第1話
鍾乳石から、一滴の雫が落ちる。
水滴が地面で弾けると、周囲の温度が急激に下がり始めた。辺り一面は白く染まり、冷気が洞窟内に充満する。
冷気はやがてパリパリと音を立て、空中で形を成す。それは大きな翼を持ち、硬い鱗に覆われた美しい氷の竜。見た者を死へと誘う、氷瀑の死神。
口から白い息を吐き、眼下の人間を見下ろしている。
押し潰されそうな威圧感を受けながら、見上げる冒険者たちは息を飲む。
「なんなんだ、こいつは……」
「こんなのがいるなんて聞いてないぞ!!」
人々は竜に背を向け、一目散に逃げようとした。
そんな人間を憐れむように、氷の竜は顎をゆっくりと開く。長く伸びた首を反らし、口内に集まった魔力を一気に吐き出す。
狭い洞窟を駆け巡る氷の息。逃げ惑う冒険者たちに、容赦なく襲いかかった。
「うわああああああああ!」
白い冷気に当てられた者は、体の自由を奪われ、足元から凍り始める。
「ま、まずい、三人動かなくなったぞ! このままじゃ……」
「見ろ、出口だ!!」
生き残った冒険者たちは、なんとか助かろうと出口に向かって必死に走った。
だが、先ほどまで寒かったのが一転、むせ返るほどの蒸気が地面から噴き出し、辺りは熱波に覆われる。
「熱っつ、なんだ、急に!?」
見れば洞窟の先に何かいた。
「あ、あれは!?」
それは炎に覆われた巨大な獅子。鋭い二本の牙と、地面に食い込む獰猛な爪。
地上では見ることのない、異形なる魔獣。
「く、くそ!」
一人の冒険者が持っていた剣で斬りかかる。だが獅子の体に当たった瞬間、剣はドロリと溶けた。
燃え盛る獅子は、大きく息を吸い込む。筋骨隆々の体躯を躍動させ、吐き出したのは炎の息。洞窟を埋め尽くす炎は、容赦なく向かってきた。
前方からは灼熱の炎、後方からは凍える死の吹雪。
どうすることも出来ない理不尽な現実。冒険者は成す術なく、迫り来る炎に飲まれていった。
「ぎゃあああああああああああああああああ――……」
ダンジョン――
それは世界各地にある地下迷宮。人々が侵入することを頑なに拒み、足を踏み入れた者に恐怖と絶望を与える。
それでも迷宮に入ろうとする者は後を絶たない。
その最奥に、まだ誰も見ぬ“秘宝”があると実しやかに囁かれていたからだ。だが冒険者たちは思い知ることになる。
そこにあるのは不合理な暴力と、抗うことの出来ない『死』という結果だけ。
世界に七十七のダンジョンが見つかって数百年。迷宮を踏破した者は、未だ一人もいない。
円形の狭い部屋。
辺りに淡い光が灯り、中央にある円台を照らしている。誰も到達することのなかったダンジョンの最下層。
そこに一人の男が立っていた。
「これは……」
男は唖然とし、信じられない気持ちになる。目の前には誰一人見たことが無い、ダンジョンの“秘宝”があったからだ。
円台の中央から伸びる光の柱。その中に、古くて分厚い本が浮かび上がっている。本は赤い表紙に金の刺繍が施され、黒いベルトで巻かれていた。
立ちすくむ男、レイド・アスリルは、ただただ困惑する。
世界中の冒険者が恋焦がれ、いかなる危険を犯しても欲した伝説の秘宝。その秘宝が、なぜダンジョンに入っていない、自分の前にあるのかと。
レイドはゴクリと生唾を飲んだ。
遡ること二時間と少し前――
「あー、疲れた」
トウモロコシの種を植えるため、畑を耕していたレイド。「う~ん」と腰を伸ばし、額の汗を拭う。
「もう日が暮れるな……そろそろ帰るか」
レイドは手を止め、農機具を片付けると、畑の端で大人しく座っている犬に声を掛ける。
「ジャック! 帰るぞ」
「わんっ!」
呼ばれた犬は嬉しそうに立ち上がり、レイドの元へ小走りで駆けつける。
山間の段々畑で作業するレイドにとって、熊を追い払ってくれるジャックは欠かせないパートナーだ。
ジャックは茶色い毛並みの中型犬で、雑種だが猟犬の血を引いていることもあり、どんな大きい動物にも果敢に立ち向かってゆく。
鍬を担いでジャックと共に山を下りると、遠くに灯の光が見える。
煌々と輝くのは、ダンジョンの入口を照らす灯だ。
レイドの住む村はダンジョンと隣接しているため、遠巻きではあるがダンジョンへ入ろうとする冒険者の姿を見ることが出来る。
ダンジョンの入口付近には、検問所や休憩所、軍人が待機する施設などがあり、飲食をする屋台まで立ち並んでいた。
多くの人が行きかう光景は、まるで毎日続くお祭りのようだ。
騒がしい情景を目の端で捉えながら、山を下っていく。
レイドは今年で二十六歳になる、ごく普通の青年だ。今は亡き両親が残してくれた畑で生活の糧を得ている。
そんな青年にとって、ダンジョンは夢のような場所だった。
未踏の階層に入り、襲い来るモンスターと戦う。仲間と力を合わせ、見たことも無いお宝を発見するなど、胸が高鳴る要素を上げればキリがない。
レイドも幼い頃は冒険者に憧れ、ダンジョンに入りたいと思っていた。
だが、諦めるしかなかった。特別な才能が無い自分には無理だと……そして何より、レイドには冒険者になれない理由があった。
「レイド兄ーー!」
キャベツ畑の向こうから、一人の少女が手を振りながら、笑顔でこちらに駆けて来る。年の頃は十台半ば。銀髪で褐色の肌をした少女だ。
「フィーネ、そろそろ帰らないと……すぐに暗くなるぞ」
「うん、父さんと母さんも、もう帰ろうかって話してたの」
フィーネが振り返った先には、畑を耕しながらレイドに向かって手を振る彼女の両親がいた。両親もまた少女と同じく褐色の肌をしている。
全員が知り合いのため、レイドも笑顔で手を振り返した。
「あっ、ジャック! こんにちは、今日もいい子だね~」
「うぅ~、わんっ!」
フィーネは犬のジャックに挨拶すると、よしよしと頭を撫でていた。ジャックもご機嫌で尻尾を振っている。
「ねえ、レイド兄。また畑に遊びに行っていい?」
「ああ、いいよ。いつでもおいで」
「へへっ、やった! 今度はお弁当作っていくからね」
手を振って笑顔で両親の元へと帰って行く。そんなフィーネを見送り、レイドは再び歩き出した。
風になびくレイドの髪も色素の薄い銀髪。そしてフィーネやその家族と同じように、褐色の肌をしている。レイドやフィーネは、オルド人という流浪の民だ。
国を持たない彼らは様々な国で暮らしていたが、どの国でも差別を受けていた。レイドが暮らす国でも酷い差別はある。
特に職業に関しては、オルド人に選択する権利は無く、国の許可が必要な冒険者になることはできなかった。レイドが夢を諦めた最大の理由だ。
そんなレイドが川に掛かった橋を渡ろうとした時、ジャックが突然吠えて駆け出した。
「どうした、ジャック!?」
ジャックが向かった先を見ると、木の陰に子熊がいる。元々熊を見ると追いかけるように訓練されていたジャックは、逃げる子熊を追いかけていく。
「待て、ジャック! 深追いはするな!!」
木が生い茂る山林に入ったジャックを慌てて追いかける。
全力で走るレイドだったが、二匹にはなかなか追いつけない。それでも必死に追いかけると、山の斜面の叢にジャックが飛び込む姿が見えた。
「ジャック!」
レイドは草を掻き分けジャックを探す。すると思いがけず、山の斜面にポッカリと空いている穴を見つける。
それは蔦や草木で覆い隠されており、人目に付きにくい穴だ。
レイドが覗き込むと、どこまでも続く深い闇が広がっていた。