⑤
あの悲劇から
一夜あけて・・・
朝。
牧場は静寂に包まれていた。
聞こえてくる音といえば、雨滴の落ちる音くらいなものか。
昨日まで活気に満ちていたこの牧場は
一転、死んだように静まりかえった。
生まれてくるはずだった牧場の希望は
その命を世に出でることなく天へと旅立った。
残されたラグフェアーは、傍らにいるはずの我が子がいない事に
何かを感じとり、
全く起き上がろうとしなかった。
厩舎には
血の臭いが残り、
糸ノコで引き裂かれた肉片が散らばり、
昨日の惨劇を
僅かに伝えるだけであった。
勘助は、仮眠室のベッドの上に座って、成すこともなく、ただうなだれていた。
目の前の厩舎には馬は居らず、ただひたすらに壁を見つめるだけである。
血のついた服を来たまま、
四時間は前に入れられたコーヒを片手に、彼は自問自答を繰り返していた。
(ラグフェアーの仔が・・・)
自分は悪くない
(ラグフェアーの仔・・・)
俺は悪くない
(ラグフェアー・・・)
俺のせいじゃない。
(殺したのは結局俺だ)
俺は悪くないっ・・・!
くうっ、と苦しそうな声を出した勘助は
頭をかきむしり、その手を顔にくっつけて
また泣いた。
期待していた馬だから
良血だから
というわけでは更々ない。
ひとつの命を自らの手で奪い去ったことは、勘助にとって拭いされないショックとなって、心のなかで反響していた。
「くそっ!」
六時間は沈黙を続けていた勘助がやっと口を開いた。
声にならない言葉。
勘助の無念は
廊下を走って消えた。
ラグフェアーの傍らには、芝山がいた。
昨日から全く立とうとしない愛馬を、夜通しずっとなで続けていた。
勇気づけるためか、元気付けるためか、
それとも贖罪か。
芝山もまた、何十年とご無沙汰していたやるせなさに、
改めて直面していた。
何度となく経験して慣れていたつもりでいたが、いざやるとなるとやはり辛かった。
今回は勘助もいた。
自分に助けを求めてきた勘助を見た芝山は
自分が初めて馬を安楽死させたときのことを思いだし、
(坊っちゃんは辛いやろうな・・・)
と心で呟いた。
芝山は、フラッと立ち上がり、壁に手をやりながら歩き出した。
行く場所は一つしかない。
一歩、一歩を踏みしめるたびに、芝山は思い出していた。
(先々代はあのとき、俺に何を言ってくれたか・・・)
あのとき、とは芝山が初めて馬を安楽死させたときのことである。
放牧中の芝山が担当していた一歳馬が柵を乗り越えようとして失敗し、競走馬には致命的な骨折をしてしまった。
やはりそのときは、芝山も
「どうにか命だけは」
と懇願したが、先々代の場長は
「その馬は今、死ぬほどの苦しみを味わっている。万一にも助かる可能性はない。それでも無理に治療を続けさせるか?」
と言い、事実的に芝山の願いを振り払った。
「時には死も、競争馬には最善の処置になる。残酷だが致し方の無いことだ。」
先々代の言葉が頭のなかで反復する。
(坊っちゃんもあのときの俺と同じように苦しいはずや。)
ようやく仮眠室にたどり着いた芝山はベッドに腰を掛けて座る勘助を見、ふうっ、と息を吐いて
その傍らへと向かった。
勘助は微動だにしない。
目の焦点の定まっていない勘助を見た芝山は、彼が自分が思うよりはるかにダメージを受けていたことを悟った。
(こりゃあ、当分立ち直れんかもしらんな)
そうは言えども、勘助には立ち直ってもらわないことにはどうしようもない。
先代が身を粉にして働き、遺した
この牧場を継ぐ事ができるのは、勘助だけなのだから。
(先代にこいつの後見を頼まれたんだ、俺がなんとかしてやらにゃあな)
そっと勘助に目をやった芝山は、タバコに火をつけ、煙を一度はきだし、
そのあと、おもむろに口を開いてこう切り出した。
「辛いか?」
勘助は、一瞬ビクッとして、そのあとこちらを見た。
目は充血し、まぶたが腫れ上がっていた。
昨日は夜通し泣いたのであろう。
勘助は返事をしなかった。
芝山は、タバコをもうひと噴かしして、言葉を続けた。
「そらあ、辛いわな。ようわかんねん。馬を殺す、っちゅうのはほんまにきついし、牧場勤務のなかでも一番やりたくない仕事や。」
勘助が少しこちらを向いた。
それから少しばかりうつむき
「仕事・・・ですか」
と呟いた。
仕事という言葉でくくって然るべき言葉かどうかというのは
芝山にもわからない。
が、牧場で仕事をやる以上は避けては通れないものである。
そう芝山は割りきっていた。
「そうや、仕事や。
時にな、勘助。この先もな、牧場で仕事をするつもりなら
こういった事態は避けては通れん。
この道を通る限りは、この苦しみに何回も耐えやなあかん。
・・・人間やから悲しくなるのは当然のことや。
せやけど、これを乗りきる力も人間は持ち合わせてるはずなんや。
坊っちゃん、あんたもな・・・」
芝山はタバコの火を足で消し、その吸い殻をゴミ箱へ投げ入れた。
うつむいたままの勘助は
さらに頭をもたげて
「つまり、僕に」
と震える声で喋り始めた。
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「この状況で俺に立ち直ってしっかりやれと言うんですか?」
微かに震えた肩が感情をさらけ出しているように見える。
納得できるはずもない。納得できるわけがない。
芝山にもそれはわかっている。
しかし―
「ああ、そうや」
その瞬間勘助が飛び上がるように立ち上がった。
「そんなことできるはずがない!!」
その声は厩舎じゅうに響き渡った。
「俺は、俺は一つ命をこの手で奪ってしまった・・・
やらなければならなかったなんて言い訳にはならないんだ。
助けられなかった!
俺は一生あの仔の影を追わなければならないんだ・・・
あの子に報いるような競走馬の・・・
いや、そんなんじゃない、
俺にはそんなことはできない!
」
言い切った勘助は、またもベッドに突っ伏し、泣き始めた。
それを見た芝山は、
「何も坊っちゃんだけが苦しい訳じゃねえんだぞ。」
と語りかけた。
勘助の鳴き声が少しばかり小さくなった。
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「何も坊っちゃんが悲しくないといってるわけではないで。
しゃーけどな、そんな自分だけが悪いと塞ぎこむんは、ちょっとちゃうんちゃうか?
例えば、亡くなった先代や。」
「親父・・・?」
「そうや。天国で自分の生産馬の活躍が見たかったに違いない。
天国でさぞや悲しがってるやろな。」
「・・・」
芝山は続けた。
「ほんでなぁ、恐らく一番悲しいのは・・・ラグフェアー本人とちゃうか?」
「・・・!」
「自分がお腹を痛めて生んだはずの我が子が隣にいない。
それを不思議に思うたんか、それとも死んだんを悟ったかそれは知らん。
しゃーけど、あれからあいつ起きようとせえへんのや。」
「ラグフェアーが?」
「産みの苦しみの先に会えるはずの子がおらんのや。
きっと辛いんやろう。
わかるか?勘助。
子を失った親の気持ちが・・・」
「ラグフェアーが・・・」
勘助ははっとした。
そうだ、今一番苦しいのはラグフェアー本人だ。
子に会えない悲しさは
俺のその悲しみの
何十倍であろうか。
なのに
支えてやるべき者の俺が、
こんなところで泣いて暮らして、
一体どうするんだ?
ここであいつを励ましてやれるのは俺だけなのに・・・
そうだ、そうなんだ
俺があいつを元気づけてやらなきゃならない。
俺が今すべき事は・・・
「お、俺は・・・」
勘助は、自分の手を見つめた。
その様子を見た芝山は、
「まあ、もうわかったやろ。
今自分のやることが何か・・・」
芝山は立ち上がり、勘助の肩に手をやった。
「それをできんのはお前だけや」
「でも、そんな資格が俺にあるでしょうか・・・」
「さあな。それは本人に聞いたらエエんちゃうか?」
「え・・・」
微かに響く蹄の音。
ゆっくりだが、しかし確実に
近づいてくる。
(ラグフェアー!?)
勘助は飛び上がり、入り口から飛び出した。
通路に出ると、そこには疲れきった様子のラグフェアーが立っていた。
(ラグフェアー・・・)
俺に彼女を励ます権利はあるのか。
勘助は葛藤の末、ラグフェアーに向かって手を差し出した。
(俺に・・・
付いてきてくれるか?ラグフェアー?)
俺を受け入れてくれるか?
そう問うつもりだった。
(まだ俺と歩んでくれるか?)
一足遅いラグフェアーへのプロポーズ。
勘助は手を差し出したまま目を閉じた。
(頼む、来てくれ。)
それはたった数秒の出来事だった。
しかし、勘助には何分、いや、何時間にも思えた。
ラグフェアーは勘助に向かい歩き出し、その突き出された手を静かに首で払いのけ、
勘助の胸に頭をすりつけた。
(許してくれた―!)
勘助は胸が一杯になり、その胸に埋められたラグフェアーの頭をぎゅうっ、と抱き締めた。
(辛い思いをさせてすまなかった)
勘助の目からは再び涙がこぼれた。
しかし、その涙には先ほどまでの悲しみはなく、
勘助の心には温かさが駆け巡っていた。
―これが、馬の優しさか。
「まいったな、お前を助けるつもりが助けられちまった」
涙のあとの残る顔をラグフェアーの頭に押し付けつつ、勘助はそっと語りかけた。
その顔を優しくなめたラグフェアーは
《大丈夫》
とでも言うようにさらに体を勘助の方に近づけた。
「ラグフェアーにもな、わかってるんやで。」
物陰から一部始終を見守っていた芝山が
腕を組み、笑顔を見せてこちらを向いていた。
勘助もラグフェアーの頭をだきながら、そちらを振り返った。
「芝さん・・・」
「子供が死んでしもたんは誰のせいでもない。
勘助のせいやない。
ましてや自分のせいでもない。
全くの不可抗力やと自身で割りきったんやろう。
誰のせいでもないが故に、誰も責める必要はないっちゅうことや。
ほんまに頭の下がる馬やなぁ」
勘助には、芝山の言葉が限りなくありがたかった。
本当にラグフェアーがそう思ってくれているかはわからない。
だが、今ラグフェアーのとった行動を見ても、そう信じることはできる。
勘助は、自分を地獄から引き上げてくれた、ラグフェアーと芝山に本当に頭の下がる思いだった。
「さぁて、今日からまた再スタートや、勘助。
ラグフェアーしかおらんようなったこの牧場、維持するのは大変やからなぁ!」
ハハハと笑い芝山は、併築されている勘助の実家へと入っていった。
それを見送った勘助は、
(ありがとうございます、芝さん。)
と、心の中で呟いた。
「それにラグフェアー、お前もな」
頭を撫でながら、勘助は語りかけた。
俺は恩返しをしないといけない。
ラグフェアーは俺を立ち直らせてくれて、
芝さんはその手助けをしてくれて、
死なせてしまった子は、俺の生きていく道を開いてくれた。
こんなにありがたいことがあるだろうか。
(俺は、決して不幸じゃない。)
新たな決意も芽生えた。
俺は、あの子に報いる馬を必ずつくってみせる。
男の顔に変わった勘助は、ラグフェアーを連れて、放牧地へと歩いた。
(俺にはやるべきことがあるんだ!)
希望にもとれるその言葉を胸に刻み込み、勘助はまた一歩を踏み出した。
昨日の嵐は過ぎ去り、
雲一つない青空になっていた。