月夜と戯れ
染み付いた紫煙の薫りを消さなければ、と思いながらも呆けて見ているのは、出窓から見える上弦の月の冷たい光が今にも地に零れて落ちそうだったから。昨日までの豪雨で、月がどんな形だったか、すっかり忘れてしまった。もっと円やかな、黄色いの光だったような気がするけれど、それも気のせいかもしれない。今見ている月の青白さ、冷たさが、嘘なのかも否めない。とにかく自分は馬鹿になっている。
もうきっと、壁に吊るされた大量のミモザのドライフラワーにも、紫煙は染み付いている。
煙草臭い部屋に入った瞬間、きっと殴るし、蹴る。以前蹴られた痣を宥めるように擦りながら、私はどうしたらいいか、部屋をぐるぐるとしていた。
とりあえず、彼の好きなムスクのコロンを振り掛けたけれど、そんな小細工すぐに破られるだろう。私は急に叫びたくなって、顔を覆ってしゃがみこんだけれど、声は掠れて、老婆のように喘いだ。
浴室から、水の抜ける音がカウントダウンのように聞こえ、髪を乾かさなくては、と我に帰る。呆然と座り込む私の背に、斑に間接照明の灯が注ぐ。その薄暗さには何の安寧も暖かさもない。
息が整わないまま、年齢にそぐわない純白のベビードールの裾を引き摺り、私は窓辺に這うように近づくと、階下のガレージを見る。彼の黒のメルセデスは姿はなく、また、タクシーが来る気配もない。無音の闇に、先ほどの月が嫌味なほど輝いている。
この家は、高台の住宅地になっていて、台地の下は、墓地が広がり、その先に半分スラムみたいな繁華街になっている。赤紫のネオンが輝いていて、彼の息と同じアルコールの分解される臭いがここまで漂ってきそうだ。高台の住人は繁華街を迂回した新しい道で、出入りしており、足を踏み入れることはまずない。この辺の人間は、隣町の先の、物価の高い街でしか遊ばない。自分たちがいつも見下ろしている、目と鼻の先にあるものを知らない。知らない、触れないものを見下ろして暮らすなんて、なんて趣味が悪いのだろう、と思ったが、今となっては、特にこの地を選んだ同居人に対しては、哀れさの感情が勝っている。
何かが轟いている。墓石の並ぶ、黒く、何もかも塗り潰す暗がりに、月が一筋落ちて、混ざり合うように、微かな動きがあるのだ。私は惚けてそれを見ていた。窓を開けると、温さを帯びた風が舞い込んできて、濡れた髪を乾かす。いつからこんなに春が楽しくないのだろう。原因がわかりきっているのに、飼われているに等しい現実を見たくなくて、いつも考えることを止めてしまう。犬や猫のほうがよほど良い暮らしをしている。だけれど、どのifをやり直したら、どんな幸福に繋がるのか、もうわかりたくもなかった。
それが一向に動きを見せないため、飽きてしまって、カーテンを閉めて夜風だけを部屋に招き入れた。暗がりは相変わらず轟いていて、少しヌメヌメとした光沢を放っているようだった。窓を離れて、しばらく放置していたスマートフォンを確認する。連絡が来ていないことに安堵しつつ、いつ彼がこの部屋に戻ってくるのか、不安は消えない。ベッドに腰掛け、サイドテーブルに投げ出されていた煙草を吸う。彼は私が吸う煙草を嫌う。彼が吸う横で煙草に火を着けた日、吐くまでお腹を殴られた。「電子タバコにしろ」そう言われて電子タバコを吸ってみたが、結局殴られた。大きく煙を吸い込むと、どんな因果かわからないが、涙が遠くに行くような細やかな、私にとっては大切な救済が訪れる。
燃え尽きる瀬戸際まで私は惚けていた。
ぬちゃ
室内に湿った物音がして、心臓が止まる。彼か、と思って震えが走る。すると、物音が激しくなり、ケタケタと笑い声が響いた。窓枠がカタカタと軋み、粘性の何かが外からヌメリ、と部屋に這い出している。
はっとして、煙草を取り落とした。太股を掠めて微かな痛みで我に帰る。
ヌメヌメとした赤黒い、表面が波打つ何かは、部屋の床に落ちた。私は、先ほど遠目に見た、墓場で蠢いていた何かだと気付いたら。蠢いていた粘性の何か----ちょうど魚の臓物を大量に溶かして、赤いインクを垂らしたようなものだ。----それが、一部分に隆起して、形を為した。
カカカカカカカカ
臓物の塊の中に、男の首が浮かんだ。赤い唇を歪ませ、高笑いしている。
カカカカカカカカカカカカカカカカ
顔を覆っていた粘性の液体が徐々に落ち、若い男の顔をした相貌が明らかになる。黒い髪は臓物に塗れている。白い肌に、薄い色素の瞳。
「っ!」
私は声にならない悲鳴を上げた。紛れもなく、見覚えのある顔だった。
猟奇的な笑みを浮かべ、ぎょろりと視線を私に固定する。
「なんで、帰って。」
彼が来てしまうから。彼にあなたの顔は見せられない。
硬直する私を嘲笑うように、赤黒い臓物の集合体は、首をこちらに向けて、ゆっくりと移動する。通ったあとは、血の色の道がカーペットを汚している。
私の足に触れるところまで近付くと、首は、口が裂けるほどに、ひひっと微笑んだ。
「お腹すいた?」
私は、スツールの上に置いた小型の水槽に話し掛ける。そして、答えを待たずに、左手を水槽の中に差し出した。
赤い口が開き、私の左手の指を甘く噛む。少し、ちくっとして、見ると、首が恍惚とした表情で私の血液を吸い上げていた。
首は、彼とここに暮らす前に、よく会っていた男の顔だった。本当に、よく会う人、以外に何とも表現ができない。この首が、本人なのかもわからないが、とりあえず、熱帯魚が死んだ水槽に、臓物の集合体を入れている。
私に執着して、こんな姿になったのであればいいのに、血なんていくらでもあげる。きっとこの水槽を見て、彼は怯えるだろう。そして、私を詰る。そうしたら。彼が帰ってきたら。
私は水槽の中の焦点の合わない目を慈しみながら覗き込む。
「きっと、殺してくれるわね」
首はカカッと笑った。