根暗のおっさんは転生してゆりゆりしたい
根暗のおっさんは転生してゆりゆりしたい
~女子高生のいとこに転生してしまった理系のおっさんは前世の知識で無双する~
第1話
リストラよりもいとこがだいじ
俺は今日リストラされた。クリスマス近い街は飾り付けがされ綺麗だが、遠い世界のことのような気がする。少子化の波は塾業界にもしっかり押し寄せていて、40近いおっさんはもういらないそうだ。大学時代からバイトで塾で教え始め、20年近く算数ばっかり教えてきた。次の仕事など思いつかない。
今日午前中、都心の本社に呼ばれた。授業は夕方だから、しばらく時間がある。やはり都心の大学病院に入院しているももかのところによってみよう。
2駅電車に乗って、ももかのいる病院に着く。面会の許可をもらって、通い慣れた病室にむかう。
ももかは父方のいとこで、今高1だ。都内の私立女子校に通っていたのだが、去年腫瘍が見つかった。高校になってから学校にいけなくなり、俺はときどき行ってやって勉強を教えている。
見慣れた「川口ももか」のネームプレートを見て病室に入ると、先客がいた。
「あ、コーイチせんせい」
ももかの友達であり、俺の教え子の鈴木すずかだ。ももかが5年のとき伯父の家に遊びに行くと、伯父がももかの算数の模試の結果をなげく。しかたないのでちょっと見てやっていたら、塾ですずかに俺のことを話したらしい。一緒に勉強をみてやることになり、伯父と鈴木家から会社に内緒の謝礼をもらっていた。受験が終わり、すずかとの縁は切れていたが、ももかの入院で時々顔をあわすようになっていた。
断じて俺はロリコンではないが、若い女の子と話していると、心が和む。
30分ほど他愛のない話をしていたら、リストラでささくれた心がすこし、正常に戻った気がした。今日は勤務があるので、勉強をおしえることなく病室をあとにすることにした。
なぜかすずかも一緒に病室を出てきた。
「よかったら、もう少しももかに話をしてやってよ」
廊下でももかに聞こえないよう、小声ですずかに言った。
「せんせい、相談があるんです」
「わかった」
病院を出て、駅前のカフェに入る。すずかには席を取っておいてもらい、クリスマス限定のアイスドリンクを2つ買って席についた。
「ありがとうございます」
すずかは暗い。暗い子ではないのだが、気にかかることがあるらしい。
「前みたいに、タメ口でいいよ、で?」
ドリンクにも口をつけず、口も開かないので、俺は自分のドリンクをチューチューとすする。頬が凹む。
それを見てすずかは少し笑って、やっと話し始めた。
「ももか、最近、頭が痛い、って言うんです」
その言葉が頭に突き刺さった。恐れていたことがついに来たのかもしれない。
気を使わせてはいけないと思い直し、無理に笑顔を作って言う。
「気のせいじゃない、あと、タ メ グ チ」
すずかは頭のいい子だ。無理矢理に微笑んで、
「きのせい、だ よ ね」
そこで会話は終わってしまった。
塾に遅刻気味に出勤し、いくつか授業をこなした。ももかの病状が気になる。まだ退勤時刻ではないので、上司に断り、伯父に電話した。
「おじさん、ももか、どうなの」
「う、うん、だいじょうぶだよ」
「最近頭痛いみたいだよ」
「病院いったのか」
「うん」
「…………」
暫くそのまま待つと、伯父は
「日曜休みか」
「ああ」
「家に来てくれ」
「わかった」
伯父宅に行くことをわかったのではない。ももかの運命がわかってしまったのだ。
アパートの近所の神社に行った。雪がちらついてきた。今年の初雪は早すぎる。
もう俺にできることは神頼みしかなかった。
賽銭箱に財布の中身を全部入れる。
「神さま、俺はどうなってもいいから、ももかを助けてください」
体が冷たくなっていくのがわかる。しかしお祈りを中断する訳にはいかない。
「お願いします、お願いします」
祈り続けていたら、意識が遠ざかっていった。
俺は目を覚ました。天井が白い。ベッドは妙に硬い。
体を起こす。腕には点滴がつながれている。
ああ、昨日お祈りしたまま、倒れちゃったのか。それで病院へ担ぎ込まれたのか。
『コウイチ、ちがうよ』
頭の中に声が響く。
「だれ?」
声に出すが、妙に声が高い。しかも病室は無人である。
『コウイチ、私、ももか。コウイチ死んじゃって私の中にいるの』
第2話
俺の遺品を確保する
マジですか。俺がももかの体内に転生しちゃったの?
ももかが手を動かし、手鏡を見せる。
『ほら』
美少女が鏡に写っている。
『美少女とかやめてよ』
俺の考えることはすべてももかに伝わってしまうらしい。
『そうだよ、エッチなことやめてよね』
はいはいわかりました。
午後になって、今日もすずかがやってきた。表情が硬い。
ベッド横に椅子を持ってきて座ったが、全く口を開かない。
「すずか」
ももかが語りかけた。
「うん」
「コウイチのことでしょ」
「…………」
「私知ってるよ。死んじゃったんでしょ」
すずかはボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。
黒髪ロング、色白のすずかが、泣いている。美しい。俺は見とれてしまった。
「ごめんね、ももかがコウイチせんせい好きだって知ってたのに」
俺は初耳である。そう思ってもももかの意識からの返事はない。
「ごめんね、ごめんね」
美少女が、友人のすずか、そして俺のために泣いてくれている。そう思ったら、口に出てしまった。
「ええこやのー」
すずかは大声を上げて泣き始めた。
30分ほど泣いて、すずかは帰っていった。
今度は伯父伯母(すずか父母)が厳しい表情でやってきた。
「ももか、落ち着いて聞いてね」
伯母が説明を始める。
「コウイチがね、今朝なくなったの。神社で発見されたって」
「そう」
すでに知っている俺たちは冷静である。
「いままで、警察にいたの。所持金が0円だったって。でもね、リストラもされてたらしいのよ。だから警察では、事件・事故・自殺3つの線でしらべてるんだって」
あらららら、えらいことになっとるな。
「コウイチは自殺はしないと思うよ」
俺は意識をのっとって言ってみる。
「でもリストラだって」
どう言えばいいのか。しかたなく言ってみる。
「自殺するタイプじゃないと思うよ」
「でもリストラだよ」
リストラはそんなに大きいことだったのか。俺はももかのほうが心配だ。
『ありがとう』
ももかが言ってくれた。
動揺する叔父叔母の前で、俺は思い出すことがあった。PCとフィギュアである。
俺は歌声合成ソフト「初聲クミ」ファンである。もちろんPCにはソフトがインストール済みだし、フィギュアがたくさん部屋にある。これを処分されてはたまらない。
心の声で、ももかに語りかける。
ももか、おまえ音楽得意だろう。
『うん』
おれのPC「初聲クミ」インストールされてるぞ。
『おお』
お前にやる。楽器もやる。
『ラッキー』
だから、なんとか確保しろ。
『へ?』
だめだ、俺がしゃべる。
「パパ、私、コウイチの遺品欲しい」
「は?」
「コウイチおじさんのこと大好きなの、パパ、知ってるでしょ」
「うん」
「おねがい」
こんなとき父親は、病弱な娘に弱い。
「わかった、なんとかする」
よっしゃ。
『コウイチ、ずるいね』
うるさい、俺の人生で残したものだ。
第3話
パソコンを手に入れる
入院生活は、基本ひまである。
朝起きて、検温して、朝食食べて、寝て、昼食食べて、ヒマして、夕食食べて、寝る。なので、ももかの頭の中で、俺とももかで会話して過ごす。
なんで、こんな生活できるんだ?
『入院してるんだもの、なにかしたらすぐぐったりしちゃう』
いま、ぐったりしてないじゃん。
『コウイチが来てから、なんだか調子がいいんだよね』
じゃ、ちょっと散歩でもしてみるか。
昼食後、ちょっと立ち上がってみる。点滴が邪魔である。
点滴のスタンドを押しながら、廊下に出てみる。
『廊下にでるの、久しぶり』
そうか、よかったな。とりあえず、どこ行こか?
『売店かな』
売店どこだ?
『知らない』
とりあえず歩いてりゃわかるか。
『そうね』
十歩くらい歩いたところで、疲れ果てた。
おまえ、体力ないのな。
『ずっと入院してるからね』
ごめん、すこしずつ歩いて体力つけよう。
『うん』
病室に帰ってすぐに寝てしまった。
目が覚めたら、伯父が病室に来ていた。すずかも来ている。
「ももか、お前の言ってたコウイチのパソコン持ってきたよ」
やったー!
「やったー!」
受け取ると、たしかに使い慣れた俺のパソコンである。
ももかがすぐにパソコンを開こうとしたが、俺は精神力でそれを押し留めた。
おっさんのパソコンには、女の子にみせられないものもあるんだよ。
『コウイチ、エッチ』
すまん。せめて
伯父さんが帰るまでまってくれ。
「ももか、それパスワードかかっているぞ」
あぶねー、伯父さんは電源を入れてみたらしい。
「時間かけて、やってみる」
俺はももかの意識を乗っ取って、そう言った。
『私、早く使ってみたいー』
ももかは不満そうだが、今は危険だ。とにかく待ってくれ。
「ももか、夜更かししないでよく休めよ」
「うん、パパ。またねぇ」
午後八時をまわり、やっと伯父は帰ってくれた。
ドアがしまったところで、ももかはパソコンを開いた。
『パスワードは?』
1221momoka
『私の誕生日じゃない、ちょっとキモ』
そのキモいのと頭の中で同居してるんですけど。
起動すると、壁紙は俺自作の初聲クミである。
「うわ」
まあ、そうなるな。
ももかがちょっと引いている間に、書類フォルダのうち、まずいものをどんどん削除していく。中身は見ない。見れない。
『コウイチ、変態』
中身見てないだろう。あと、男はみんなこんなもんだ。
『そうなんだ』
そうなんだよ。
『早くクミやりたい』
もうちょっと待て。うん、いいだろう。初聲クミを起動する。
打ち込む手順を教えるから、しっかり覚えろよ。
『うん』
それからしばらく基本の手順を教えて、さくらさくら、と打ち込んでみた。
「さーくーらー、さーくーらー」
クミが歌い出す。
「わーい」
ももかが声を出して喜んでいる。
しー、 もう消灯時刻だ。疲れたろ。
『うん』
もう寝よう。あしたがんばろうよ。
『よろしくね』
第4話
検査の日
目が覚めた。病院のこの天井もいい加減見慣れてきた。カーテン越しの外は暗い。ぼーっとしていると少しずつ明るくなってくるのがわかる。ベッド横の小さな棚に置かれた腕時計に目をやる。
『もうこの時間なのにこんなに暗いんだね』
もう冬だからな。
『病院にいると季節感無いから』
快適っちゃー快適だからな。
『うん』
今日外出てみるか?
『うん』
元気ないな、体力に自信ないからか? いけるとこまででいいじゃん・
『今日、MRIだから』
ああ、あれか
『あの機械、嫌い』
怖いか?
『……』
俺相手に、恥ずかしがってもしょうがないぞ。
『あのゴンゴン言うのがね、苦手。時間かかるし』
そうか。
確かに以前、腰を痛めたときMRIをやったが、機械の中に入ってしまう感じで怖い人は怖いだろう。しかしももかのこの感じは、それだけではなさそうだ。
『あのね、はっきりするのが怖いんだよ』
はっきりって、なにが?
『病気のこと』
そう言われて俺はこまってしまった。ももかに隠し事はできない。大人として頭部に腫瘍が見つかってしまったら、その意味はわかる。ふと「死ぬときはいっしょだ」とか考えてしまったが、そんな軽率なこと言えるわけがない。
『伝わってるよ』
やっぱりしごとはできないな。
もうこうなったらヤケだ。
そんときゃ、すずかのとこにでも転生するか。
『なにそれ』
俺最高だよ。両手にJK二人、両手に花だよ。
『サイテー』
最低認定されてしまったが、ももかの心が明るくなったのはわかった。
いつもなら検温のあと朝食であるが、今日は検査のため抜きである。ももかの空腹感はダイレクトに俺にも伝わり、それなりにつらい。検査は十時だからだそうだ。
腹減った。
『もう、考えないようにしてるんだから、やめてよ』
ごめん。そうだ、検査の後は、自由に食べられるの?
『うん』
そうか、なにか売店でおいしいもの食べようぜ。
『うん!』
MRIの検査は、退屈だった。機械の中に吸い込まれ、ゴンゴン大きな音を聞いているのは結構不安になる。うごくといけないので、じっとしているのもそれなりに苦痛だ。
ももか、いつもこんなのをがまんしてたのか。
『うん、なかなか慣れないね』
慣れたくはないよな。
『はやく終わればいいけど』
そうだね。
いつの間にか寝てしまっていて、気がついたら検査が終わっていた。病室に帰り、昼食を食べる。
味薄いなー。
『今日もそれ?』
なかなか慣れないよ。塩気がほしい。
『早死するよ、ごめん、もう死んでた』
ああ、気にしてない。
『ほんとごめん。で、このあとなに食べる?』
チー鱈食べたい。
『それつまみじゃない?』
嫌?
『別にいいけど、お酒は飲めないよ』
俺、べつにそんなに酒好きじゃないよ。
『けっこうよく飲んでるイメージだったけど』
ストレスだな。
『そうなんだ』
今、ストレスない。案外のびのびしてるよ。
『チー鱈あるといいね』
第5話
DTMを始める
『チー鱈なかったね』
ああなかったな。そんなにがっかりすんなよ。
『食べて欲しかったし。私も食べたかったし』
そうか、残念だな。でも、この赤い箱のクッキーもうまいぞ。
『え、これしょっぱくないじゃん。しかもいちばん普通のやつじゃん』
まあまあ、うまけりゃいいじゃん。それにな、クッキーは、一番普通のがな、食べ飽きなくていいんだよ。
『クッキーなんて、食べるんだ』
普段食べないけどな、登山用に昔よく買ったんだよ。
『ふーん』
ももかは棚に並ぶ他のお菓子も見ている。
『これはどう?』
手に取ったのは、サラダ系のせんべいだ。
おお、これもうまいな。でもなんでサラダなんだろうな?
『コウイチでも知らないの?』
なんだ、俺がなんでも知ってるみたいだな。
『そう思ってた』
知らないことのほうが多いよ。知ってることだけしゃべってるんだよ。
『ふーん、これは?』
次に手に取ったのは、チョコクッキーでマシュマロを挟んだやつだ。
おお、定番だな。いいな。
『コウイチはどれにする?』
全部。
『全部?』
食べたいもの、みんな食べようぜ。
『太らない?』
歩く練習始めたんだ、いままでよりカロリー取らなきゃ。
『そうだね』
病室に帰り、ももかはパソコンを開いた。
『クミやる』
いいね、これでももかもアーティストだな。
病室だから、ヘッドホンをパソコンに差す。
DTMのアプリを開き、新規ソングを作る。
クミのプラグインを開いて、ピアノロールを出す。
ももかは、鼻歌を歌い、トラックパッドで音程を入力していく。
俺は邪魔しないようにしていた。
『コウイチ、音入力するの、地味にめんどくさいね』
ああ、めんどい。USBキーボードがあれば楽なんだけどな。
『なにそれ』
鍵盤をUSBでパソコンに繋ぐんだよ。俺んちにあるはずだから、持ってきてもらえよ。
『わかった』
ももかは早速、SNSで親に連絡しようとして、手を止めた。
『どう説明すればいいかな?』
ちょっとスマホ借りていいか?
俺はUSBキーボードの販売ページから画像をもってきて、SNSに入れる。
『ありがと』
それが来るまでの間はな、パソコンのキーボードを鍵盤代わりに使えるモードがあるぞ。
パソコンを設定してやると、ももかは早速キーボードで演奏してみた。
『コウイチ、音出ない』
ああごめん、忘れてた。クミは鍵盤では歌わないんだ。
『だめじゃん』
メーカーに言ってくれ。でもな、他の楽器なら音出るぞ。
他の楽器のプラグインを設定して、音を出してやった。
これでな、一旦入力して、MIDIファイルに書き出してクミに読み込ませるんだよ。
『けっこうめんどくさいね』
そうなんだけど、しかたない。まあ、弾いてみろよ。
ももかは、幾つかメロディーを弾いてみた。美しいメロディーがヘッドホンから聞こえる。
ももか、すごいな。そういえば、ピアノやってたもんな。
『入院してから弾けてなかったけどね』
キーボード、早く来るといいな。
ももかに、一音ずつキーボードで入力するステップ入力、普通に演奏することで入力するリアルタイム入力の仕方を教えた。
『どう使い分ければいいの?』
俺はフンフンと鼻歌を歌ってからだったらステップ入力、ある程度メロディーが鍵盤で弾けちゃうんだったらリアルタイム入力でいいと思うけど。好きでいいんじゃない?
『やってみなきゃわかんないか』
それからしばらく、ももかはいろんなメロディーを奏でてくれた。俺はそれを、ただただしみじみと聞いていた。
『疲れた』
ももかはけっこう集中していたので、スタミナが切れたらしい。
菓子食おう。
『賛成』
それから、クッキーとせんべいを食べた。甘いもの、しょっぱいもの、お茶、無限ループに入りそうだ。
ももか、菓子がうまいのはいいが、かけらがパソコンにかかるのはまずい。
『あ、やべ』
キーの下に入ると、やっかいだぞ。
ももかはパソコンを持ち上げ、せんべいのかすを息で吹いて飛ばそうとした。
そしたら口の端についていたせんべいのかけらが、パソコンに向かって飛んでいった。
二人でしばらく笑った。
コンコン
病室にノックの音がした。
「はーい」
ももかが返事する。
「元気そうね」
入ってきたのは、四十代半ばの女性医師だった。ショートカットでなんかかっこいい。
『コウイチ、熟女好き?』
第6話
検査の結果
女性医師は、名札によると藤沢京子先生だ。
「午前のMRIだけど、ごめん、もう一回検査させてくれないかな」
「どういうことですか」
ももかの不安が、俺にもダイレクトに伝わってくる。俺も不安で、ももかの口をのっとった。
「午前の結果、なにか写っていたんですか?」
「いや、そうじゃないのよ」
「じゃ、検査失敗ということですか?」
「失敗じゃあないのよ、ちゃんと画像は写ってた」
「じゃあ、なんでですか」
「ももかちゃんだから、はっきり言うわ。何も写ってなかったのよ」
「やっぱり失敗じゃないですか」
「ううん、これ見てよ」
藤沢先生は、大きな封筒からプリントアウトされた頭部の画像をパソコンの横に置いた。
「これね、今朝撮った、あなたの頭部」
「はい」
「ももかちゃん、最近、かなり頭痛を訴えていたでしょ。いままでの経緯から考えて、頭部になにかあるとふんだからこそ、MRIやったのよ」
「はい」
「でもね、この画像、どこにも異常がないのよ。健康そのもの」
「はい」
「しかもね、あなた、ここのところ体調いいでしょ。病院の中歩きまわったり」
「すみません」
「悪いことではないのよ。でも、一ヶ月前はたいへんだったでしょ。だから、医師としては納得がいかないのよ」
「両親はなんと言っていますか」
「さっき電話で話したけど、ももかちゃんがいいなら、検査していいって仰ってたわ」
「今朝と同じ検査ですか」
「基本そうだけど、丁寧にやりたい」
「ちょっと大変ですね」
「ほんとごめん、お願い!」
「わかりました」
藤沢先生はももかの了解をとると、ほっとしたように病室から出ていった。
藤沢先生、いい人だな。
『なんで? 惚れた』
あほか、未成年のももかにもうそをいわないでちゃんと説明したじゃん。
『藤沢先生、いつもあんなだよ』
そうか、いい先生でよかったな。
『それはまちがいない』
眠いか?
『ううん、全然』
少し散歩しようぜ。
『なんで』
今日運動してないだろ、多分お菓子食べ過ぎだ。
『わかった カフェ行こう』
食うなよ。
『飲むだけ』
ももかの入院している病院は大きくて新しい。一階にはシアトル系カフェが入っている。俺はももかの面会後に何回か言ったことがあるが、ももかは初めてらしい。
『どれがいいかな』
メニューを見れば、俺が死んだ日すずかと駅前で飲んだクリスマス限定のドリンクがある。あれはうまかった。
『何、すずかと飲んだんだ』
うむ、流れ的にな。
『……』
おい、思考読むなよ。暗いぞ。
『コウイチが考えること、自動的に全部わかるんだからしかたないじゃん』
そうだな、でも、あれうまいぞ。多分。
『多分って?』
あの日は、味なんてわかる状態じゃなかった。
『今は』
味わえる。
『じゃ、頼もうか』
おう。
ところがである。今俺の視界の中心はドリンクでなく、スコーンである。スコーンにロックオンである。
ももか、食いたいなら買えよ。夜食にどうだ。
『ヤッター!』
店内は混んでいたので、ドリンクともどもテイクアウトし、病室で味わうことにした。
病室のベッドに腰掛け、ドリンクをすする。ナッツの味が効いていてうまい。
『これ、おいしいね』
うん。
『すずか、味わかったかな?』
どうだろう。そういえば最近、すずか来てないな。
『これないんじゃない? コウイチのことショックで』
会いたいか?
『うん』
じゃ、連絡しろよ。
『いいのかな?』
いい、わるいじゃない、ももかが会いたいかどうかだ。
『コウイチが会いたいんじゃないの?』
どちらかといえば会いたいかな?
『ロリコン!』
ロリコンは塾講師無理。
『もう塾講師じゃないから解禁?』
だからロリコンじゃないって。
第7話 親友と会う
『コウイチ、どう言えばいいかわかんない』
俺もわからん、ごく軽く、今度遊びに来て、とかでいいんじゃない?
『……』
『……』
『そうする』
まんまかよ。
ももかはSNSですずかにそのまんま、送った。
夕食はいつものうすーい味であり、俺のあまり好きでない煮魚だ。
『私は好きだよ』
遠慮せず、楽しんでくれ。俺はスコーンを楽しみに待ってる。
『あれは私の』
自動的に俺のだ。
ももかの美味しいと思う気持ち、俺の苦手にする気持ちが謎のミックスの状態で夕食を食べていると、伯父さんがやってきた。
『ごめん、遅くなった。もう食べてたか』
「うん、パパ、それ何?」
「コウイチの家から取ってきたキーボードだよ。ついでに音楽関係の本も、適当に持ってきた」
「パパナイス!」
ついでにミクのフィギュアも持ってきてくれたら完璧なんだけど。
『コウイチきもい』
使い方教えてやんないぞ。
『コウイチ最高』
現金やな。
伯父さんは元気だった。ももかが何かをやりたそうにしているのが、親として嬉しいのだろう。俺も嬉しい。
「ママは?」
「残業だってさ、パパより働いてるかもね」
「私もママみたいになれるかな」
「おう、なれるよ」
俺もなれると思う。
「パパ、今日ね、この部屋から私三回も出たんだよ」
「へぇ」
「午前MRI、あと売店行って、夕方カフェも行った」
「そうかそうか」
「そんなに歩き回ったのに、お昼寝してないんだ」
「元気になってきたんだったら、パパは言うこと無いよ。ママにも言っとく」
「うん」
伯父さんはしばらく会話して、帰って行った。
一人になると、個室の病室はとても寂しい。一人暮らしの俺でも寂しいのだから、ももかはどんなにさびしいだろう。
『寂しくなんて無いよ』
そうか。
『だって今、二人だもん』
そうだな。
スマホが光った。すずかである。日曜に来るそうだ。
日曜午後、すずかは病室にやってきた。手にダウンを持ち、セーターにフレアパンツとなかなかにおしゃれである。制服姿しか高校生のすずかをみたことがなかったので、ちょっと衝撃をうけた。
『コウイチ、エロい』
いやいや、美しいものをみたらいかんかね?
『エロ禁止』
エロ要素なくない?
「ももか、元気だった?」
「うん、元気。最近、病院の中、歩きまわってる」
「ちょっと前だと、考えられなかったね」
「ホント、そう」
「こないだ検査したらね、画像になんにも写ってなかったんだって。おかげで再検査」
「なにそれ?」
そこで会話が停まってしまった。すずかは、なにか考えることがあるのだろう。
しばらくして、すずかが口を開いた。
「あのね、とてもいいにくいんだけどね、コウイチ先生のおかげだと思う」
「へ?」
「コウイチ先生、神社で発見されたじゃん。ももかのこと、お祈りしてたんだと思う」
「……」
「あの日ね、昼間病院で私コウイチ先生とあって、そのあとカフェ行ったんだ。先生奢ってくれたんだけど、財布お金いっぱいあったよ」
「……」
「発見されたとき、お財布空だったっていうじゃん、コウイチ先生、全部お賽銭にして、お祈りしてたんだと思う」
ももかは声を出せなかった。出せないが、目から涙が溢れた。俺の涙でもある。すずかは、俺を理解してくれている。
しばらく、二人というか三人で泣いた。
「すずか、コウイチは死んじゃったけど、私の中で生きてる」
この人、何言い出すの?
「うん」
すずかは、わかっているんだろうか?
「コウイチはね、私のために命がけで祈ってくれた。だから私はコウイチの分まで、幸せになる」
「うん」
「だからさ、すずか、もうコウイチのために悲しまないで」
「うん」
またしばらく泣いてしまった。
泣くだけ泣くと、意外に気分は落ち着くものである。
「すずか、今学校で何勉強してるの」
「三角比とかいって、わけわかんない」
俺の得意分野ではないか。
「すずか、家から遠くて悪いんだけどさ、ここで勉強しない?」
「いいけど、なんで?」
「わたし、かならず学校にもどる。だから、勉強遅れたくない」
「わかった。来週、勉強道具持ってくる」
「コウイチ理系じゃん、幽霊なって応援してくれてるよ」
幽霊、がんばる。
第8話
数学のお勉強
翌日月曜日、ももかは朝食後に入院時に持ってきていた数学の教科書を取り出した。
さっそくやるか。どこやるんだ?
「すずかの言ってた三角比」
おお、がんばれよ。
「わかんないとこ、教えてね」
まかせろ。
ももかが教科書の三角比のページを開いた。ざっと目を通すと、かなり丁寧に解説されている。良い教科書だ。
『良い教科書なの?』
ああ、これなら独学でも結構できる。さすがトップメーカーの教科書だ。
『どうすればいいの?』
読んで、実際に手を動かせば、自分で8割はわかるよ。
『わかった』
ももかは早速読み始め、例題1、類題1とすすんだ。
『あってる?』
うん、あってる。
例題2、類題2
『あってる?』
うん、あってる。
例題3、類題3
『あってる?』
あ、(3)ちがう。
やりなおして、続けて例題4、類題4
『あってる?』
うん、あってる。簡単だろ。
『簡単だね、すずか、どこが難しんだろ?』
もっと先のほうじゃないか。
『じゃ、がんばんないと』
無理すんなよ。
『脳内家庭教師がいるから大丈夫』
なんだそれ。
例題5のところで公式が出てきた。ももかが早速公式を使って問題を解く。
ももか、あってるんだけど、この公式、どういう意味だか説明できるか?
『公式の意味? 覚えればいいんじゃないの?』
だめだ、覚えただけの公式は、絶対忘れる。
『なるほど』
90度ひくシータの公式はな、直角三角形で……
しばらく教えていたら、ももかは納得してくれた。
『意味が分かれば、公式忘れても大丈夫だね』
そうだ。あと、図は面倒でもいちいち自分で書いたほうがいいぞ。
『了解』
ももかは、どんどん勉強していった。
『あ、トイレ』
最近の俺は、こういうときは虚無になることを覚えた。俺が虚無になれば、ももかは恥ずかしがらなくて済む。
『ねぇ、コウイチ、コウイチ!」
あ、ごめん、虚無になってた。
『もう、十二時だよ、私、二時間以上も数学勉強しちゃった』
つかれたか?
『ううん、なんだか楽しかった』
理系でもいけるんじゃないか?
『コウイチのおかげ。ありがと』
第9話
二人のクリスマス
最近は検査がない限り、午前中は勉強している。ももかは数学ばかりやりたがるが、英語や国語、さらには歴史など、バランスよく学習するよう、脳内で指導している。
午後は天気にもよるが、まず散歩。いっとき寝たきりだったももかにとっては、結構な運動だ。まもなくクリスマスの今日は、残念ながら小雨模様だ。
さすがに今日は外はやめとこうよ。
『外、出たかったな』
なんでだ?
『一階のカフェ、クリスマスの飾りつけじゃん。少し暗いから、外から見たらキレイじゃない?』
じゃ、出るか?
『いいの?』
地面が濡れていると、光が反射して、きっときれいだよ。
『ダウン着て、ブーツ履けばいい?』
それと傘な。スマホも持て。
『緊急事態用?』
写真撮ろう。
病室を出てエレベーターへ向かうと、顔見知りの看護師、土佐さんに出くわした。
「ももかちゃん、脱走?」
土佐さんは、いつもやさしい。
「ううん、ちょっとだけ外出て、イルミネーション写真とりたい」
土佐さんはももかの格好を上から下まで見て、
「いいけど、ちょっとだけだよ」
「うん、わかってる」
許可貰えてよかった。
1階ロビーのカフェ横を敢えて通り過ぎ、正面玄関から外に出る。この病院の敷地は大きく、玄関前はよく散歩にりようしているが、こんなに重苦しい天気は初めてだ。傘に雨音が響く。
『寒いね』
ああ、でもこんなときこそ、イルミネーションきれいなんじゃないか?
ももかは振り返ってカフェの方を見た。
すべてが暗いグレーの景色の中、カフェの一角だけが華やかな色に染まっていた。予想通り、濡れた地面に映る光も美しい。
ももかはさっそく、スマホでその写真を撮る。
ももか、横位置でも撮れ。
『え?』
横位置なら、パソコンの壁紙にできるぞ。
『わかった』
何枚か撮って、病室へ帰る。
ドリンク、買わなくていいか? あったかいのがいいな。
『そうだね、クリスマス限定の、今日はホットにしよう』
カフェの列に並ぶ。今日も視界の中心はスコーンである。
ももか、スコーン好きだな。
『悪い?』
いや、俺も好きだ。
『混んでるけど、テイクアウトのほうがいいかな?』
だろうな。
まだまだ列は進まない。俺はカフェ内に、クリスマスカードが売られているのを見つけた。よく見ると、カードを開くとクリスマスツリーが出てくるようになっている。
あれ、買おうぜ。
『クリスマスカード、誰に送るの?』
ももかにだよ。あれを病室のツリーにしようぜ。
『コウイチ、ロマンチストだね』
うるさい。
病室に帰り、スコーンを食べながらドリンクを飲む。口の中で混ざると、それもまたうまい。
ちょっと飲んで、ももかはパソコンを開いた。
おいおい、休憩いらんのか?
『はやく、パソコンの壁紙にしたい』
俺は、壁紙の設定方法を教える。ももかが満足しているのが伝わる。
つづけてももかは、さきほど買ったばかりのクリスマスカードを出し、パソコンの横に置いた。
テーブルの上には、イルミネーションが壁紙として映るパソコン、クリスマスドリンク、スコーン、クリスマスカードのツリーが並ぶ。
なんか、豪華なクリスマスになったな。
『ウン』
さらにももかはペンを出し、なんとクリスマスカードの端に、コウイチよりと書いた。
おい、何書くんだよ。
『だって、これコウイチがくれたんじゃん』
ま、そうだが金は出してないぞ。
『いいのいいの、私、これでいい』
伯父さん、伯母さんになんていわれるかわからんぞ。
『だいじょうぶだいじょうぶ』
とにかくももかは、この状況に満足しているらしい。そしてなんとなく、まぶたが重くなってきた。
第10話 クリスマス・イブ
気がつくと、パソコンの画面は暗くなっていた。手を伸ばし、スリープを解除する。
伯父さんにこないだ持ってきてもらった鍵盤とヘッドホンをパソコンに繋ぎ、クミのアプリを立ち上げる。
『きょうはクリスマスソング、歌わせたい』
いいな。
一通りの手順は教えてあるので、ももかは、ジングルベル、きよしこの夜といった定番ソングをどんどん入れていく。
ももか、おまえ打ち込み速いな。
『そう?』
やっぱピアノやってるやつは、ちがうわ。
『えへへへへ』
ももかのご機嫌は、俺にも伝染る。
『ねえ、コウイチ、伴奏付けたい』
おう、それはだな……
しばらく色々教えたが、俺にだってわからないことはある。
ももか、伯父さん、DTMの本持ってきてたよな。
『うん』
ももかは『初聲クミ入門』なる本を取り出し、必要なところを探した。
おい、時間ある時でいいから、最初っから読んでみたほうがいいぞ。
『そうなの?』
大抵この手の本は、最初から読みながら実際にアプリを使っていくと、基本的なことは一通りできるようになるんだぞ。
『もしかして、数学の教科書と同じ?』
同じだな。
『今すぐ、そうしたほうがいい?』
いや、今それしたら、クリスマス終わる。
その日は消灯までクミをやっていて、看護師の土佐さんにしかられた。
24日がやってきた。クリスマスイブである。クリスマスイブではあるものの、病院はほぼ平常運転である。
ももかも午前は勉強、午後は散歩に音楽と、いつもどおりの一日だ。
夕刻、伯父さん・伯母さんがそれぞれ大きな箱を持って、やって来た。
『箱の中身は想像つくけど、言わないほうがいいよね』
そうそう、あれで隠しているつもりだからな。
伯父さん・伯母さんはそれぞれ持ってきた荷物を、部屋の端の方、ももかの視線が行きにくい方ににおいている。
『バレバレだよね』
言うなよ。親心もだいじにしろよ。
『わかってる』
夕食後、伯父さんは箱の一つを持ってきた。開けてみればクリスマスケーキである。
「うわーい」
ももかが声を上げて喜んだ。
俺にはわかる。親の手前、喜んで見せているのではない。高1の女の子が一人入院生活をしてきたのだ。嬉しくないはずがない。
伯母さんがケーキを四等分し、紙皿に盛り付ける。伯父さんは病室備え付けの電気ポットで紅茶を淹れている。
幸せな時間だ。
ももか、ありがとう。
『え、なんで』
独身のおっさんは、こういうのに弱いんだよ。
『うち来ればよかったのに』
冬期講習だ。
『塾って、クリスマス会やってなかったっけ』
あれは生徒を冬期講習にこさせるためのイベントだ。やってる側は楽しくないぞ。
『コウイチ楽しそうだったけど』
楽しくないわけじゃないけどさ、基本は営業スマイルだよ。
『大人ってこわいね』
そうか、そんなものだぞ。
「ももか、なに真剣な顔して考えてるの?」
伯母さんが、聞いてきた。
「う、うん、幸せだなって」
ももかだって、うまいこと言ってるじゃないか。
『そうだね』
人のために笑顔になるって、悪いことじゃないだろ。
『そうだね』
第11話 先生のお話
翌朝目を覚まし、ベッドサイドの包を開く。昨晩、ももかの両親(俺の伯父さん・伯母さん)が置いていったものだ。一応クリスマスプレゼントなので、25日朝まで開けないよう、言われていたのだ。
『わぁ、クミのぬいぐるみだ』
おお、けっこうでかいな。
伯父さん・伯母さんは、最近ももかがDTMを始めたのを知って、買ってくれたのだろう。
よかったな。
『うん、うれしい』
朝食後しばらくして、藤沢先生が病室にやってきた。
「ももかちゃん、おはよ」
「おはよう、先生」
「近いうちに、お父さん、お母さん、病院にこないかな?」
ももかがドキッとなるのが伝わる。医師が保護者の予定を聞くのだ。なにか重大な話に違いない。
「両親は、昨日来たばっかりです」
「なるべく早いほうがいいんだけどな」
「うん、連絡してみる」
ももかはスマホを取り出し、SNSで連絡する。手が震えて何度も入力ミスをしてしまう。
藤沢先生はそんなももかを見て、微笑んで言った。
「ももかちゃん、悪い話じゃないのよ。こないだもう一度検査したでしょ。病気、全部なくなってたのよ」
「え」
「だからね、一旦退院したほうがいいと、私は思うの。でも、ご両親が慎重にしたいんだったら、病院としてはそれを尊重したいんだ」
「よかった」
ももかの目から涙がこぼれる。ももかはもう高一。自分の病気のことについて無知であるわけがない。しかしなるべくそれを考えないようにして、明るく日々を送っていたのだろう。
藤沢先生と話している間にも、伯父さんからSNSが帰ってきた。今日の昼、会社を抜け出して来ると言う。伯父さんの文面をみていると、伯母さんからも同様の連絡が来た。
ももか、伯父さん・伯母さんから大事にされてるな。
『うん』
「じゃ、またあとでね。ご両親がいらしたら、ナースコールして。ナースにはお願いしとくから」
「わかりました」
藤沢先生は足取りも軽く、病室を出ていった。
昼食を食べていたら、まず伯母さんがやってきた。
「先生、なんだって」
病室に入るなり、聞いてきた。
「うん、病気、なおってるみたい。退院したほうがいいって」
「ももか、よかった」
伯母さんがももかをだきしめる。ふわっとあたたかいものに包まれ、俺はとまどってしまった。
『コウイチ、エッチ』
エッチじゃない、こんなの二十年は経験してないぞ。
『そうなの、彼女とかいなかったの』
うるさい。
ももかはそんなふうにふざけた思考であっても、それは照れ隠しだろう。何故ならももかの目からは涙が溢れ続けている。
「おい、どうした」
伯父さんの声だ。心配しているのか、声が鋭い。
「パパ、私退院できるかもって。なおってるって」
伯父さんはへたへたと丸椅子に座り込んでしまった。
ナースコールを押すまでもなく、藤沢先生がやってきた。
「ここでお話しますか? 談話室のほうがいいですかね」
ももか、談話室の方がいい。
『そうなの?』
そのほうが、先生も細かいところまで説明しやすいと思う。
「先生、談話室がいいです」
「ももかちゃん、ちょっと歩くけどいい?」
「最近、散歩するようにしてますから大丈夫だと思います」
「じゃ、いきましょう」
談話室は大きなテーブルがあり、その周りに事務椅子が並べられている。
藤沢先生は手で着席するよう促し、全員が座ったところでちょっと雰囲気がかわった。
先生が居住まいを正したので、ももかの背筋ものびる。ただし先生は笑顔である。
「入院時は、主に頭痛を訴えていましたので、頭部のMRIをとりました。それがこちらです」
『私、初めて見た』
おそらく未成年には、見せないのだろうな。
「こちらですが、脳の奥の方に腫瘍らしき影が見えます。頭痛の原因は、これだと考えられます。外科的な治療は困難な位置ですので、点滴から薬物を投与して、増悪を防ぐ方向の治療を開始しました」
「さらにこちらが、入院一ヶ月後のMRIです。残念ながら、この影が大きくなっています。したがって抗がん剤を変更しました。このころの体調不良は、以前お話しましたように、この抗がん剤が原因だと考えられます」
「そしてこちらが、先日新たに撮ったMRIです。腫瘍は全く見られなくなりました。また、腫瘍マーカーも、腫瘍の存在を示さなくなりました」
ここで伯父さんが口を挟んだ。
「先生、切り替えた抗がん剤が効いたということでしょうか?」
「そうかもしれませんが、経験的にここまで劇的に効いたことはないです」
「じゃあ、なおってないかもしれないと?」
「一見治ったように見えても、再発する可能性はあります。ですから、定期的な検査は必要です」
「退院は?」
「そこをご相談したいんです。少なくとも現時点、病気を示すデータは一切ありません。今、治療する内容も無いんです。ですから治療の面からは入院を続ける理由はありません。そうは言っても、データの見落とし、腫瘍の急激な増悪、それよりも心配なのは体力の低下です。季節柄、インフルエンザもありますし」
「はい」
「そういうわけですので、主治医の私としては、治療としては入院を続ける理由はない、しかし念のためもうしばらく入院してもいい、選んで頂きたいということです」
「よくわかりました」
伯父さんは、難しい顔をしている。伯母さんもそうだ。
『コウイチ、どうしたらいいかな』
ももかの気持ちでいいと思うよ。
『気持ち?』
ももかがどうしたいかっていうことだよ。
「先生、私、おうちに帰りたい」
「わかった」
藤沢先生は、うれしそうだった。
「先生、では退院の方向で」
伯父さんは決断したらしい。伯母さんもうなずいている。
そのあと、事務的な話になり、翌日退院と決まった。
第12話 クリスマス・プレゼント
家族みんなで病室に帰る。廊下で看護師の土佐さんとすれ違ったが、笑顔だった。
『コウイチ、土佐さん好み?』
ももか、ふきげんだな。
『エッチな目で見ないでよね』
ちがうよ、あの土佐さんの笑顔、いつもとちがうだろ?
『そうかも』
きっとももかの退院を知ってての笑顔だよ。
『そう?』
立場上、守秘義務ってのがあるだろ?
『そうか』
病室にもどると、伯母さんが言い出した。
「ももか、退院は、先生からのクリスマス・プレゼントだね」
「うん、そう思う」
「そうと決まると、片付けないとな」
伯父さんは、さっそく片付けモードで病室を見回す。
「大したものはないけど、コウイチのパソコンとかキーボードとか、いれるカバンをおねがい」
「明日の朝でいいかな」
「結局、朝、パッパといれるしかないわね」
なんとなく全員、今夜のうちの片付けを諦めてしまった。
「メリークリスマス!」
日が暮れる頃、すずかが病室にやってきた。
「メリークリスマス!」
ももかも元気に返す。
「ももか、これ」
すずかはキラキラと光る袋がリボンでまとめられたものを渡してきた。
「あ、ありがとう。でも、私なにも用意してない」
「はは、たいしたものじゃないよ。ま、来年倍にして返して」
「ん、わかった。開けていい?」
「うん」
わくわくしながらリボンを解くと、毛糸の手袋が出てきた。薄い茶色に赤で雪模様である。
「ありがとう、ちょうど手袋欲しかった!」
「やっぱり? ももか体力づくりに散歩してたでしょ。もう手が冷たいかなってね」
「うん」
「退院するんでしょ。退院しても使ってね」
「うん、散歩して体力つける」
早速つけてみる。とてもあたたかい。
「あったかい。手、汗かきそう」
ももか、これ一応登山用だ。
『ほんとに?』
ああ、完全な冬山なら無理だが、冬の低山なら大丈夫だ。メーカーも一流だよ。
『もしかしてすずか、結構探したのかな?』
多分。
「すずか、ほんとにありがとう」
ももかは頬ずりしながら礼を言った。
それに対しすずかは言う。
「それよりさ、勉強会するよね?」
「勉強会?」
「そう、数学」
「ああ、数学勉強しなきゃね」
「こんどさ、ももかの家行くよ。それで勉強しよ」
「うん、体力ついたら、すずかの家も行く」
うん、それがいい。
翌日、予定通り退院した。荷物はやっぱり多く、タクシーのトランクを開けてもらった。
『なんかちょっと、離れがたいな』
そんなものなのか。
『そんなものなのです』
なぜ丁寧語?
タクシーから自宅までの道道、風景を見るにつれ、家が近づくのがわかる。
着いた。
『ちょっと中入るの怖いな』
だいじょうぶだよ。
ゆっくりとももかは足を進める。
ドアは伯母さんが開けてくれた。
中に入る。
『なんにもかわってない。良かった』
そうだよ。ももかの家だよ。
第13話 お勉強会
家に帰って3日後、すずかがやってきた。
「すずか、いらっしゃい。玄関まで行けなくてごめんね」
「ううん、大丈夫。ていうか、もし来てもらったら、ももかゆーくりでしょどうせ。時間かかっちゃうよ」
「ひどくなーい?」
「「あはははは」」
ももかの服装は、昨日まではパジャマであったが、流石に今日は着替えた。それでもいつでも横になれるよう、黒の上下トレーナーである。白のサイドラインが太めで、今風である。
対してすずかは午前中学校の冬期講習だったそうで、制服である。紺のブレザー、赤とグレーのチェックのスカート、ワイシャツにネクタイである。
『すずか、かわいいね』
うん、今日はポニーテールなのな。
『学校だと良くポニテだよ』
タレ目がツリ目になるのな。
『そういうこと言わない』
言ってない。思っただけ。でもかわいい。
『コウイチ、ツインテが好きだと思ってた』
似合っていればなんでもいいんじゃない?
『それもそうだけど』
「ももか、なに黙っちゃって」
「すずか、かわいいなぁって」
ごまかしてくれてありがとう。
『いや、厳然たる事実』
事実だな。破壊力あるな。
「そんなことよりさ、今日、これやったんだよ」
すずかはそう言って、数学のプリントを出した。ちょっと前に、ももかが勉強したところだ。
「単位円のとこね」
「ももか、よく知ってるね」
「こないだやった」
「このさ、180度から引く公式で、プラスマイナスわかんなくなっちゃうんだよね」
「それはね」
ももかはそう言って、机においてある紙に半円を描き、公式を説明する。
「ももか、私よりわかってるじゃん」
「そう? 教科書に書いてあるよ」
「先生、教科書つかわないんだよね」
俺の嫌いなやつだ。
ももかは教科書を取り出して、今自分がした説明が書いてある部分を示す。
「ほんとだ。教科書通りだ」
「じゃ、練習問題解いてみよ」
ももかはそう言って、プリントの練習問題をどんどん解いていく。
すずかも負けじとどんどん解いていく。
二人で解き終わったところで、答えを見比べる。
うん、二人共全部あってる。
『あってるって、どう伝えたらいいかな』
同じ答えなんだから、大丈夫だろうってことでいいんじゃない?
「同じ答えがでてるんだから、大丈夫じゃない?」
「そうか、でも、二人共おなじ勘違いで間違えるってこともありうるんじゃない?」
すずか、慎重だな。
『むかしから慎重だよね。そこがすずかのいいところのひとつ』
同感だ。
『どうしよう』
このプリントは基礎レベルだから、そんなひっかけは無い、とでもしとけば?
「このプリントさ、基礎レベルじゃん。そんなひっかけは無いよ、多分」
「なるほどね」
「ど~お、すすんでる~?」
ここで伯母さんが紅茶にケーキを持ってきた。
「おばさん、ありがとうございます」
「じゃまじゃなかった?」
「いいえ、全然。ていうか、ケーキを邪魔にする女子って、いるんですかね」
「私も含めて、いないと思うよ」
伯母さんはそう言って、出ていった。
ももかもすずかも、ケーキをすぐ食べそうになっているので、俺は待ったをかける。
おい、これめちゃくちゃうまいやつだ。落ち着いて食え。もったいない。
「ねぇ、すずか、これめちゃくちゃおいしそうじゃん。落ち着いて食べよう」
「そうだね、なんか高そうだし。ゆっくりたべよう」
まず呼吸を落ち着けろ。一口目の香りがポイントだ。
「「では、いただきます」」
まずはケーキにフォークを入れ、食べやすい大きさに切る。
外見は暗い茶色のモンブランなのだが、断面は白い生クリームがつまっている。いわゆるモンブランの茶色いクリームは表層だけだ。すずかが目を見張っている。
つづけて口に含む。
喉の奥から鼻へと、経験の無いよい香りが突き抜ける。
見開かれたすずかの目が、さらに開いた。
「なにこれ、こんなの食べたこと無い」
すずかはそう言って、おどろく。ももかも
「生きててよかった」
などと言っている。
パリのルーブル美術館の裏にある店のだな。オリジナルのモンブランだ。
『コウイチ、よく知ってるね』
家族旅行で行ったからな。あっちで食べたときはもっとうまかった。多分、気候のちがいせいだろう。
『なにそれ、ずるい』
将来、旅行して自分で食えよ。
そんな脳内会話をしていると、ケーキの台紙からスマホで検索していたすずかが同じ結論に達した。
そらな。
ももかの中でドヤるが、さすがにドヤ顔ができない。転生して初めて悔しく感じた。
第14話 元旦
年内にもう一度すずかは勉強しに来てくれた。そのほかは、勉強して、少し散歩して、昼寝して、音楽やってと、入院中と変わらない。規則正しい生活をすることが大事だからだ。
伯母さんの食事はやはり美味しく、病院より食が進む。よいことである。
『こんなに食べて、太らないかな』
大丈夫だろ。成長期だし。
『食っちゃ寝じゃん』
昼寝にしろ、夜にしろ、寝付きはいい。あの運動で体に充分負荷がかかっているんだよ。それで食事制限したら、肉体が衰えるぞ。
『体重増えるんじゃない?』
体力はある程度は筋肉量だ。筋肉が増えれば体重は増える。問題ない。
『……』
いいから食え!
そんなこんなで年が明けた。
「初詣行きたい」
ももかは雑煮を食べながら、伯父さんに言った。
伯父さんは聞いてくる。
「コウイチが最後に行った神社」
あんなとこでいいのか?
『あそこがいい』
もちろん伯父さんも、
「あんなとこでいいのか?」
と聞いてくる。
「あそこがいい」
ももかの答えも同じである。
納得していない伯父さん・伯母さんの顔を見てももかは、
「あの神社でね、コウイチは私のためにお祈りしてくれたんだと思う。証拠はないけど、命をかけてしてくれたんだと思う。神様はそれに答えてくれた。だから私はお礼を言いにいかなきゃいけない」
「だけど、コウイチさん、亡くなったのよ」
伯母さんが口を挟んだ。ももかが反論する。
「考えようによれば、コウイチは、神社で寒い中無茶なお祈りして、勝手に死んで、神社に迷惑かけた。だけどコウイチの願いは叶えてくれた。私の病気は治った。やっぱりお礼は言いたい」
伯父さんは少し考えていたが、やがて口を開いた。
「ももか、制服を着なさい。今日行くぞ。僕たちもしっかりとした服装で行こう」
あとの言葉は、伯母さんに向けてだった。
制服を着るのも久しぶりで、ちょっと時間がかかってしまった。リビングにもどると伯父さんはダークスーツに、濃い紺色のネクタイ。伯母さんも結婚式にもいけるようなスーツスタイルだが、アクセサリーは小さな真珠のブローチだけだ。普通の人からすればお祝いの日なので、こんな目的で詣でるのは良くないかもしれない。でも、ももかの気持ちを聞いた伯父さんは、一刻も早くお礼にお参りしたいのだろう。
「ももか、寒いから上にコート着なさい。カイロとすずかちゃんにいただいた手袋もしなさい」
伯母さんは行くこと自体に反対ではないものの、ももかの体調を気遣っている。
ちょっと電車に乗って、俺の家の方に向かう。席が一つだけ空いていて、伯父さんはすっと、ももかを座らせた。
俺の家、どうなったのかな?
「パパ、コウイチの家どうなったの」
「まだ整理中らしい。2月いっぱいで立ち退きなので、それまでに遺品の整理をするそうだよ」
「パパ、私コウイチの家に行ってみたい」
「また今度な。なるべく近いうちがいいだろう」
電車が俺の家最寄り駅についた。階段をおり、改札を出たら左。商店街を抜ける。
第15話 初詣
商店街を抜けたら、このまま真っ直ぐ進むと神社の看板のある交差点まで道はわかりやすい。しかし実際はここで右に折れ、住宅街を通ったほうが近い。わかりにくいけど。
もちろん伯父さんはわかりやすいルートを選ぼうとした。
「パパ、多分、こっち行ったほうが近いよ」
「ももか、よく知ってるな」
「う、うん」
俺の思考を呼んだももかは、近道したいらしい。体力ないし。
「ももかがいいなら、いいんじゃない?」
伯母さんは優しい。
『怖いときは怖いんだよ』
そうなのか。おとなしくしてよう。
『ま、私次第だけどね』
かんべんしてくれよ。つぎ左だぞ。
「あ、ここ左」
「ほいほい」
伯父さんは軽くついてくる。
次は右だ。すこしで着く。
「ここ右」
神社が見えた。
地元密着型神社なので、人影は少ない。テントが出ていて、甘酒をふるまっている。
「まずはお参りしないとね」
甘酒に目を奪われるももかと伯父さんを引っ張るように、伯母さんが注意してくる。ま、俺も体を温めたくはある。
お賽銭箱の前はだれも並んでいないので、すぐにお参りできる。ももかは財布を取り出し、もらったばかりのお年玉の一万円を、いきなり賽銭箱に入れた。伯父さん、伯母さんは目を見張って桃家を見ていたが、二人も一万円ずつ入れた。
礼をして、お祈りする。
神様ありがとうございました。ももかは元気になりました。
『神様ありがとうございます。私、元気になりました。コウイチとも一緒にいます!』
ももか、あんなにお賽銭、いいのか。
『だって、コウイチも持ってたお金全部入れたんでしょ。気持ちだけはまねした」
そうか。ま、俺もお礼できてよかった。
『お賽銭出してないけどね』
それは仕方ないだろう。
「甘酒、いかがですかぁ~」
地元の人だろう、甘酒を配布している。三人でもらって、早速いただく。
『火傷しそうだね』
ああ、あついな。でもあたたまるな。
ももかの視線は、自然と神社の建物にむかう。屋根のなだらかな曲線、突き出た部材に目が行く。
ももか、神社の建物に興味があるのか?
『興味があるっていうか、神様、あそこに住んでるんだよね』
多分。
『どんな住心地なのかな?』
中はシンプルだぞ。
『だろうね』
俺、神社の建築がでてる本持ってるぞ。
『見たい』
正月明けにでも、オレの部屋行かせてもらおう。
『うん』
あ、俺、行きたくないかも。
『なんで』
フィギュア見たら、未練が出そう。
『そっちか』
「ももか、楽しそうだな」
伯父さんが聞いてきた。
「うん、気になってたんだ。この神社に早く来たいなって」
「パパは、ももかが嫌がるかと思ってたよ」
「コウイチが頼った神社だよ。嫌なわけ無いじゃん」
「そうか」
ベンチがあいたので、座らせてもらう。疲れてきてはいるので助かる。
「ももか、ちょっとパパと待ってて。私、あれ、買ってくるわ」
伯母さんが指差す先に、御札が売られていた。たしかに買わねばなるまい。
「おい、それは家長である俺が行こう」
「それもそうね、お願い」
ちょっとだけ、伯父さんがかっこよく見えた。
第16話 脳内家庭教師
正月が明け、すずかがやってきた。
「あけましておめでとう」
玄関でお迎えすることができた。三賀日も体力づくりのための散歩は欠かさなかったから。
「おめでとー」
すずかが抱きついてきた。
ももかの喜びが、俺にもビンビンに伝わってくるのだが、JKに抱きつかれるのは初めてだ。いくら俺の肉体でないとはいえ、戸惑いを禁じえない。
『エッチ』
慣れないだけだ。
『慣れちゃだめ』
どうすりゃいいんだ。
『知らない』
それでもももかは喜びのまま、すずかと抱き合っていた。
二階のももかの部屋へ行く。
「ももか、飲み物後で持っていくね」
伯母さんが後ろから声をかけてきた。
「そんなの自分でやるのにさ、お母さん過保護なんだ」
ももかは照れくさそうに、すずかに言い訳する。
「退院したばっかりだからね。ありがたく思っとけば」
「うん、思ってる」
ももかの部屋まで来て、すずかはダウンを脱ぐ。今日のすずかは、髪はおろしてストレート、パンダがゴロゴロしているグレーのセーターに、黒のショートパンツ、黒のストッキングである。ゴロゴロしているパンダは一匹ずつちがう姿勢で、楽しい柄だ。
『コウイチ、毎回すずかの服装、しっかり見てるよね』
ああ、俺の数少ない楽しみだ。
『私じゃ、楽しめないんだ』
パジャマか、スェットばっかりじゃん。
『病気だったから、仕方ないでしょ』
これからに期待してるよ。
『期待して』
でも、サプライズは期待できないんだよな。
『へ?』
だって、これから新しいの買うとき、俺も自動的に見てるからな。
『コウイチの好みに合わせてあげるよ』
俺のセンス、多分ヤバいぞ。
『知ってる』
「ももか、だまっちゃって、どうしたの」
「ごめん、すずかに見とれてた」
嘘ではないな。
「勉強始めよ」
「うん」
前回の勉強会で数学はかなりすすんだので、今日は英語。冬休みの宿題の長文だ。
「3行めのこの文がよくわかんないんだよね」
とすずかが言うので、ももかはその文をとりあえず音読してみた。その後で、
「えーっとね、こういう長い文は、まず動詞を探すんだよ」
と言った。それを聞いたすずかは、
「動詞はこれとこれかな?」
と言う。
「そうだね。一つの文で動詞が二つってことはないから、接続詞か関係詞があるはずだよ」
とももかが返す。
俺は内心、ももかの英語の理解度に感心していた。
『やるでしょ』
おう、意外と優秀だな。
『意外と、はいらなくない?』
意外だろ。
その間にすずかは読解をすすめ、大体読めたようだった。
「ねぇ、ももか、入院してたのに私より勉強進んでない?」
「そう?」
「そうだよ、今日も的確にポイント抑えてたし」
「ま、脳内家庭教師がいるからね」
おいおい。
第17話 学校へ
「脳内家庭教師って、なにそれ」
「冗談よ、冗談。病院でも勉強してたしね」
「ももか、英語もともと得意だもんね」
「まあね」
なんとかごまかせた。
あんまり危ないこと言うなよ。
『だいじょうぶ、だいじょうぶ』
「ももかさ、もう少しで冬休み終わりだけど、学校来れそう?」
「それなんだけどね、まだ少し歩くと疲れちゃって、学校の往復無理だと思う」
「そうなんだ」
すずかはかなりがっかりしている。
「パパはね、自動車で送ってくれるって言ってくれるんだけど、それでも途中で保健室になっちゃうと思う」
二人の会話は途切れてしまった。俺もかけるべき言葉がみつからない。
「ももか、ごめんね。余計なこと言っちゃった」
しばらくして、すずかが口を開いた。
「そんなことないよ」
「私がさびしいだけで、ももかはもっとつらい思いしてたんだもんね。私、プリントとか持ってくるよ」
「ありがと。おねがい」
「まかせて!」
俺は猛烈に感動していた。すずかがももかを励ましてくれる。友達が学校に来ないさびしさをがまんして。きっときっと、ももかの気持ちもよーくよーく考えに考えて、言葉を選んでいるに違いない。
『コウイチきもい』
きもくない、すずか、ええこぉや~!
『それがきもい』
ももかの機嫌が悪いので、ふと思いついたことに話題を変えた。
おい、始業式くらい、行ったらどうだ? 授業なけりゃ、体力いらんだろ。
「私、始業式だけでも行ってみようかな。パパと相談してみる」
「ほんと? 通学付き合うよ」
「うん、ありがとう。多分、行きはパパかママについてきてもらえば大丈夫。帰りはお願いするかもしれない」
「無理しないでね」
「わかった」
そのあと、その日は勉強にならず、学校の噂話で終わった。だれだれが彼氏を作ったっぽいとか、だれだれが髪型を変えたとか、そんな他愛のない話だ。女子の会話に脳内おっさんの俺がついていけるはずもなく、ほぼ虚無の状態である。
そしてすずかは、元気に帰っていった。
夕食時、ももかは伯父さんに頼んでみた。
「パパ、私、始業式行っちゃだめかな?」
「おいおい、大丈夫か? まだ公園まで散歩がやっとだろ?」
「うん、だけど、始業式の日は授業ないし、ほぼ行って帰ってくるだけだから」
「行きは俺が車で連れていけるけど、帰りどうする?」
「それね、すずかが付き添ってくれるって」
「あんまりすずかちゃんに甘えちゃいけないんじゃないか」
「そうなんだけど、甘えないのもいけないとおもうの」
そう聞いて、伯父さんは言葉をつまらせた。
伯母さんが口をはさむ。
「私、迎えに行くわ。場合によっては、すずかちゃんにお手伝いをお願いするっていうのでどう?」
「うん、そうするか。すずかちゃんのうちに、電話するよ」
伯父さんはそう言って、早速電話をかけた。
どうやらももかは始業式だけでも行けそうで、俺も嬉しかった。
第18話 久しぶりの学校
始業式の日、かなり早起きして七時すぎに伯父さんの車で学校に向かう。伯父さんによると、通勤時間帯なので道がどれくらい混むかわからないので、かなり余裕を見ているらしい。1月はじめなので、車内はかなり寒い。助手席に座ったのだが、横を向いて窓に息を吹きかけると白く曇ってしまう。
通りには、足早に歩く人がいる。制服を着た高校生・中学生はほぼいないが、通勤客らしい人が結構いた。
『街って、こんな早くから動き始めるんだね』
しばらく、病院か家かで見てなかったから、新鮮だろ。
『うん、新鮮。何年かしたら私もこうやって通勤するんだね』
その前に大学あるだろ。
『大学かぁ、私どこ行けるのかな』
まだ高一だ、まずはやりたいことを見つけなきゃな。
『うん』
「ももか、寒くないか?」
伯父さんが話しかけてきた。
「うん、車、だんだん温まってきたね」
「ああ、あとな、この混み具合だと、意外と早く着けそうだぞ」
「よかった。パパも遅刻しないですみそう?」
「ああ、多分大丈夫だ」
「遅刻したら、文句言われる?」
「いや、昨日事情を言ってあるから大丈夫。だいたいな、病み上がりの娘に付き添っていて遅刻して、文句言うような会社なら、やめてやる!」
「うん、やめちゃえやめちゃえ!」
伯父さんも、ももかも、楽しそうだ。
学校についた。早く着けたのでまだ通学の生徒がいない。守衛さんが歩いてきた。伯父さんが窓を開ける。
「おはようございます。高一の川口ももかです」
「おはようございます。お話は伺っています。来客用駐車場に駐車してください」
守衛さんはそう言って、学校内の地図と来客用のIDカードを渡してくれた。
「ありがとうございます」
伯父さんはお礼を言って、車を来客用駐車場へと回した。
駐車場に車を停めると、ちょうど来客用玄関から担任の田嶋玲子先生が出てきた。手回しのいいことである。昨日伯母さんが学校に電話していたからだろう。
「ももかちゃん、よかった~。退院おめでとう」
田嶋先生にハグされてしまった。俺は女性にハグされるのは慣れないし、だいたいこのあとももかの機嫌が悪くなるので、ハグは遠慮して欲しい。
『私がうれしいからいいの』
そうですか。
「何回も病院に来ていただきまして、ありがとうございました」
伯父さんはペコペコ頭を下げている。ただ、このあと仕事に行かなければならないので、ここでお別れだ。
「ももか、寒いから早く行きなさい。無理するなよ」
「うん、パパも気をつけてね」
とりあえず職員室に通された。応接セットに座らせられる。田嶋先生は、
「ちょっと待っててね」
と言って、パタパタと出ていった。
色々な先生が、
「ももかちゃん、久しぶり」
とか、
「川口さん、退院よかったね」
とか言ってくれる。どうやらももかは、学校では大事にされているらしい。
しばらくしたら、田嶋先生が戻ってきた。上履きをもっている。
「下駄箱からとってきた。あと、教室の暖房も入れといたから、すぐに温まると思う」
と言って、教室まで一緒に行ってくれた。
教室はまだ無人だった。
「みんな、もうすぐ来ると思うよ。みんな喜ぶと思うな」
田嶋先生はそう言って、職員室に戻って行った。
ももかは席に座り、久しぶりの机をなでている。学校に戻ってきたことがしみじみと嬉しいようだ。しかしそれにしても、尻が冷たい。
『尻じゃない、お尻』
ああ、ごめん。
『田嶋先生、美人でしょ』
うん、美人だな。ももかも何年かしたら、あんな感じになるのかな?
『なりたいな』
俺としては、ももかの機嫌が悪くなるのをうまく回避できて満足である。
そのうちクラスメートたちがやって来た。
最初に来た子は、
「ももかー!」
とだけ叫んで、ハグしながら泣いていた。もちろんももかも泣いていた。
つぎつぎとやってくる。全員ももかに抱きついてくる。ほとんどのクラスメートは泣いてしまう。ももかの涙も止まらない。
すずかもやってきた。すずかは事情が全てわかっているからか、ハグしてこなかった。でも、ずっとももかの横に立って、鼻をぐすぐすさせていた。
俺はJKのハグに麻痺し、ただの挨拶と感じるようになった。
第19話 ももかの決意
その日はホームルームしたあと、大講堂に移動して始業式、また教室に戻って解散だけだった。それだけでもももかの体力は不足していて、始業式の校長先生の話はほとんど耳に入ってこなかった。
帰りの挨拶をして、ぐったりとしてしまう。
すずかが心配そうに寄ってきた。
「ももか、大丈夫? 顔青いよ」
「うん、休めば大丈夫だと思う」
田嶋先生もやってきた。
「ももかちゃん、よくがんばったね。お母さん来るまで、ゆっくり休んでるといいよ」
すずかが言ってくれる。
「先生、私、ももかに付き添ってていいですか?」
「時間大丈夫?」
「私、最初からそのつもりでしたから」
やっぱりすずかは頼りになるな。
『……』
ももかは疲れて思考停止に陥っているようだ。
田嶋先生は、
「ももかちゃん、先生は職員室からちょっと取ってくるものがあるから、ここで待ってて。すずかちゃん、ちょっとお願いね」
と言って出ていった。
他のクラスメートたちは、早速部活に向かう者、ももかを心配して遠巻きに見ている者、いろいろである。その中で、ショートカットで日焼けした子が一人、こちらにやって来た。
「ももか、ジュース買ってきてあげようか? 何がいい?」
「うん、ピーチの」
「了解!」
その子は走って教室を出ていった。
「綾ちゃん、いつも元気だね」
すずかが半ば呆れたように言うと、ももかは、
「うん、あの元気が欲しい」
と言った。
それにしてもさっきの子は、気持ちのいい子だ。
『赤城綾ちゃん、陸上部。走り幅跳びでインターハイ狙ってる』
そうか。
『部活忙しいみたいであんまり接点ないけど、親切なんだ』
あっという間に綾は帰ってきて桃ジュースのパックを机に置いた。
「ももかだけに、桃ジュースってか?」
「ありがとう。お金」
ももかは、やっとお金のことに気づいて、財布を出そうとする。
「いいよ。退院祝いってことで、安いけどね。じゃ、あっしは部活へGO!」
走り去っていった。
おもしれぇ奴だな。
『奴扱いなんだ』
充分だろう。
『充分だね』
ジュースを飲んでいると、田嶋先生が戻ってきた。持ってきたプリントをももかに手渡す。
「明日からだけど、やっぱりお家からネットで授業に参加して」
「わかりました」
「カメラは教室のこの机に置くから、いい感じで授業に参加できると思うよ」
「ありがとうございます」
その後、自宅からの授業参加の打ち合わせをした。
「先生、あの、相談があるんですが」
ももかが急に言いだした。
「あの、来年からのコースなんですけど、私理系に変えられないでしょうか」
「え、ももかちゃん、理系にするの」
「成績から言えば文系だということはわかってます。でも、今回入院して、病院の人たちにいっぱいお世話になって、私もそういう仕事がしたいんです」
「文系でも、できる仕事はあると思うけど」
「医師になれなくても、薬剤師でも、看護師でも、検査技師でもなんでもいいんです。ダメだったらダメでしょうがないですが、一回は挑戦したいんです」
「体力は?」
「それを言われると弱いんですが、浪人してでもチャレンジしたいです」
「お父さん、お母さんは」
「まだ言ってません。でもかならず説得します」
田嶋先生は、そこで考え込んだ。美人な田嶋先生が、眉間にしわを寄せて考えている。
『美人関係なくない?』
ももかも田嶋先生みたいになるんだろ?
『なる』
しばらくして田嶋先生が口を開いた。
「生徒が本気で考えて、挑戦したい、と言っていることは教師として応援したい。ただし、条件がある。やっぱり体のことが心配だから、ご両親の了解が無いとだめ。たぶんももかちゃんが考えているより、受験勉強の体への負担は大きいよ。ご両親のバックアップが必要だと思う」
「はい」
「夢にチャレンジするのはいい、でも死んじゃだめなんだよ」
田嶋先生は、涙声になった。
ももか、先生がどれだけ心配してくれてたかわかるか。
『今、やっとわかった』
でもやるか。
『やる』
「先生」
ももかが田嶋先生に話し始めた。
「先生が、とても心配してくれたのはとてもありがたいです。でも、私、入院中とてもつらかったんです、ただ生きているだけの日々が」
俺も知らない話だ。
「頭痛があるときは、ひどいときは死にたいくらいでした。痛くないときはそのときはそのときで、ただ生きているだけで、パパやママにつらい思いをさせてるだけ。そう思うと死にたくなりました」
「なんとなくですが、危ない病気だということもわかっていました。そんな私に、病院の人たちはいっぱいいっぱい良くしてくれたんです」
「私は多分、治りました。諦めず治療してくれた病院の人たちのおかげです。だから私はお返しがしたいんです。同じ仕事をする仲間になって」
「だから私は死にません。体の調子と相談しながら、時間がかかっても挑戦したいんです。私、間違っているでしょうか?」
すずかは泣いていた。先生も泣いていた。もちろんももかも泣いていた。
俺にできることは、脳内家庭教師としてももかを応援することだけだ。
『コウイチ、ありがとう』
第20話 おうちで学校
伯母さんが迎えに来たのは、三人が泣き止んだあとだった。
『泣いてるところでママが来てたら、ヤバかったね』
そうだな。だけど、伯父さん伯母さんには早く相談しないとだぞ。
『うん』
すずかが家まで付いてきてくれた。伯母さんが上がっていけとすすめたが、すずかは、
「ももかを早く寝かせてあげてください」
と言って帰っていった。ありがたい配慮だが、ちょっと寂しい。
『コウイチ、すずか気に入ってるね』
悪いか?
『ううん』
ももかはやっぱり疲れているのか、俺への文句も力がない。
部屋に入ってすぐに寝込んでしまった。
気がついたら、伯母さんの顔が間近にあった。
「ももか起きたのね。夕ご飯食べれる?」
「うん、食べる」
「こっちで食べる?」
「ううん、下で食べる」
「じゃ、来れるようになったら来て。それまでパパもママも待ってるわ。一緒に食べよ」
「ありがと」
起き上がると制服だった。ももかはそのまま下へ降りようとする。
さすがに着替えたほうがよくないか?
『見ないでよね』
はいはい。
悪態をつく元気はもどってきたようだ。
夕食はロールキャベツだった。キャベツは柔らかく煮てあり、消化によさそうである。酸味が胃にしみる。
「ママ、おいしい」
「よかったわ、今日疲れたでしょう。ももかの好きなロールキャベツにしたの」
「ありがとう。ほんとおいしい」
「で、どうだった?」
「うん、パパ、疲れた。明日からは、ネットで授業に出ることになった」
「そうだろうな、そうなると思ってた」
食卓は明るかったのだが、ももかは言いにくいことを言わなければならない。
「パパ、ママ、私、理系に変えていいかな?」
伯父さんは強烈に驚いたようで、すぐに聞いてきた。
「ももか、なんでだ? 文系だっただろ」
「うん、そうなんだけど、私、医療関係に進みたい」
「勉強大変だぞ」
伯父さんはそう言ったきり黙り込んでしまった。伯母さんも言葉を失っている。猛烈に食卓の雰囲気が悪くなり、せっかくのロールキャベツの味もわからなくなってしまった。
「ごちそうさま、もう寝る」
ももかはそう言って、食卓から立ち、階段を登り、部屋に帰った。
ももか、がんばったな。
『コウイチは評価してくれるんだ、ありがと』
脳内に同居してるんだ、勇気を振り絞ったのはよくわかる。ほんとよくがんばった。
『でも、わかってくれなかったみたい』
あれな、伯父さん、怒鳴りたいくらい怒ってたぞ。
『そうなの?』
俺子供の頃、怒られたことあるからな。あの顔はヤバい。
『でも怒鳴んなかったね』
伯父さんは心配で心配で、起こりたかったんだと思う。でも、ももかの気持ちも考えて我慢してるように見えた。
『そうなんだ』
伯母さんも、そんな感じだ。
ベッドでそんな会話をしていたら、ももかの意識が途切れた。俺も強制シャットダウンとなった。
翌朝は七時に起きた。病気になる前起きていた時間だ。ももかは規則正しい生活を送りたいらしい。
「パパ、ママ、おはよ」
「おう、おはよう。寝てなくて大丈夫なのか」
「うん、まず起きる時間はちゃんとする。無理だったら途中で寝る」
「まず、体力だぞ」
『パパはまだ納得してないね』
だろうな。単純に、ももかが心配なだけだけどな。
『だったら、体力つけて、行動で示すしか無いか』
その通り。
朝食を食べて、体調を確認し、勉強を始める。今日は日本史の教科書を読む。
ホームルームの時間のちょっと前に、パソコンをつけ、ログインする。
パソコンの画面に教室が映るかと思ったら、綾の顔がドアップで映った。
「先生、これでいいのかな?」
などという声が聞こえるが、ももかは大声で笑ってしまった。
「お、笑ってる声がする!」
綾が反応する。田嶋先生は、
「声が聞こえるということは、川口さんがログインしたということね。赤城さん、ありがとう」
と言って、朝のホームルームを始めた。
授業に出る。出るが結構眠い。ももかは頑張って眠気と戦っている。
三時間目は体育なので、さすがにここは寝かせてもらった。
四時間目は元気が出て、しっかり授業を聞けた。
お昼になった。画面にすずかと綾が映る。
「一緒に食べよ」
と言ってくるので、伯母さんにたのんで昼食を部屋に持ってきてもらう。
画面には綾とすずかのお弁当が映り込んでいる。
「綾、相変わらずお弁当大きいね」
ももかが声をかけると、
「これでもお腹すくんだよね~」
と、綾の声が返ってきた。
「これで太らないんだから、うらやましいよね」
すずかの声も聞こえる。
そんな感じで五時間目、六位時間目もがんばった。
ホームルームが終わったところで、画面いっぱいに田嶋先生が映り、手を振ってきた。
「じゃ、またあしたね」
ももかも手を振った。
ももかは疲れ果ててしまい、ベッドにもぐった。
第21話 自宅学習
目が覚めると、外は真っ暗だった。時計を見ると午後六時近い。二時間以上眠ってしまったことになる。
ももかは起き上がってカーテンを閉めると、机に向かった。
勉強するのか。
『うん、パパに認めてもらわないとね』
無理はするなよ。
『無理はしない』
まず、数学を勉強する。入院中にも数学はやっていたから、俺がどうこう言わなくても順調だ。
『数学の復習は、ここまでね。次どうしよう』
ふつうは他の教科の復習だが、数学の予習をするっていう手もあるぞ。
『どうして?』
まずだな、復習中心だと、復習してわかんなかったらアウトだろう。予習しておけば、授業で疑問点はだいたい解決できる。あと、授業でどの内容に集中したらいいかあらかじめわかる。
『なるほど』
あと、ももか女子校だろう。どうしても数学や理科の授業が受験には弱いんだよね。医師を目指すんだったら数Ⅲまでやんなきゃいけないけど、多分学校のカリキュラム通りに勉強してると、入試対策間に合わないと思う。
『じゃ、数学予習する』
ももかの決断は早かった。
「ももかー、起きてる? 夕ごはんにするよ」
しばらく予習していると、伯母さんがそう言いながら、部屋にやって来た。
「うん、今行く」
ももかが返事すると、伯母さんが中に入ってきた。
「あらももか、勉強してたの?」
「うん、予習・復習しないとね」
「そうね、がんばろうね。でも、今は下に来なさい」
「はーい」
ダイニングには食事が用意されていたが、伯父さんはいなかった。
「パパ、まだなんだ」
「さっき電話があってね、遅くなるから先に食べててって」
「パパ、早く帰ってこないかな」
夕食を食べ、少し休憩してまた勉強だ。英語とか歴史とか復習する。
「ももかー、お風呂入んなさ-い!」
下から伯母さんの声がする。
「はーい」
と返事しながらも、ももかは英語の辞書をまだ調べている。
おいももか、もうだめだ。風呂だ
『何、私の裸見たいの』
バカ、もう遅い時間だ。勉強も大事だが、睡眠も大事だ。八時間は寝ろ。
『しょうがないなぁ』
ももかは思い切って辞書を閉じ、勉強机の電気を消した。
風呂に入って髪を乾かしていたら、伯父さんが帰ってきた。
「パパ、お帰り」
「ただいま、まだ起きていたのか」
「ごめんなさい。すぐ寝る」
実際かなり疲れていたので、すぐ寝付いてしまった。
次の日も、ほぼ同じ一日だった。帰りのホームルームが終わるとちょっと寝て、起きたところで夕食まで勉強、夕食後もまた勉強だ。
風呂上がり、ももかは聞いてきた。
『コウイチ、当分こんな感じでいいのかな。勉強足りてる?』
足りてはいない、でも一番の問題は体力不足だ。
『勉強してると、お散歩に行く時間無いんだよね』
でも体力つけないと、今のまんまだぞ。
『勉強減らしてでも、お散歩行ったほうがいいかな?』
そうかもしれない。今度藤沢先生に聞いてみようぜ。
『そうする』
第22話 先生に相談
次の週の月曜日、病院だった。まずは藤沢先生に診察してもらう。
「ももかちゃん、体調はどう?」
「はい、体調はいいんですが、体力が無くて」
「まあ、いっときは寝たきりに近かったからね。正直なところ、奇跡に近いんだよ」
「それはわかっています。ですが、先生、相談があるんですが」
「なにかな?」
「私、将来医師とまではいかなくても、医療関係の仕事をしたいんです」
「それは素晴らしいことね」
「ですが今、学校の授業を家からオンラインで出るだけでいっぱいいっぱいで、とてもじゃないですが予習復習まで手がまわらないんです」
「それはそうでしょうね」
「体力をつけたいんです。散歩くらいしかまだできないんですが、勉強すると散歩する体力も残ってないんです」
「うん」
「で、先生、今の私は、勉強を優先すべきか、勉強を後回しにしても体力づくりを先にすべきか悩んでいるんです」
そこまで聞いて、藤沢先生はちょっとだけ考えた。
「ももかちゃん、どうしても医療に携わりたい?」
「はい」
「だったらまず、体力だよ。ぶっちゃけ勉強はあとからでもできる。最悪浪人したっていい」
「そうですか」
「私も浪人したんだよ」
「そうなんですか、意外です」
「よくあることよ。とにかくまず、寝るときは寝る、食べるものは食べる。健康になりなさい。勉強はそれからでもできるから」
「わかりました。体力づくりから始めます」
診察はそうして終わった。今日も藤沢先生は快活であった。
ももか、方針が決まってよかったな。
『うん、朝いつも通り起きて、授業前に散歩する。できたら体育の時間も散歩する。夜勉強するかは、残りの体力次第』
それでいいと思うよ。
そのあと検査のため採血され、MRIもやった。終わった頃はもう昼である。
ももかは、付き添いの伯母さんに言った。
「ママ、いつも付き添ってくれてありがと。私のために、いろんなこと我慢してるんでしょ」
「そんなことないわ。私の人生で、ももかが一番大事」
「ありがと。でも早く良くなる。だからお昼食べよ」
「病院の食堂でいい?」
「うん、移動はつらいから、そうする」
病院の食堂はセルフサービスなのだが、伯母さんがすべて持ってきてくれた。
「ママ、ごめんね」
「ううん、少しずつ体力つけていけばいいから」
ナポリタンは好物なのだが、なかなか食が進まない。
「ももか、残してもいいからね」
そう伯母さんは言ってくれるが、ももかは、
「うん、できれば全部食べたい。これが私の力になる」
「ゆっくりでいいよ」
「ありがと」
サラダも食えよ。おんなじ味ばっかりだと、つらいだろ。
『ほんとだ、サラダ食べると、口の中がさっぱりする』
かなり時間がかかってしまったが、なんとかももかはすべて食べることができた。
「ママ、わがままなんだけど、ナースセンター行ってもいいかな?」
「いいけど、ご挨拶?」
「うん、いっぱいお世話になったから。良くなってる私の姿を見て欲しい」
「だったらすぐにはいかないで、ちょっと休んでからにしなさい。今のももか、結構ぐったりしてるよ」
「そうする」
「ジュースでも飲む?」
「ピーチがいい」
ももだけにな。
一休みしてから、エレベーターに乗って病棟のナースセンターに行く。
『なんか帰ってきたみたい』
帰ってきちゃだめだろう。
『そうだね』
顔見知りの看護師さんたちに挨拶する。忙しそうであるが、みな笑顔である。仕事のじゃまにならないよう、すぐにお暇する。
看護師さんたちは、手を振ってくれた。
『土佐さん、いなかったね』
夜勤だろう。
『コウイチ、残念だったね』
うむ。
『ホント、コウイチ美人好きだよね』
男はそんなもんだ。
『コウイチは私だけ見てればいいの!』
ハイハイ。
その日は体力を使い果たし、タクシーで帰宅した。夜、ちょっとだけだが勉強した。
第23話 体力づくり
「パパ、バス停まで一緒に行く」
翌朝ももかは、出勤する伯父さんと一緒にバス停まで行くことにした。もちろん体力づくりの散歩のためである。
「寒いけど、大丈夫か?」
「うん、いずれは学校行かなきゃいけないし、少しでも歩く」
「そうか、じゃあ行こうか」
バス停までは大した距離ではないが、出勤だけに伯父さんの足は速い。ももかはちょとずつ遅れてしまう。伯父さんは振り返って、
「ごめん、ゆっくり歩くよ」
と言ってくれたが、
「パパ、遅れちゃいけないから、パパのペースで歩いて。あとからついていくから」
と、ももかは返事した。
「うん」
と言って伯父さんは足を速くするが、後ろを気にしてときどき振り返る。
ももかはその度笑顔で手を振る。
伯父さんがバス停について、ちょっと遅れてももかもバス停にたどり着いた。
ちょっと息が荒い。
「ももか、がんばったな」
「うん、でも、まだまだだね」
「無理はするなよ。もう帰っていいぞ」
「えー、パパがバスに乗るまでいる」
「寒いぞ」
「歩いたから寒くない」
「そうか」
伯父さんは嬉しそうでもあり、心配そうでもある。
バスがやって来た。
「パパ、行ってらっしゃい」
「行ってくる。ももか、無理するなよ」
「うん」
伯父さんは、行ってしまった。
ももか、ゆっくり帰るぞ。
『そうなの?』
無理しちゃダメだ。授業出れなくなるぞ。
『わかった、でも、少し遠回りして帰っちゃダメかな。まだ時間あるし』
ダメだ。帰って勉強した方がいい。
『体力優先じゃないの?』
そうなんだが、安全第一だ。今日はまず、帰る。大丈夫だったら明日は遠回りしていい。
『了解』
夕方余裕があったら、散歩すればいいさ。
『そうする』
朝の優しい光に、冬枯れの木が光る。見上げれば空は青い。気持ちがいい。
『外に出てよかった』
家に帰って勉強机にすわり、昨日できなかった勉強をする。時間がないので教科書を読むだけだ。ホームルームの時間が近づいたので、今日もパソコンの電源を入れ、ログインする。
またも綾のドアップが映って笑ってしまう。
「昨日病院どうだった?」
綾が聞いてきた。
「うん、とくに問題なかった。でね、とにかく体力つけろって」
「そうなんだ、私、鍛えてあげようか?」
「そんなことになったら、私死んじゃう」
「ハハハハハ」
すずかもやってきた。
「もう、綾、ももか殺さないでよね!」
「ハハハハハ」
「はーい、ホームルーム始めまーす!」
田嶋先生が登場し、学校の一日が始まった。
お昼になった。先日と同じように、昼食はももかの部屋に持ってきて、パソコン越しにみんなと食べる。食べ終わるとそのままおしゃべりがふつうなのだが、ももかはみんなに言った。
「わたし、体力作りしなきゃいけないから、ちょっとお散歩に出てくる」
「そうなの、ざんねーん」
すずかが言う。
「私もね、ホントはおしゃべりしてたいんだけど、今日体育の時間無いし」
「そうだね、がんばってね」
第24話 青い鳥
今、学校のみんなは体育の授業中だ。ももかはジャージにウィンドブレーカー上下に着替え、近所の公園へ向かう。体力づくりが目的だから少し早足で行きたいところだが、すぐ疲れてしまう。
「もうやんなっちゃう」
ももか、あんまり口に出さないほうがいいぞ。
『なんでよ』
ネガティブなことを口にすると、気持ちが本当にネガティブになっちゃうこともあるんだぞ。
『そうなの?』
時と場合にもよるけどな、前向きに明るい気持ちでいたほうが、進歩も早いぞ。
『了解』
コンビニに寄ってくれ。
『なに買うの?』
ラムネ。
『そんなの食べたいの?』
ラムネはブドウ糖で出来ている。エネルギー補給に最適だ。
『スポーツドリンクも買っていい?』
ああ、いいぞ。
コンビニでラムネとスポーツドリンクを買って、公園で一休みする。ベンチに座り、冬枯れた公園の景色を見渡す。風さえ当たらなければ、意外に温かい。ラムネをボリボリと食べていると、池の周りにおじさんたちが集まっているのが見えた。
『あのおじさんたち、なにしてるのかな?』
鳥だろう。
『鳥?』
たぶん、カワセミがあの池に来るんじゃないかな。おじさんたちはそれを写真に取るんだと思うよ。
『ふーん』
行ってみるか?
『うん』
静かにだぞ。うるさくすると鳥が逃げる。
『わかった』
ももかはゆっくりゆっくり歩いて池に近づく。池の囲む鉄柵におじさんたちが静かに寄りかかっている。おじさんたちの視線をたどると、小さな青い鳥がいた。岸から伸びた枝の先に留まって水中を伺っているようだ。ももかの心臓がドキンとなるのがわかる。
きれいだろ。
『うん、カワセミって、あんなにきれいな鳥なんだね』
飛ぶと、もっときれいだぞ。青く光る。
『それ、見たい』
待つしかないな。
『うん』
しばらく見ていると、突然カワセミが飛んだ。青く輝きながら、どこかへ行ってしまった。
行っちゃったな。
『行っちゃったね』
帰るか。
『帰る』
またとことこ歩いて家に帰る。足が重い。
筋力不足だな。
『うん、歩き慣れないとね』
食事も大事だぞ。
『筋肉をつけるから?』
そうだ、運動後30分以内にタンパク質だ。
『コンビニ寄る?』
うん、いいな。
『なにがいいと思う』
サラダチキン。
『鳥見たあとに鶏肉か』
ごめん。
第25話 学校へ行きたい
カワセミにももかは元気をもらったようだ。体育の授業中か授業後に、毎日公園へ行く。公園のおじさんたちとも仲良くなって、おじさんたちの撮った野鳥の写真も見せてもらうようになった。おじさんたちは、近所の定年退職後の人たちで、持て余した時間を野鳥の撮影に費やしているらしい。退職金をつぎ込んだのか、立派な写真機材を自転車に積んで公園まで通ってきているそうだ。
ある日、おじさんに言われた。
「今日は、この時間なんだね」
「うん、今体育の授業中」
そう答えると、おじさんは不思議そうな顔をした。だから説明する。
「私、去年長いこと入院してたの。でね、学校に通う体力が無くなっちゃったから、家でオンライン授業してるんだけど、体育の時間は体力づくりに散歩してるの」
「そうなんだ、大変だね」
「うん、早く学校に行きたいんだけど、なかなか体力つかなくて」
「がんばってね」
「ありがとう、がんばる」
2週間ほど公園通いをつづけたら、歩くスピードが上がってきた。
ももか、よくがんばったな。
『そろそろ学校行けるかな』
田嶋先生と相談しよう。
『うん』
その日のホームルーム後、ももかはインターネット経由で田嶋先生に聞いてみた。
「先生、私、少しは体力がついてきたと思うんです。来週あたりから、半日だけでも登校しようかと思うんですけど」
田嶋先生は、ちょっと考えて返事してきた。
「ももかちゃん、やる気になってるところ悪いんだけど、まだ学校に戻って来ないほうがいいと思う」
「え、」
ももかはショックだったのか、いきなり目に涙が溢れてきてしまった。
ももか、インフルエンザが流行しているんじゃないか?
『そうか』
「先生、もしかしてインフルエンザですか?」
「そうよ。クラスでもぼちぼち休んでいる人が出てるの。体力がもどりつつあるももかちゃんがかかっちゃったら、大変よ」
「そうですね。でも出席日数は?」
「大丈夫。三学期はリモート授業で、ほとんど出てることになってるよ」
「じゃあ、進級は?」
「このままだったら、大丈夫だよ。こないだ計算してみた」
「ありがとうございます」
「これから受験のシーズンでしょ。2月の半ばまではお家で勉強しといたほうがいいと思う」
「わかりました」
『みんなに会えないのは寂しいけれど、しかたないね』
ま、ネットで会えるじゃん。
第26話 ご招待
インフルエンザの流行で、学校へ行けなくなってしまった。だから今まで通り、ネット授業と公園までの散歩の日々である。
今日の最初の授業は古典だ。ももかはノートをとるのに必死で、どうもわかっているように俺には思えない。
ももか、古典難しいか?
『うん、なんか難しい』
問題集ちゃんとやったか?
『問題集って、何』
学校から、うすい「入門」的なやつもらってないか?
『もらってたと思うけど、入院しててやってない』
それ最初から最後までやれば、共通テストくらいならどうにでもなるぞ。
『今夜からやる』
うむ。
次の授業は世界史である。これまたノートをとるのに必死だ。
『なんか、暗号の暗記ばっかりみたいでつまんないんだよね』
そう言うときは、資料集見て、ビジュアルで追いかけると少し楽になる。
『あと、位置関係もわかりにくい』
それは世界史用の地図帳って売ってるぞ。伯父さんに買ってもらえ。
その次は体育なので、公園へ行く。
『私、体育大好き!』
カワセミ見たいだけだろ。
『そうとも言う』
あれさ、友達にも見せてやりたいな。
『そうだ! 今度うちに呼ぼう!』
いいな。
昼休みになった。今日もすずかと綾と食べる。ももかが言い出す。
「ねぇ、今度の日曜さ、うちに来ない?」
綾が答える。
「え、行っていいの?」
ももかは驚いた。
「なんで?」
すずかが言う。
「先生言ってた。ももか、インフルエンザにかからないためにまだ休んでるって」
ももかは答える。
「そうなんだけど、少しくらいならいいんじゃない?」
綾が乗り気だ。
「じゃ、今度の日曜行っていい?」
「部活いいの?」
「今週無い! すずかも行こうよ」
「うん、行く!」
楽しみができてよかった。
第27話 元気をもらう
日曜日お昼すぎ、すずかと綾がやってきた。すずかは何回も会っているが、綾はネット越しでしか会ったことがない。綾は短い髪を両サイドにまとめていて、よく日焼けしている。グリーンのパーカーにジーンズと、スポーティーなファッションだ。くらべてすずかは、ベージュ系でまとめられている。ブラウスに大きな格子縞のセーター、ふわっとしたベージュのパンツと大人っぽい。やっぱり性格がファッションに現れるようだ。
『ふたりともかわいいよね』
うん、そうだがももかが一番可愛いんじゃないか?
『やめてよ、恥ずかしい』
「ももか、なんで顔あかくしてるの?」
綾が不思議そうに聞いてくる。
「ひさしぶりに二人に会えてうれしくて」
三人でハグした。
とりあえず部屋に来てもらう。ひとやすみしてもらうのだ。
「私、ももかの部屋、初めて」
綾は喜んでキョロキョロしている。
「ねぇ、こんなのあった?」
すずかが初聲クミのフィギュアを指差す。
「それね、コウイチの遺品」
「そっか、コウイチ先生、オタクだったもんね」
オタクで悪いか?
ももかが言う。
「オタクだったと思う。でもね、コウイチが大事にしていたものは、私も大事にしたい」
すずかは、
「そうだね、大事にしてあげてよ。このベースとかもそうなんでしょ」
すずかの言うベースは、俺が初めて買ったエレキベースだ。これが手元にあるのはとても嬉しい。
綾が聞いてくる。
「コウイチ先生って、どういう人だったの?」
ももかが答える。
「なんでも知ってて、時々怖くて、なんか変な人!」
おい、変な人か。
すずかが言う。
「でも、大好きだったよ」
ももかも、
「大好きだよ」
おい、やめろ。
部屋でお菓子とジュースを飲んだあと、三人で公園に行く。もちろん途中でラムネを買う。
綾が言う。
「ラムネって、ブドウ糖なんだ。大会のときに良さそう」
「そうだね、大会に持ってってよ」
公園では、いつものおじさんたちがカワセミを待っていた。
「こんにちは!」
「ああ、お嬢ちゃん、こんにちは。今日はお友達も一緒かい?」
「うん、カワセミまだ?」
「今日はまだだね」
「おじさん、この子達に、写真見せてあげてくれない?」
「おう、いいともさ」
おじさんがアルバムを開いて、カワセミの写真をみせてくれる。あんな小さな鳥が、大きく写っていて、とてもかわいい。
すずかが質問する。
「あの、こっちの鳥って、少し色がくすんでいるような気がするんですけど」
おじさんが答える。
「ああ、これはメスだよ。鳥はね、オスのほうが色がきれいなのが多いんだよ」
「そうなんですか」
「人間とは逆だな、ハハハハハハ」
そのうち、カワセミが飛んできた。「静かにしてね」と言おうかと思ったが、すずかも綾も言葉を失って、カワセミに見入っている。
おじさんたちも含め、みんな無言でカワセミを見ていたが、そのうちまた、カワセミは飛んでいってしまった。
ももかが、すずかと綾に言う。
「すずか、綾、来てくれてありがとう。ふたりに元気もらったよ」
「「うん」」
「私ね、まだ学校に行けないけど、おじさんたちとカワセミに元気をもらってるんだ」
すずかが言う。
「私もね、ももかに元気をもらってるよ。だから早く学校にもどってきてね」
綾も言う。
「そうだぞ、カメラに話しかけるの、いつの間にか慣れちゃった。でも生のももかのほうがずっといいよ」
おじさんが口を挟んできた。
「俺たちは寂しくなっちゃうけど、学校早く戻れるといいな」
「ありがとう、休みの日は来るよ」
第28話 ちょっとお勉強
カワセミを見たあと、すこし陽が傾いてきたので家に戻る。元気な綾と歩いていると、息がきれてしまう。
「綾、ちょっと待って。コンビニ寄りたい」
「わかった」
コンビニではいつものように、サラダチキンを買う。綾が聞いてくる。
「おかしじゃないの?」
「筋肉を付けたいから、運動後にタンパク質とるようにしてるんだ」
「夕ごはんじゃだめなの?」
「運動後30分以内が効果的なんだって」
「へぇ、しらなかった。わたしも明日から真似しよ」
綾は感心してくれたが、すずかが聞いてくる。
「ももか、そんなことよく知ってるね」
「うん、調べた」
すずかはあんまり納得してなさそうである。
家に帰って、みんなでちょっとだけ勉強する。
すずかが提案する。
「ねぇ、みんなでわからないこと教え合おうよ」
ももかも同意する。
「いいね、そうしよう」
綾は、
「私は教えてもらうだけになりそう」
と言って、笑った。
「ねぇ、この英文、意味わかんない」
綾が英語のプリントを出してきた。ももかが答える。
「えっとね、これはここに関係代名詞が隠れてるんだよ」
「なんでわかるの?」
「この文さ、動詞がこことここの2つあるでしょ。英語の原則は、一つの文に動詞は一つだけ。だから関係詞か接続詞がいるんだけど、接続詞は省略できないでしょ。だから、どっかに関係詞があると考えるの」
「そうなんだ。あんま文法わかんない」
「慣れだよ、慣れ」
「ふーん」
今度はすずかが聞いてきた。
「このモル濃度の計算が、よくわかんないんだよね」
化学のプリントであった。ももかが答える。
「モル濃度っていうのは、溶液1リットルに、溶質が何モルとけてるかってことだよ」
「それはそうだけど、何で質量パーセント濃度とか、モル濃度とか、いろいろあるの?」
「実験のときに、溶液を体積ではかるのか、質量ではかるのか、どれが使いやすいかで実際はつかいわけてるんじゃない?」
「そう考えることもできるんだ」
「多分ね」
三人で教えあうというより、すずかと綾がももかに質問する感じになってしまった。
綾が感心して言う。
「ももか、学校来てないのにこんなにできるんなんて、すごいね。学校来たらもっとすごいのかな」
「そんなことないよ。だってネットで授業出てるし。いつもカメラセットしてるの綾でしょう。いつもありがと」
「え、なんで私がセットしてるの知ってるの?」
「だって、ログインするとたいてい綾の顔がドアップで映ってるよ」
「なにそれ!」
三人で爆笑した。
笑うというのは案外疲れるもので、笑いがとまったころ、ももかはぐったりしてしまった。
すずかが心配する。
「綾、あんまり笑わせると、ももか死んじゃう」
ももかはまたも笑ってしまった。
疲れたももかを見て、すずかと綾は帰ることにした。
「笑わせすぎてごめんね。また明日ね」
二人はそう言って帰っていった。
ももか、いい友達だな。
『うん、ほんといい友達』
また一緒に勉強できるといいな。
『綾、部活忙しいんだよね』
だろうな。あの日焼け具合だと。
『でもさ、勉強できる人、スポーツできる人、色んな人と友達でいたい』
俺もそのほうがいいと思う。
ももかは体は疲れたが、心は元気になったようだ。
これなら来週も大丈夫だろう。
第29話 復活
2月の中旬になると中学受験、高校受験も終わって、私立の学校も通常モードにもどる。このタイミングでももかは通学を再開することにした。退院以来一ヶ月以上、体力づくりに専心してきた。バスから降りて、駅の階段をのぼる。どんどん追い越される。
『コウイチ、久しぶりの電車、ちょっと怖い』
気持ちはわかるよ。なるべく空いてるところに乗ろう。
『時間かかっちゃうかな』
そのために早く家を出たんだろう。だいじょうぶだよ。最悪遅刻してもいいと思うぞ。
『うん』
電車がやってきた。本来の時間よりも30分も早く家を出たから、電車は座れないまでも、満員ではなくホッとする。早く来たので、同じ制服の生徒はいない。
電車にゆられていると、それなりに体力が奪われていく。やっと学校の最寄り駅に着いた。
ももか、ベンチに座ろう。
『ええ? 恥ずかしいよ』
でも、駅から学校まで登り坂だろ。少し休んだほうが良くないか?
『それもそうか』
自販機でなんか買おうぜ。ちょっとだけ頑張れ。
『なにがいいかな?』
好きにしろよ。
『ココアでいい?』
いいんじゃん。
ベンチでココアをすすり、体力の回復をまつ。お尻が冷たい。
やっぱこの時間で正解だよ。休み休みいけるな。
『うん、正解』
そうして休んでいたら、声をかけられた。
「あれ、ももかじゃん」
綾だった。
「おはよう、綾。朝練?」
「そう、朝練。なにしてんの?」
「ここまでで疲れちゃったから、ちょっと休憩中」
「なら、私も休憩!」
「朝練いいの?」
「うん、さぼる。ももかの付き添いの方が大事」
「ごめん」
「謝らないで。その分、あとで勉強教えてね!」
綾はスマホを出して、なにかしている。
「先輩に、朝練出れないって送ったからもうだいじょうぶ」
「ごめん」
「だから、謝らないで」
「ありがと」
5分くらい休んだ。
「綾、ありがと。そろそろ移動する」
「了解」
綾はいきなり、ももかのカバンをひったくった。
「持ってあげる」
「ありがと」
綾はとことんいいやつで、学校の坂道でももかの足が止まると、後ろから押してくれたりした。それも楽しそうに押してくれる。だから遠慮もいらない。
綾のおかげで、教室には思ったよりもかなり早く着けた。
「ちょっとでも朝練出てくる! あとでね!」
綾はそう言って、教室を飛び出して行った。
ポツポツとクラスメート達が登校してくる。みんなももかを歓迎してくれる。俺まで嬉しくなる。もちろんすずかもいた。
昼休み、すずかと綾に囲まれ、三人でお弁当を食べる。伯母さんが作ってくれたももかのお弁当は、男の俺からすると物足りない。しかし、ブロコッリーとか、ケチャップの付いた小さなコロッケとか、目に楽しいものだ。すずかや綾のお弁当も似たようなものだが、綾の弁当箱はかなり大きい。
すずかが言う。
「いつも思うんだけどさ、綾のお弁当、大きいよね」
それに対する綾の答えは、
「運動部だもん、しかたないよ」
とのことだった。それもそうだろう。ももかは、
「それだけ食べて、そのスタイル、エネルギー相当使うんだね、部活って」
と言ってみた。綾は、
「食べても食べても、お腹減るんだよね。でもさ、こないだのブドウ糖とか、サラダチキンとか、まねしてるよ!」
お昼を食べたら、綾が言い出した。
「朝の借りを返してもらう!」
ももかは返事する。
「もしかして、勉強教えてほしいの?」
「うん!」
ここで、すずかが口を挟んだ。
「5時間目の数学、宿題終わってないんでしょ?」
「正解!」
第30話 バレる?
通学復活1日めは、6時間目が終わったところで力尽きてしまった。早く帰りたいのだが、帰る体力がない。すずかが心配してくれた。
「ちょっと休んでから帰ろ。荷物持つから、一緒に帰ろ」
すずかにジュースを買ってきてもらって、飲みながら一休み。すこしマシになったところで、学校を出た。
「すずか、ごめんね。私、迷惑かけてばっかり」
「謝らないでよ。私はももかが心配なだけ」
「ありがと。綾にも謝るなって言われた」
「友達だもん、そりゃそうだよ」
生前、ぼっちで根暗だった俺は泣けてくる。
『コウイチやめてよ。コウイチの感情が、私にまで影響するんだからね』
はいはい。
すずかが言葉を続けた。
「それにしてもももかさ、勉強できるよね」
「そう?}
「お昼の綾の宿題だって、先生か?って思えるほど上手に教えてたよ」
「照れるな」
「前、脳内家庭教師って言ってたよね」
「うん」
ちょっとあせる。
「もしかして、コウイチ先生の魂が、ももかに乗り移ってたりして」
本気で焦った。
「え、いや、あ、そんなこと、ないよ」
「なにキョドってんのよ。冗談よ、冗談」
「ハハハハハ」
駅についた。
「ももか、家まで一緒に行くよ」
「ありがと。でも、多分大丈夫」
「無理してない?」
「無理してない」
実のところ無理をしているのだが、なんだか会話をつづけるとバレそうな気がする。ということで駅で反対方向に帰るすずかと別れ、電車に乗った。電車の窓から、向かいのホームのすずかに手を振った。すずかも手を振り返してくれた。かわいい。
『コラ、コウイチ』
いいじゃないか、かわいく思ったって。
『そうだけど、なんかヤ』
まあ機嫌直せよ。とにかく家につかないと。
『そうね』
それよりも、すずか、なかなか勘がするどいな。
『付き合い永いから、私の学力もわかってるしね』
どうするよ。
『どうもしない』
ばれたら?
『ばれない』
なぜ?
『だって、証明しようがないもの』
そうだけど。
いまいち納得できないが、この体の主であるももかがそうするならば、しかたがない。
『でもさ、コウイチの能力は利用させてもらうよ』
能力って?
『学力』
進学のためか?
『そう』
協力するよ。
『ありがと。だから帰って一休みしたらまた勉強する』
第31話 お勉強会(午前)
翌日の登校は、綾に加えてすずかも来てくれた。
「ふたりともありがと」
すずかが荷物を持ってくれ、綾はももかの体を後ろから押してくれる。
「気にしないでよ。また勉強教えてよ」
すずかが言うのでももかは、
「もちろん、いいよ」
と答えた。綾は、
「今度の日曜、ももかのうち行っていい?」
と言ってくる。
「もちろんいいけど、部活は?」
「大丈夫、当分日曜は無い。学年末近いしね」
「そうなんだ」
「私も行っていいよね?」
すずかも来たいそうだ。
「うん、いいよ、勉強しよ!」
日曜朝十時。すずかと綾がそろってやってきた。
「すずかちゃん、あやちゃん、いらっしゃい!」
「「こんにちは! おじゃましまーす」」
ももかの部屋にふたりとも来てもらって、早速勉強を始める。
「ね、やばい順に勉強しよ!」
綾が提案する。綾は嫌いな食べ物は先に飲んじゃうタイプだろうか?
「綾、もしかして嫌いな食べ物があったら、それから食べちゃうタイプ?」
俺が思った通りのことをももかが聞いた。
「うん、よくわかったね」
というわけで、数学の勉強から始める。
「試験範囲は、三角比からだね」
すずかが言った。
「私、三角比、ぜんぜんわかんない」
綾が言う。
「ももか、冬、私に教えてくれたじゃん、綾に教えてあげてよ」
すずかの提案で、ももかは綾に基礎から丁寧に教えていく。
ももか、図はもっと大きい方がいいぞ。
『そうなの?』
小さいと、書き加えるときにごちゃごちゃになりやすい。最初から大きめに書いたほうがいい。
「ちょっと図がちいさいわ。書き直す」
ももかは早速書き直そうとする。
ああ、三角形は直角二等辺三角形みたいにかいちゃだめだ。片方の角は小さく、もう片方が大きく書いたほうがいい。そのほうが、サインとコサインの見分けが付きやすい。
『了解』
そうやって基本から丁寧に説明していった。小一時間ほど説明して、問題を解いて、とやっていたら、綾が音をあげた。
「ももか、よくわかったけど、ごめん。疲れた」
「うん、休憩しよ。ちょっと待ってて」
ももかは部屋を出て、台所へ向かう。
「ママ、お茶となんかお菓子ない?」
「もう休憩? 早いんじゃない?」
「数学やってたから、しかたないよ」
「それもそうね」
伯母さんは、チョコレートと紅茶を用意してくれた。
「お昼近いから、少なめにしたわ」
「ママ、ありがと」
「お昼は、十二時半くらいにできるようにするわ」
「うん、ありがと」
部屋に戻る。
「おまたせ。お昼ごはんが近いから、お菓子少なめね」
「そっか~」
すずかが残念そうである。綾もそんな顔をしている。
「お昼十二時半だって。それまでがんばろ」
次、綾の好きな科目にしてあげてもいいぞ。
『そうなの?』
一番ヤなやつをまずやったんだ。気分良く勉強してもいいだろ?
「綾、次、何やる? 綾、現文好きだよね?」
「うん、でも現文は、テスト中に考えれば大丈夫じゃない?」
だめだ、現文は、授業のノート覚えとかないと点取れないぞ。
「ね、ノート復習しようよ。テスト、きっとそのほうがテスト楽だよ。私、授業出てないとこあるし」
ももかが提案して、教科書とノートを突き合わせながら復習する。
意味が少しでも曖昧な言葉は、辞書引いといたほうがいいぞ。
ももかが率先して、辞書をひいて、意味をノートに書き取っていく。
「そっか、結構わたし、言葉の意味、曖昧だった」
すずかが感心して言う。
「言葉って、読めると意味がわかった気がしちゃうんだね」
綾もわかってくれたようだ。
「みんなー、お昼出来たわよ」
「「「はーい」」」
第32話 お勉強会(午後)
お昼ごはんは、ナポリタンだった。伯父さん、伯母さんとで合計五人で食卓を囲む。
「いやぁ、娘がいっぱいできたみたいだな」
伯父さんは妙にごきげんである。伯母さんはちょっとあきれている。
「「「「「いただきまーす」」」」」
テーブルには、粉チーズとタバスコが並んでいる。伯父さんはタバスコをいっぱいかける派、伯母さんとももかは粉チーズいっぱい派だ。
すずかは伯母さん・ももかの真似をする。
「わたしは、粉チーズいっぱいかけよ」
「どうぞどうそ」
対して綾は、タバスコのようだ。
「私、辛いのすきなんだよね」
そう言いながら、結構かけている。
一口口に含んで、
「からぁ~」
と騒いでいるが、嬉しそうである。
昼食の話題は、ももかの学校での様子になってしまった。伯父さん、伯母さんがすずかと綾にいろいろと聞いたのである。どうしても体力についての話になってしまう。
「でもですね、ももか、勉強すごいできるんですよ」
すずかが言い出した。
「多分入院中にしっかり勉強してたんだと思うんですけど、最近は私達が教わってばっかりなんです」
ももかはちょっとてれてしまう。
「そうなのか?」
伯父さんは意外そうである。
「ま、少しは教えてるよ」
ももかはそうは答えた。
「うん、安心したよ。勉強おくれてないか心配だった」
伯父さんは納得してくれたようだった。
午後は英語の勉強から始めた。この間と同様、どうしても綾は関係代名詞の質問が多くなる。
すずかが言った。
「綾、もっとひとつひとつの単語の品詞を意識しなきゃだめだよ」
「そうお、なんとなくわかればいいんじゃないの?」
「だめだよ、こないだももかも言ってたでしょ」
『私そんなこと言ったっけ』
忘れた。
二時半になること、またも綾が音を上げた。
「私、カワセミみたいな」
「しかたないなぁ」
というわけで、公園へお出かけすることになった。今日は伯父さんも付いてくる。
「俺も、一回見たいんだよ」
双眼鏡持参である。
いつものように途中のコンビニでラムネを買い、公園に行く。
前に比べると、早く着くようになったな。
『うん、コウイチとみんなのおかげかな』
公園の池には、やっぱりおじさんたちがいた。
「ああ、お嬢ちゃんたち、久しぶり」
伯父さんは前に出て、
「娘たちがお世話になってます」
と挨拶する。おじさんたちは、緊張気味であったが、伯父さんの双眼鏡を見ると打ち解けていた。
残念ながら、今日はまだカワセミがきていない。雑談しながら待つ。
二十分ほどして、カワセミが飛んできた。太陽光を受けて、青く輝く姿はいつもながら美しい。
カワセミが飛び去るまで、双眼鏡を代わる代わる覗いた。
家に変えると伯母さんがお茶とケーキを用意して待っていた。
「ケーキ美味しいです。ありがとうございます」
綾がお礼を言うと、伯母さんは、
「よかったら、来週も来てね」
と言う。綾は、
「はい、テストやばそうなんで、そうします」
と答えて、みんなで大笑いした。
第33話 伯父さんの決断
すずかと綾は夕方暗くなるまで一緒に勉強したが、夕食は自宅で摂ると帰っていった。
夕食は、酢豚だった。久しぶりの中華にももかは喜んだ。
「酢豚って、パイナップル入ってるのが面白いよね」
伯父さんが言うので、ももかは知識を披露する。
「パパ、パイナップルにはタンバク質の消化を助ける酵素が入ってるんだよ」
「そうなのか」
「うん」
伯父さんはちょっと黙ってから口を開いた。
「ももか、真剣に勉強してるんだな」
「うん、体力的には厳しいけど、体調を崩さないように気をつけながら、目一杯勉強してる」
「それは俺もわかる」
ここで伯母さんが口をはさんできた。
「ももかは、平日もテレビも見ないで勉強してるわ」
伯父さんはそれを聞いて心配そうに言った。
「睡眠はちゃんととっているのか?」
ももかは正直に答える。
「なるべく八時間は寝たいんだけど、ついつい勉強が遅くなっちゃうときがある」
「そうか」
伯父さんは食べるのをやめ、腕を組んで考え始めた。ももかはちょっと心配になってしまう。酢豚の味がよくわからなくなってしまった。
しばらくして伯父さんが口を開いた。
「ももか、最近の勉強の様子、ママからも聞いたけど、今日友達との感じも見て、パパはよく勉強してると思う」
伯母さんも言う。
「私も、ももか、よく頑張っていると思うよ」
「だからな、ももか、理系への変更、パパからも学校へお願いしてみようと思う」
「ほんとに?」
「ああ、だけど、健康が第一だからな」
「わかった」
「じゃあ、食事を続けよう」
そのあとの食卓は、無言だった。だけどそれは嬉しさのあまり声がでないのであって、伯父さんも伯母さんも優しい顔だった。
翌朝、いつものように家を出る。庭の梅の木に花がついている。
学校最寄りの駅で、今日もすずかと綾に合流する。
すずかががいつも通りももかのカバンを持ってくれる。綾はももかを後ろから押しながら言った。
「昨日さ、家帰ったら、ママに怒られた」
「え、なんで?」
「私がももかの勉強邪魔してるんじゃないかって」
「ハハハハハ」
すずかが大笑いする。
「ちょっとひどくな~い?」
綾が憤慨する。ももかも笑いたかったが、ちょっと可愛そうなのでやめた。
おい、フォローしてやれよ。
『そうだね』
「綾さ、教えることによって知識が整理されることがあるんだよ。だから綾に教えると、私は前よりももっと理解できるようになってるんだ。だから気にしないでね」
「わかった。ママにもそう言う」
すずかはまだ笑いながら、
「うまく伝わるかな~?」
と言う。
「実のところ、ちょっと心配」
綾がそう言うので、さすがにももかも笑ってしまった。
理系のこと、話しておかなくていいか?
『そうだったね』
「あのね、昨日ね、パパが理系へ変更していいって、やっと言ってくれた」
「「よかったじゃん」」
「二人のおかげだよ」
あと少しで学校の坂を登りきるところで、すずかが道端になにか見つけた。
「ね、ふきのとう出てるよ」
まだ寒いが、春がもう近いのだ。
「てんぷらおいしいよね」
綾が言った。
第34話 テストが近い
3月になった。だんだん体力がついてきたし、病院の藤沢先生も健康体だと言ってくれた。すずかと綾は、朝の通学につきあってくれるが、最近は足が早くなって教室に着くのが早くなってきていた。その分、三人で勉強する時間が長くとれる。綾は朝練があるときは朝練に行っていたのだが、学年h末テストが近いので朝練は無い。
教室に着くと、綾がさっそく聞いてきた。
「順列とか組合せとか、よくわかんない」
すずかは、
「公式覚えればいいんじゃないの?」
と言った。それに対し綾は、
「公式も覚えにくいし、なにがなんだかわかんないんだよ」
と、半泣きである。すずかは冷たく、
「綾、文系でしょう? 単位さえ取れればいいんじゃない?」
と言った。
すずかは、評定について理解していないな。
『評定って成績のことでしょ』
そうなんだが、綾は推薦で大学行きたいんだろう。スポーツ推薦じゃない場合、高1から高3まで、勉強したすべての科目の成績の平均できまるんだ。
『それって、ある科目捨てるとやばいってこと』
その通り、綾は知ってるみたいだけど、すずかはそれ知らないか忘れてる。
ももかが発言する。
「綾、大学、推薦狙い?」
「そうなんだよ」
「だったら、高1から高3まで、全部の科目の平均で勝負になるね」
すずかが驚いた。
「そうなの?」
綾は、
「そうなんだよ。数学壊滅すると、響くんだよ。ほかも自信ないし」
と、それこそ泣きそうである。
「そうか、がんばんなきゃね」
すずかは事態を理解できたようだ。
「じゃ、順列から教えてあげる」
ももかは、綾の前に教科書をひろげた。
おい、綾のタイプは、具体例で押して行った方がいいぞ。抽象的なのは苦手だろう。
「あのね、1、2、3、4の数字が書いてあるカードが一枚ずつあるとするでしょ……」
ももかは、早速、超具体的に説明を始めた。
しばらく説明してももかはしめくくった。
「だからこの場合は24通り」
綾は
「そうか、よくわかった」
と、納得してくれた。
「公式を覚えるのもいいけれど、意味がわかってしまえば大丈夫だよ」
と、ももかは笑顔で綾に言った。
放課後も三人で勉強する。朝の勉強は時間が短かったので、数学をまだやることにした。朝は順列を勉強したので、引き続き組み合わせ、確率とすすめる。なんとなくだが、ももかが教え、すずかと綾がそれを聞く感じになった。
気がついたら5時を回っていた。
「ももか、いっぱい教えてくれてありがとう。テスト、どうにかなる気がしてきた」
綾に感謝された。
「わたしも、暗記でごまかしてたところがよくわかった。ほんと、ありがと」
すずかにも感謝される。
「わたしはね、自分の知識が整理されて、やっぱり勉強になった。ふたりともありがと」
実際、ももか教えるの上手になったよ。
『そう? ありがと』
家にかえると、めずらしく伯父さんが帰宅していた。
「ももか、塾行くか?」
いきなりそう聞いてきた。
「なんで?」
「ももか、ここのところ勉強がんばっているだろう。それだけがんばるなら、塾の力を借りて、効率よく学習するのもいいんじゃないか?」
「考えてみる」
「テスト後になっちゃうんだけどさ、体験学習予約しといたぞ」
「え、どこ?」
「駅前の個別指導」
「うん、わかった」
ももかは自室に行く。
『コウイチ、はっきり言って余計なお世話よ。コウイチいるんだもん、いらないよ』
実際問題としてはいらないと俺も思う。だけど、伯父さんの気遣いも考えてやれよ。
『そうか、私のために、だもんね』
そうそう。
第35話 試験終了
テストは無事終わった。手応えはあった。伯父さんも納得してくれるだろう。
最後のテストが終わったあと、綾がももかのところに飛んできた。
「ももか、ありがとう。私史上、数学最高点取れたと思う!」
「ほんとに? よかった。で、何点くらい取れそう?」
「50点くらいかな?」
計算ミスなどもあるだろうから、実質40点ちょいかな?
『そうかもね』
ま、本人が納得してればいいんじゃない?
『そうよね』
すずかはすずかで、
「今回テスト、自信ある。ももか、ありがと」
と言ってくれた。つづけて、
「お礼というか、うちあげというか、おいしいものでも食べに行きたいね」
と言う。綾は、
「いいね。今日行く?」
と聞いてくるので、ももかは、
「部活は?」
と聞かざるを得ない。
「あるけど、さぼる?」
綾は自分のことなのに、疑問形の答えである。ももかは、
「だめだよ。私の登校手伝って、結構朝練休んだじゃん。でれるときはしっかり出てよ」
と伝えた。それでも綾は、
「うーん、でも眠いんだよね。部活だるい」
などというので、
「本音はそっち?」
ということで、三人で大笑いした。
結局打ち上げは後日ということにし、ももかはすずかと二人で下校する。駅までの道で、
「パパがね、塾体験してみないかって言うんだ」
と、ももかはすずかに相談する。すずかの答えは、
「ももか、塾なんて必要ないんじゃない?」
だった。
「私もそう思うんだけど、パパ、私が頑張ってるの心配してくれてるんだと思う」
「そうか、だったら体験だけでもしなきゃね。どこの塾?」
塾の名前と場所を教えた。
「私も体験してみようかな?」
と、すずかは言ってくれる。
「え、家から遠くない?」
「ももかといっしょがいいな?」
「おうちで相談してみれば?」
とりあえず、そういうことになった。
夕食のとき、ももかが伯父さんにそれを伝えると、
「通うのが楽しくなるのはいいけれど、すずかちゃん、お家から遠くないかな?」
と言っていた。
学年末テストが終わったので、学校は試験休みである。綾のように部活がなければ終業式まで休みだ。
ももか、試験休み中、どうするんだ。
『もちろん、体力づくりと勉強』
体力づくりは?
『ジョギングに挑戦したい』
いいな。まずは近い距離からだな。
『勉強どうしたらいい?』
数学を中心に予習だな。
『復習じゃなくて?』
多分、ももかの高校のペースで勉強していくと、受験間に合わない。優秀な進学校だと、2年で高校内容全部終わってる。
『3年で何するの?』
受験対策だな。
『それは強敵だね』
だから、予習中心で自分のカリキュラムで勉強して、学校の授業は確認作業にしないと、医学部なんて受かんないぞ。
『だからパパは塾へ行けって言ってくれたんだ』
そうだろうな。
試験休み初日、朝からももかはトレーニングウェアに着替えた。
『よし、ジョギング行こう』
まずはバス停往復だ。
『え、そんなの余裕でしょ』
やればわかる。
走ってみたら、息は上がるし足は痛い。バス停往復がやっとだった。
ほらな。
『こんなに体力ないんだ、私』
こんなものだよ。だから、少しずつだ。あとは、ペースはもっとゆっくりでいいぞ。
『大丈夫かな』
大丈夫だ。若いんだから、かならず体力は取り戻せる。
こうして試験休み中、ジョギングと高2の予習を続けた。ジョギングする距離は、少しずつ伸びていった。
第36話 塾の体験 その1
春休みになり、塾の体験授業に行くことになった。いわゆる無料体験というやつである。結局すずかも一緒に体験することになった。すずかも理系、かつ現段階ふたりとも大きく成績に問題ないことから、講師1に対し生徒2のコースを体験することになった。駅前ですずかと待ち合わせした。
午後一時の駅前は日差しが暖かく、桜の開花がすぐに感じられる。長袖のTシャツにワイドなGパン、寒くなったときのためにパーカーを羽織ってきたのだが、ちょっと暑い。パーカーを脱ぐかどうか迷っていたら、すずかが駅の階段を降りてきた。
「ももか、待った?」
「ううん、ぜんぜん」
「じゃ、行こうか?」
すずかは、グレーのチェックのショートパンツに白のブラウス、パンツと同じチェックの上着でやっぱり春らしい衣装だ。
『女の子の服、楽しいでしょ』
そうだな、でも買い物が長いのは困る。
『がまんしてよ』
塾は駅からすぐ近くである。雑居ビルの2階にあり、階段を上る。
階段をのぼりきったらすぐにガラスのドアがあり、中がよく見える。受付にネクタイをしめた男性がいる。ドアを開け、声をかける。
「体験授業に来た、川口ももかと鈴木すずかでーす」
「お待ちしてました、教室長の大山です。どうぞこちらへ」
さっそく学習ブースに連れて行かれる。ブースでは大学生くらいの女性の講師が白衣を着て待っていた。大山先生に、紹介してもらう。
「こちら、今日授業担当の石田先生。石田先生、こちらが川口ももかさん、こちらは鈴木すずかさん」
「よろしくね」
「「よろしくお願いしまーす」」
石田先生は、キリッとしたイメージではなく、ふわっと優しい感じの女性だ。好印象である。
『これだからコウイチは』
よさそうな先生だ、とういうことだけだよ。
「二人は、今日は数列の勉強をしたい、ってことだよね」
「はい、お願いします」
席にももかとすずかが並んで座る。石田先生は反対側に腰掛け、テキストのプリントを渡してきた。
「じゃ、まずは等差数列ね。等差数列とは……」
石田先生はざっと説明し、公式を示す。
「じゃ、この問題やってみましょう」
ここでももかが口を挟んだ。
「先生、一般項の公式の導出はしないんですか?」
「公式は暗記して、使えればそれでいいんじゃない?」
「私、こう見えても医学部志望なんです。医学部は問題が難しいと思います。基礎からきちんと理解できていないと解けないんじゃないでしょうか」
「川口さんたちの学校だと、これくらいができれば大丈夫なんじゃない?」
「学校の授業レベルだと不足だから、こうして塾に来ているんですが。授業前の面談でお伝えしてると思うんですが」
「ごめんなさい、ちょっと待っててね」
石田先生は席を立って、大山先生のところに行った。
第37話 塾の体験 その2
石田先生は、大山先生のところでなにか小声で話している。なかなか結論がでない。仕方がないので、問題を解きながら待つ。全部解けた。すずかはていねいにまだ解いている。
ももか、つぎの等差数列の和の公式を導出してみよう。
『わかった』
等差数列の和は、初項と末項の和に項数をかけて2で割る。なんでかわかるか?
『それ、小学校の時、塾でやったね。それは……』
ももかは、ノートに簡単な等差数列の例を書いて示す。
その通りだ。じゃ、それを文字式で書いていってみよう。
『うん、わかった』
しばらくして、ももかは公式にたどり着けた。そしたら大山先生と石田先生がもどってきた。
「ふたりともおまたせ。お、問題解いてたんだね。どれどれ……」
大山先生が、まずすずかのノートをチェックする。
「うん、よくできてるね。じゃ、川口さんは……」
次のところまですすんでいるももかのノートを見て、大山先生は目を剥いていた。石田先生の顔は暗い。ちょっとして、大山先生が口を開く。
「うん、とてもよくできているね。公式を暗記して、どんどん解いていけばいいんじゃないかな?」
それを聞いてももかは、
「公式の導出は、していただけないんでしょうか?」
と聞く。大山先生は、
「医学部志望でしょう? そんなことに時間をかけないで、どんどん問題を解くほうがいいんじゃない?」
と返してくる。
ももか、良い難問とはなにか、聞いてみろ。
「先生、良い難問ってどういう問題だと思われますか?」
「それはもちろん、むずかしいけど、勉強になる問題ということでしょう」
それを解くにはどういう勉強が必要か、聞いてみろ。
「それを解くには、どういう勉強が必要でしょうか」
「そりゃいっぱい問題を解くことだよ」
それだったら、この塾の生徒は全員、難関大に合格してるはずだな。
「でしたら、こちらの生徒さんは、みなさん難関大に合格なんですね」
もちろんここで、大山先生はつまった。
良い難問とは、基礎からきちんと勉強している人だけが解ける問題だと言ってやれ。
「良い難問とは、基礎からきちんと勉強している人だけが解ける問題だと聞いたことがあります」
T大とか、そんなの出るぞ。
「T大とかは、そういうのが出るとも聞いたことがあります」
「川口さん、T大受けるの?」
「それは、私には無理、っていうことですか?」
大山先生、やっちまったな。とどめ刺すか?
『うん』
共通テストの数学、公式の暗記で満点とれるか聞いてみろ。
「先生、公式の暗記で、共通テストの数学、満点とれますか?」
「満点とりたいの?」
医学部志望なら、満点狙いで当然だ。
「医学部志望なら、満点狙いで当然ではないですか?」
「そ、それはそうだね」
「で、公式の暗記でとれるんでしょうか?」
大山先生は、絶句した。
共通テストは、大学受験をする生徒が1月にほぼ全員受けるテストだ。数学は、出題者の誘導に乗って解いていかないと点がとれないので、暗記型の生徒はろくな点にならない。大山先生も、さすがにそれくらいは知っているはずだ。
「石田先生、川口さんの言う通りに、教えてあげて」
「は、はい」
そのあとの授業は、たどたどしく、雰囲気も悪かった。
第38話 脳内家庭教師 ふたたび
体験授業がおわり、塾を出た。
「ももか、ここはだめだね」
「うん、私の志望は知ってたはずなのに」
同業者として恥ずかしい。
「コウイチ先生は、ちゃんと基礎から教えてくれたよね」
すずかが嬉しいことを言ってくれる。
「そうだよ。だから、やっぱりだめっぽいね」
「でもさ、ももか、石田先生がやるより前に、公式出しちゃってたよね」
「うん、なんとなく」
「すごいね。先生、いらないじゃん」
「脳内家庭教師がいるからね」
おい、いらんこと言うな。
「ももか、前もそんなこと言ってたよね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。コウイチ先生がいるみたい」
「いたらいいんだけどね」
なんとかごまかせ。
「ももか、コウイチ先生、なんで死んじゃったんだろ」
すずかは早くも涙ぐんでいる。
ももか、やっちまったな。
『うん、どうしよ』
ま、魂が宿ってるとでもいうしかないか。
「すずか、コウイチは、私のためにお祈りしてくれて、死んじゃったって、前話したでしょ」
「うん」
「だからね、コウイチの魂は、私の中に宿ってる。だからコウイチの考え方が、自然とでちゃうんじゃないかと思う」
「それが脳内家庭教師?」
「そう」
押し切れ。
「だからね、コウイチの魂が自然と正しい方法に導いてくれると思うんだよね。石田先生は、ちょっとちがったかな」
「そうか、私、やっぱりももかと一緒に来てよかった。ももかと一緒に勉強したい」
いいと思うぞ。
「レベル違うから、足引っ張っちゃうかもだけど」
全然問題ないぞ。
「全然、大丈夫だよ。私もすずかと一緒に勉強したい。春休み中、一緒に勉強しよ」
「うん、今度、ウチくる?」
「行く行く!」
帰宅してから、もう少し勉強する。すこししたら眠気が襲ってきた。
「ももか、夕ごはんよ。起きなさい」
伯母さんが肩を揺すっている。
「あ、ごめん、寝ちゃった」
「がんばってるね。パパ帰ってきたわよ」
「じゃ、いっしょに御飯食べれるね!」
食卓につくと、早速伯父さんが聞いてくる。
「ももか、塾、どうだった?」
「パパ、せっかく探してくれたんだけど、ちょっとダメみたい」
「え、どうダメなんだ?」
伯母さんは、ご飯やらおかずやら、運んでいる。
「あのね、医学部志望ってこと、ちゃんと伝わってなかったみたい」
「おかしいな、体験前カウンセリングで、ちゃんと伝えたのに」
「うちの高校じゃ、無理だと思ってるんじゃない?」
「それは失礼だな」
「とにかく、そういう印象だったよ」
「わかった。断る」
伯母さんは、食事を並べ終わった。
「おまたせしました。食べましょ」
「「「いただきます」」」
ももかが伯父さんに聞く。
「あの塾はダメとして、春休み中、すずかと勉強していい?」
「いいぞ、でも、いつも来てもらうのは悪いな」
「うん、今度はすずかのうち行きたい」
「体力大丈夫か?」
「もう、大丈夫だよ」
「ならいいぞ」
「ありがと」
伯母さんは、
「それじゃ、お土産持っていきなさい。なにがいいかな?」
と言った。
しばらくしたら塾から電話がかかってきた。伯父さんが速攻で断っていた。
第39話 すずかのお家
塾の体験をした翌日、すずかのお家に呼ばれた。すずかの家の近くの駅まで、電車に乗る。駅まですずかは迎えに来てくれるそうだ。伯母さんがアップルパイを焼いて、おみやげとして持たせてくれた。
伯母さんのアップルパイ、うまいよな。
『焼き立てだと、最高なんだけどね』
オーブンで温めなおすてもあるぞ。
『やってくれるかな?』
どうだろう。あと、熱いアップルパイにバニラアイスをのっけて食べると、これもうまい。
『なにそれ、太りそう』
まちがいない。
駅について改札を出ると、すずかが待っていた。手を振る。今日は自宅だからか、グレーのパーカー、スウェットパンツだ。髪をまとめるリボンが赤系のチェックでかわいい。
「ももか、いらっしゃい。荷物多いね」
「教科書と、おみやげ!」
「え、おみやげ、何?」
「ママがアップルパイ焼いてくれたんだ」
「美味しそう」
いきなりの好評でよかった。
すずかの家は、駅から歩いて十分くらいのところにあるマンションだ。四階なのでエレベーターであがらなければ行けないのが不便だが、窓から富士山が見える。
「すずか、今日、富士山見える?」
「うん、見えたよ」
「わーい、楽しみ!」
歩きながら話す。
玄関のドアを開け、中に入る。ももかは何回も来たことがあるので、
「おじゃましまーす」
と言って、遠慮せず上がる。
「ももかちゃん、いらっしゃい」
すずかのお母さんが迎えてくれた。
「これ、ママが焼いたの。あたためると美味しいんですけど、そのままでも美味しいよ」
「な~に?」
「アップルパイ」
すずかのお母さんは受け取って、早速包を開ける。
「あら、いいにおい! オーブンであたためて、持って行ってあげるね」
「おばさんもぜひ、食べてください」
「もちろん、いただくわ」
すずかの部屋へ行く。窓からはやっぱり富士山が見える。
「すずか、いつ見ても思うけど、うらやましい」
「うん、わたしの自慢!」
すずかが言い出した。
「ももか、ももかはももかで、どんどん勉強して。私も私で勉強する。わからないことがあったら、質問する」
「すずか、どうしたの?」
「最近ね、ももかに教えてもらってばっかりで、ももかの勉強のブレーキになってる気がする。ももかは自分の勉強を優先して」
「私は全然、気にしてないけど」
ももか、ももかが気にしてなくても、すずかが気にしてるんだよ。すずかもそのほうが、気が楽なんだよ。
「わかった。気になることがあったら、遠慮しないでね」
「大丈夫、遠慮しない」
やっぱりすずかはいい子だ。
この間塾で勉強した数列の勉強の続きをやる。しばらくしたら、すずかが聞いてきた。
「ももか、ここの計算自信がないんだけど、あってるかな」
「うん、あってるよ」
「ありがと」
そんなふうに繰り返していると、ドアがノックされた。
「アップルパイだ!」
すずかがドアへ飛んでいった。
すずかのお母さんがトレーにアップルパイと紅茶をのせていた。すずかが受け取って、こっちへ持ってきた。
「ちょっと休憩もしてね。わたしは向こうでいただくわ」
すずかのお母さんはそう言って戻っていった。
「ももかのママのアップルパイ、ほんと美味しいね」
「冷たいより、絶対美味しいでしょ」
「うん」
「紅茶とよく合うね」
第40話 アップルパイと志望校
お茶とアップルパイを楽しみながら、おしゃべりをする。
「すずか、この間の塾、なんか私がぶち壊しにして、ごめんね」
「ううん、そんなことないよ。私もね、理解できなくても解ければいい、みたいな考え方は嫌い」
「それって、コウイチの影響?」
「そうだと思う」
すずかを教えたのは結構以前のことだが、こういう影響が残っているのは嬉しい。
「ももかさ、医学部志望はいいとして、志望校どうしてるの?」
「うん、ちょっとむずかしいんだけど、市立大学」
「なんで?」
「私立だと、億近く学費がかかっちゃう。国立は難しい。市立なら少しは易しいけど、学費は国立と同じだから」
「なるほどね、考えてるんだ」
「うん、まあね」
『コウイチの入れ知恵だけどね』
「すずかはどうするの?」
「うーん、わかんない。でも、看護とかもいいかもしれない」
「そうか、一緒の病院で働いたりして」
「うん、それいい!」
なんかモチベーション上がったな。
「なに盛り上がってるの?」
すずかのお母さんが、紅茶のおかわりをポットに入れて持ってきてくれた。
「ママ、ありがと。ちょうど飲み終わったところだった」
「そう? それはよかった」
「ママ、アップルパイ、食べた?」
「いただいたわ、とっても美味しかったって、お母さんにも伝えてね」
「はい、伝えます」
「ママ、あったかいアップルパイにね、バニラアイスのっけると美味しいんだって」
「なにそれ、早く言ってよ。それなら買ってきたのに。で、何の話してたの?」
「志望校」
「ももかちゃん、医学部目指すんだってね」
「はい、入院中、いっぱいお世話になりましたから」
「えらいね。それにくらべてすずかは……」
「私もね、看護師目指そうかなって、考えてる」
「看護も大変よ。大丈夫?」
「うん、がんばる」
「失礼だけど、ももかちゃん、体力つけないとね」
「はい、臨床が無理そうだったら、病理でもいいんです」
「しっかり考えているのね。じゃ、体力つけるためにバニラアイス買ってこようか?」
「ママ、それ筋肉じゃなくて脂肪になっちゃう!」
第41話 再発
春休み中、すずかの家に行ったり、ももかの家に来てもらったり、日によっては綾が参加したりと勉強しまくる日を楽しく送った。
四月になり明日から学校という日の朝、目が覚めたら少し頭が痛い。俺がももかのところにやってきてから、初めての頭痛だ。
『ひさしぶりだね、頭痛』
風邪でもひいたか。一応伯母さんに相談するか。
パジャマのまま階段を降りる。その事自体いつものことだが伯母さんは何かを察したようだ。
「ももか、どうかした?」
「うん、ちょっと頭痛がね」
伯母さんが顔色を変えるのがわかる。
「風邪でもひいたのかな。風邪薬飲んで寝てたら?」
「うん」
薬を飲むためだけに、パンを半分だけ食べる。食欲はないのだ。
薬を飲んで、部屋に戻る。
すぐにベッドに戻る。
『なにも考えたくない』
わかるよ。
すぐに寝てしまった。
昼前だろうか。目が覚める。まだ頭が痛いが、先程よりはマシだ。
またパジャマのまま階段を降りる。
リビングには伯母さんだけがいた。
「ももか、具合はどう?」
「さっきよりはいいけど、まだちょっと痛い」
「お熱測ろうか」
伯母さんはそう言って、体温計を差し出した。
しばらくして、体温計がピピピとなる。体温をみると、36.7度と、ほんの少し高いだけだ。
ももか、藤沢先生に連絡してもらった方がいい。
『そうなの?』
俺も考えたくはないが、悪い方で準備しておいた方がいい。
『それもそうだね』
「ママ、藤沢先生に連絡してくれないかな」
「うん、そうする」
伯母さんは電話をかけに行ったが、少しで戻ってきた。
「先生診察中なんだって。手が空いたら、電話してくれるって」
「うん」
ソファーにぐったりと寄りかかる。伯母さんがブランケットを持ってきて、肩にかけてくれた。
何分経ったがわからないが、けっこう時間が経って、伯母さんのスマホが鳴った。
「はい、川口です」
伯母さんはしばらく先生と話していた。
「ももか、今日の午後、病院に来て欲しいって」
「うん、パジャマのままでいい?」
「いいわよ。タクシー呼ぶから」
パジャマの上にロングコートを着せられて、タクシーに乗った。
窓の外に桜の花が見える。
なにも感じない。
病院に着き、ロビーのソファに座る。伯母さんは受付に行った。しばらくすると、車椅子を土佐さんが押してきた。
「ももかちゃん、すぐ診察するって藤沢先生言ってたよ。ちょっとだけがんばってね」
「はい」
診察室で藤沢先生は、
「ちょっとだけごめんね。痛いのはいつから?」
「今朝です」
「薬は?」
「これを飲みましたが、あんまり効かなくて」
「う~ん、とりあえずMRI撮りましょうか」
「はい」
「土佐さん、MRI、緊急で入れて」
「はい」
土佐さんが出ていった。
「痛み止めをしたいんだけど、もうすこし検査してからのほうがいいと思うの。だから、もう少し我慢してね」
藤沢先生は別の看護師さんを呼んで、採血をした。
第42話 再入院
その日は家に帰れなかった。一通りの検査のあと、強い痛み止めを投薬され、眠くて眠くてそのまま入院となってしまった。頭痛の辛さで、意識を投げ出す方を選んでしまった。
翌朝、ぼーっとしていると、病室に藤沢先生がやってきた。
「どう、具合は」
「昨日よりは随分と良いです。でも、薬のせいですかね、頭があんまり回らないです」
「そうね、薬の影響ね」
「で先生、私、どうなんでしょうか」
「うん、しばらく入院してもらうことになると思う」
「再発ですか?」
「血液検査の結果を待たないと、なんとも言えないわ」
「わかりました。検査の結果が出たら、教えてください」
「うん、約束するわ」
藤沢先生は出ていった。
『どうも、よくないようね』
検査の結果がでるまで、難しく考えないほうがいいんじゃないか。
『私わかる。再発だと思う。藤沢先生、うそつけないから』
うそを言うような人じゃないな。
やがて、伯父さん・伯母さんが揃ってやってきた。
そのことからも状況が悪いことがわかる。
「パパ、ママ、ごめんね。私、再発しちゃったみたい」
「そんな事言うなよ。まだ診断でてないんだろう」
伯父さんはそう言うが、顔はひきつっている。
「うん、パパ。だけど、結果が出たら、私には隠さず教えてね」
「おお、わかったよ」
ぼーっとしているだけなので時間が経つのは早い。午後になり、すずかがやってきた。
「ももか、具合はどう?」
「うん、昨日から急に頭痛が酷くなってね。心配してくれてありがとう」
「まだ診断結果は出てないみたい。わかったら、すずかにも教える」
「うん」
「そんな悲しい顔しないでよ。私、入院は慣れているんだから」
「うん」
言葉が途切れてしまう。ももかもすずかも、何を言うべきかわからないのだろう。
『その通り、どう言っていいかわかんない。コウイチどうにかしてよ』
そんなこと言われてもな。ああ、悲しい顔のすずかも、かわいいな。
『時と場合を考えなよ。かわいいけど』
言ってみれば。
「すずか、悲しい顔でも、可愛い顔してるよ」
「こんなときに、何を言っているの」
「こんなときでも、事実は事実だから」
流石にすずかに笑顔が戻ってきた。良い。
しばらく二人で無言の時間が流れてしまった。
「ももか、ごめんね。あんまり疲れてもいけないから、私、帰る」
すずかは寂しい言葉を残し、帰っていった。
遅くなって、今度は綾がやってきた。
「ももか、元気?」
と言って、拙い言葉を出したのがわかったようで、綾はうつむいてしまった。
「元気じゃないけど、元気になるよ」
「うん、なるよ、かならず。これがあるから」
綾はそう言って、細長い紙包みを出した。
「これね、あの神社のお札。あの、ももかのおじさんがお祈りしてくれたところ」
あんな神社、お札なんか売ってたか? いつも無人だったとおもうんだが。
「綾、コウイチが行った神社、いつも人いないところだよ」
「うん、今日行ったら掃除している人がいてね、無理やりお願いしてお札だしてもらった」
綾は満面の笑みで言った。
すげぇ行動力だな。
『うん、すごい』
「綾、ありがとう。かならず良くなるよ」
ももかの友達美人ばかり。これは治らないわけにはいかない。
『動機が不純』
頭はまだ痛いが、ももかの心は暖かくなった。
第43話 告白
検査結果が出た。悪い予想があたった。藤沢先生が説明してくれる。
「腫瘍の位置が悪いから、まずは薬で小さくします。ある程度小さくなったら、重粒子線でたたきます」
それがベストだな。
『ベストなの?』
今の日本でできる、最高の治療だよ。
俺は間の悪いことに、一般的な予後とか治療費とか考えてしまいそうになる。隠し事はできないので考えないしか無い。
『コウイチ、大丈夫。一応これでも医学部志望だからね』
ごめんごめん。ま、治療を通じて、勉強になるかもな。
『うん』
俺がももかに気を使うように、ももかも気を使ってくれる。だからこんな状況でも、俺たちの心はあたたかい。
今日もすずかが病院に来てくれた。
「すずか、結果出た。再発した」
すずかは衝撃を受けたようだった。必死に泣くのをこらえている。
「すずか、ごめんね心配かけて。でもね、私、治療頑張るから」
「うん」
しばらく沈黙が流れたが、すずかが口を開いた。
「私、コウイチ先生がお願いした神社でお願いしてくる。だから、ももか治るから」
それはダメだ。下手すりゃ俺たちのかわりにすずかが死んでしまう。
「ダメ、すずか。あの神社だけはだめ」
「どうして? 綾はお札もらってきたんでしょ」
「お札は大丈夫だと思う。だけど、あそこへ言ってお祈りしちゃダメ」
「なんで? わかんない」
すずかはついに泣き始めてしまった。
美しい人は、泣いても美しい。その事実を確認してしまったが、そんなことはどうでもいい。
『どうしよう』
どうするよ。
『コウイチ、真実を話そう』
真実って?
『コウイチが、私の中にいること』
いいのか?
『それしかない』
思考が乱れる。ももかの決意は伝わる。しかし俺の気持ちは定まらない。
『コウイチ、すずかに無理させちゃだめだから』
そうだな。
「すずか、今からの私の話を落ち着いて聞いてほしい」
「うん」
「実はね、コウイチが神社で死んだの、私のためなんだ」
「え」
「あの神社で必死にお祈りして、命を投げ出して、それで私を救ってくれたの」
「なんでそんなことわかるの」
「コウイチが私の中にいるから」
「どういうこと」
「私、急に成績がよくなったでしょ。頭の中のコウイチが教えてくれるんだ」
「ももかががんばって勉強したんじゃないの」
「頭の中で、コウイチが家庭教師してくれたんだよ。脳内家庭教師」
「あれ、ホントだったんだ」
「それでね、コウイチってちょっとエッチだったでしょ」
「うん」
おいおい。
「私がすずかとか綾とかとハグすると、コウイチが喜ぶんだよ」
「なにそれ」
「じゃ、今ハグしたら、喜ぶの?」
おい、やめろ。
「今ね、コウイチがやめろって言ってる」
すずかは抱きついてきた。
すずかの髪がももかの頬に触れる。息遣いが近くに聞こえる。肩から下に、あたたかい塊を感じる。すずかの命だ。
「コウイチ、感動してるよ。すずかが生きてるって。だからね、もしすずかがあの神社でお祈りして、それで死んじゃったら、私もコウイチも悲しい。だから、あの神社には行かないで」
「うん。でも、どうしたらすずか治るの」
「正面から、治療がんばるよ」
「うん、応援する」
第44話 お祈り
それからは一進一退の日々だった。頭痛は投薬されれば多少抑えられる。しかし病巣を治す薬は、体調が完全に悪化してしまう。伯母さんがほとんどつきっきりで看病してくれていた。
すずかと綾は毎日のように来てくれたが、だんだんと会話もままならなくなっていた。
当然、俺とももかの脳内会話も減った。
ある日、ぐったりとベッドに寝ていると、今日も綾がお見舞いに来てくれた。
綾が来てくれるのはうれしいが、そういえばすずかがもう二日来てくれてない。
「綾、今日もありがとう。すずか、忙しいんだね」
ここで綾の表情がこわばった。
「う、うん、忙しいみたい。ももかによろしく、って言ってた」
「そう」
何か悪い予感がする。
『なんかおかしい』
綾は、
「部活あるから、今日は帰るね」
と言って帰っていった。
『なんかあるね』
うん、おかしい。今から部活なんてあるわけ無いだろう。
『私、なんかすずかに嫌われるようなこと言っちゃったかな?』
記憶にない。
『まさか、すずかになんかあったかな?』
よせよ、縁起でもない。
「ママ、最近すずか来ないけど、なにか知ってる?」
「ううん、知らないわ、忙しいんじゃない」
不自然だな。
『不自然ね』
「ママ、何かあったって、何となく分かるよ。ホントのこと、教えて」
「うん、本当に何も知らないわ」
大人は簡単には口を割らないか。
『そうね、藤沢先生とか、土佐さんも無理でしょうね』
やっぱり綾か。
『綾には悪いけど、綾に聞くしかないね』
ももかはスマホを取り出し、
「今日、来てくれないかな?」
とだけ打った。
夕方、綾は来てくれた。一応笑顔である。
「綾、すずかのこと、教えて」
「え、何も知らないよ」
この質問があるであろうことを、予期していたのか綾はすぐに答えた。
「ねぇ綾、私すずかに何か悪いこと言っちゃったんじゃないか心配なんだ。何か聞いてない」
「うん、聞いてない」
「じゃ、なんですずか来てくれないの」
「……」
「……」
「……」
綾は下を向いて、とても辛そうにしている。
「もしかして、すずかになんかあった?」
綾は泣き出してしまった。
もう許してやれよ。
『うん、綾もつらいんだね』
「ごめんね綾、言わなくていい」
「ごめん」
綾、えらいな。
『うん、大事な友だち』
綾が帰ったところで、ぐったりとしてしまった。
どれくらい時間が経っただろう、ふと意識がはっきりした。
『コウイチ、すずか、大変なことになっているんだと思う』
おそらくな。
『でね、多分、私の命、もう永くない』
うん。
『だから、あの神社にすずかのこと、お願いしたい』
今の体じゃ、あそこまで行けないぞ。
『綾の持ってきてくれた、お札があるじゃない』
ももかは横の机においてあるお札を手に取り、自分のお腹の上においた。
お賽銭ないぞ。
お財布、置いとけばいいかな。
お札のすぐ横に、財布を置く。
『神様、すずかのピンチを救ってください』
神様、すずかのピンチを救ってください。
一生懸命お祈りしていると、意識がなくなった。
目が覚めた。
見慣れた病院の天井である。頭痛はまったくなかった。
寝ちゃったんだな。
『そうだね、寝ちゃったんだね』
『コウイチ先生、ももか、ちがうよ』
頭の中に声が響く。
だれ?
『だれ?』
『わたし、すずか。ももかが死んじゃって、二人とも私の中にいるの』