⑤
その日の夜は、
昼間とうってかわって
大雨であった。
「ーーーやばい!」
芝山の声ががらんどうの厩舎に響き渡った。
「どうしました!?芝さん!」
厩舎に設けられた仮眠室でうとうとしていた勘助の耳に飛び込んできたのは、芝山の悲鳴のような叫びだった。
(くそっ、ラグフェアーの身に何か・・・)
あんな声を聞いたあとで、勘助には不安しか生まれなかった。
「ぼ、坊っちゃん、大変だ!」
顔面蒼白、と言うにふさわしい面持ちの芝山が、半ら泣き出しそうな顔でラグフェアーのいる馬房から飛び出てきた。
「いったいどうしたんです!?」
勘助は焦りの混じった声で聞き返した。
息を切らした芝山は、一度息を吐き出し、
深刻な顔をこちらへ向けた。
よほど慌ててとんで来たのだろう。顔は茹で蛸のように真っ赤になっていた。
が、対照的にその表情は……青ざめていた。
「今、破水してお産が始まったんだ。だが、だが、出てきた足が・・・」
ーーーまさか。
勘助の不安は恐怖に変わり、
次の瞬間、彼はラグフェアーの馬房にめがけて走り出した。
ラグフェアーの馬房を見つけた勘助は、そこに駆け込み
「ラグフェアー!」
と声をかけた。
と、同時に彼は、その状況に絶句した。
「これは・・・」
苦しむラグフェアーからは、
なるほど子馬の足が出ていた。
しかしその足は―
(後肢・・・)
逆子であった。
人間の逆子は、帝王切開という手で取り出すことができるが、馬の場合はそうはいかない。
無理に引っ張り出せば、子馬の首がつっかえて子はまず助からない。
勘助は、気が動転して、訳もわからずその場にへたりこんだ。
(何で・・・何で!)
軽いパニックに陥った勘助に
あとをおってきた芝山の言葉が追い討ちをかけた。
「まずいぜ、坊っちゃん。ラグフェアーはかなり長い陣痛で体力を消耗している。もし、無理に仔を取り出せば・・・」
結果はわかっている。
嫌だ、聞きたくない。
ラグフェアーの身に何が起こるのか・・・
「・・・どうなると言うんです」
勘助は立ち上がり、振り向かずに聞いた。
芝山は少し顔を背け、
くっ、と呻き
「このままこの子を引っ張り出したら、まず母体は助からん。それに、仮に仔を引っ張り出せたかて、その子が生きたまんまでおれるか、確証はないんや。」
勘助の胸に絶望が広がる。
・・・やらなければならないことはわかっている。
しかし
認めたくない。
認められない。
そんなことはできない。
熱くなった目を芝山に向けた勘助は、
「だったらどうしろと言うんです!?」
と芝山に叫んだ。
頼む、何か方法をくれ。
両方が助かる手だてを何か・・・
勘助は、祈るように芝山を凝視し続けた。
しかし、勘助の期待に反して、芝山の答えは予想通りのものであった。
「母体のことを考えるなら
仔は・・・諦めるしか・・・。」
勘助は頭が真っ白になった。
諦める。
それは、
殺す
という意味である。
母体を守るために、子馬を殺す。
つまりそういうことである。
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「そんなこと―!」
俺にできるはずがない。
今も必死に生まれてこようとしている命。
外に出たい、走りたいと必死にもがいている命。
母親に会いたがっている命。
その命の希望を奪い去ることなど俺に―
「できるわけありませんよ!」
勘助は泣き叫ぶ声で必死に訴えた。
「こいつは今だって必死に生きようとしてるんだ、外に出ようとしてるんだ!そんな、そんな、殺すだなんてっ!」
「落ち着け、坊っちゃん。よく考えろ、仮にラグフェアーが―」
「芝さん、お願いだ、何か考えて!子馬もラグフェアーも生き残る方法を・・・きっと何かあるはずだ!だから、子馬を殺すことだけは!」
ゴツン。
鈍い音がして、人為的な衝撃を受けて、頬が熱くなるのを感じた刹那、勘助は後ろに吹っ飛んだ。
「甘ったれとんちゃうぞ、坊主。
お前はお前の代でこの牧場を潰すつもりか!?
親父からもろたこの牧場をお前一代で滅ぼすつもりなんか?
今この牧場からラグフェアーが消えてみろ?いったいどうなる?
肌馬(繁殖牝馬)もいなけりゃ幼駒もいねぇ、ただの広い草原になってまうんやぞ!
お前はそんでええんか!?
現に見ろ!、ラグフェアーは今も苦しんで生と死を行き来しとんねや!」
からだのすぐ横にはラグフェアーがいた。苦しそうに呻いている。
「馬はなぁ、経済動物や。人間と同じようにはいかんのや。
この牧場を潰したないんやったら、ラグフェアーを殺したくないんやったら、
まずお前が覚悟きめんかい!
わかったか!」
見たこともない剣幕で怒った芝山に対し、
勘助はもうなにも言えなかった。
芝さんの言うとうりだ。
それはわかっている。
けど、もう何がなんだかわからない。
「くそぉぉぉぉぉぉっ!」
勘助はやり場のない悲しさを藁に向けて拳と共にぶちこんだ。
助けてやれないのだ。
前にある命。
彼は、己の無力さに絶望した。
芝山はその様子を見て。
「なあ、坊っちゃん。これから牧場を背負っていくつもりやねんやったら、こういうことは何度でもあるんや。
しゃあけど、あんたは若いこの時期にこの悲しみに遭遇できたんや。
もしかしたら、この子は坊っちゃんのために我が身を捨てるような生まれかたをしてきたんかもわからんで。」
勘助はこの足を見、
「俺は・・・」
と、呟いた。
その様子を見た芝山は、
「もう、わかったやろ。
苦しいのはわかるけど、これ以上なんもせえへんかったらラグフェアーの命が危ない・・。」
語尾につれて声を小さくした芝山は帽子を深くかぶり、道具を取りにいった。
一人残された勘助は、飛び出している後肢を見つけ、それを手で掴み、
(すまん、何にもしてやれなかった。
許してくれ。)
と、語りかけた。
―これから牧場を背負っていくつもりなら。
新たな覚悟を持った勘助は
ラグフェアーの顔をさすりながら
「すまん」
と何度も呟いた。
ラグフェアーのその目は何かを訴えているようにも見えた。
だが、勘助は
ただただ
「すまん」
とばかりいい続けた。
それしかできなかった。
涙が溢れ出した。
「すまん・・・すまん」
やがて芝山が道具をもって帰ってきた。
やることはひとつだった。
その日、夜空に月はなかった。