、いつか目覚めるんじゃないかって。そう思うと死ぬことさえできなかった。ただおまえに目覚めて欲しかった。それだけ……。だからかな。真っ白な日常から、抜け出せた……」
自分以外の存在と、自分との繋がりが見えなくなる。意識の中では、その存在の大きさはわかっているのに、そこから逃げようとする自分には気づかずに、どんどん深みにはまっていく。
周りが真っ白に感じた時、自分という存在の居場所もわからなくなる。他人との接点、人との関わり……。
(……めぐみがいなかったら……)
そう考えてすぐに止めた。今は見えている繋がりを守る。それだけでいいと晶は思う。
「あっ、お姉ちゃん!」
晶は、めぐみの言葉に反応して、嬉しそうに歩いてくる紀子を見て、軽く頭を下げた。そして、ゆっくりと車椅子を前進させていた。
END