白銀の少女
重力子を使いきりカセットにチャージを開始する。グルーオン同士を衝突させ生み出す。フルチャージまで約1ヶ月かかる。だから重力系オブジェクトは一度使うと暫く使えなくなる。
話は変わって案の定時速200kmのバイクの騎乗では会話するにも儘ならなかった。
数分後、町に到着する。またしても横滑りするバイク。吹雪を撒き散らし病人の家の前にとめる。
飛び降り駆け出す二人を尻目に、横倒しになっている車体を操縦し止め直す。
「じっちゃん!待たせたな!連れて来たぜ!」
「遅くなりました!患者は!」
「待っておったぞ、こっちだ!」
例の子供が横たわるベッドに赴き、マリア嬢は手早く白衣に着替え、診察を始める。
「……痛いよ……痛い」
「どこが痛いのかな?お姉さんに教えてくれる?」
力なく悲痛な声がなんとも痛ましい。マリアは穏やかに優しく声をかけ、問診をする。
どうやら女の子は全身と特に頭が痛いらしい。
マリア嬢は先ほど無造作に置いたバックを手に取る。
次々と出てくる機材の数々、バイタルモニターにAED、どこに入っていたんだという折り畳み点滴スタンド。中でも驚いたのは謎の金属の円筒、小型人工心肺装置だという。
「体温38度、それと紅斑。目の奥と筋肉や間接の痛みがあるみたいね。お母さん、症状が出たのはいつ頃?」
「ええと、二日三日前だったと思います……」
マリアは目を細め、険しい表情へと変わる。マリアは少女の腕を取り、軽く皮膚を押している。一体何をしているのだ。
「これは、点状出血ね……ちょっと血液検査するね……」
マリアは次に取り出したのは真空パックされた金属性の注射器。後で伺ったのだが円心分離機搭載の注射器で、取り付けられたスクロール状の有機ELディスプレイを引き伸ばすと検査結果が出るだとか。
「やっぱりヘマトクリット値20%高い。血小板100000/㎜3以下……NS1、IgM抗体の検出……でも、どうして……そんなことって」
驚愕な表情を浮かべるマリア。周囲に動揺が走る。
『マリア嬢、どうした?』
「話してくれねぇと、みんな不安がる。それとも、そんなにヤバイのか……」
マリアは首を横に振り否定する。
「少なくとも適切に処置出来れば命の心配は無いかな」
「そうか! 良かったじゃねぇか!とりあえず一安心だな!」
しかしマリアの深刻な表情は晴れる気配が無い。
リアム老師がアキラの背後から杖で軽くこつく。
「馬鹿たれ小僧……先生。一体何の病気なんだ? 医者としてそれが何の病気であれ、告知する義務があるではないか?」
「……そうですね。分かりました。皆さん聞いてください」
流石はリアム老師。医師としての判断能力を呼び起こすとは、年の功と言ったところか、マリアは意を決した様で立ちあがり、診断結果を告げる。
「……この子はデング熱に感染しています……」
ここに集まった人々は唖然とする。意味が分からなかったという訳ではない。なぜならその病気は……
「いや、ちょっと待て、その病気は氷河期以前に根絶しただろ。蚊のゲノム編集をして」
口火を切ってくれたのはアキラであった。
2020年代後半、デング熱、マラリア、黄熱、西ナイル熱などの蚊を媒介する感染症はゲノム編集技術により抗ウイルス耐性を持たせる事により、人類は根絶することができた。世界的なニュースになり、天然痘根絶に次ぐWHOの偉大な実績として評価を得たことは人々の記憶に新しい。
「確かにアキラ君の言う通り、だけどこの子の症状、血液検査の結果を見る限りデング熱なのは確か、そして今はこの子を助けることが最優先。感染経路は後でも調べられる」
当初の目的を失ってはいけない。先ずは目の前の事を、私のように並列処理など出来ないのだ。
「だから皆さん発熱、頭痛などの何らかの症状がある方は申し出てください。また子供は症状が現れない子もいます。子供達は全員診察します」
しかし、響動めきは収まらない。パンデミックの可能性があるのだから仕方がないのかもしれない。
そんな喧騒の中、リアム老師の杖を打ち付ける音が響く。
「そういう事だ。皆、先生の指示に従うんだ、ほれっ、お前もだ」
「いてぇなっ、ケツを叩くんじゃねぇよっ!」
アキラは尻を叩かれ顔をしかめる。リアム老師も腰を痛めているのだから、彼の為とはいえ、無理はしないで欲しいものだ。
「アキラ君。まずアセトアミノフェンを用意して貰いたいの」
「アセトアミノフェンって、痛み止めだよな……たしか」
『艇の倉庫の一番右奥の棚だ。在庫リストにもあるが、痛み止めならもう少し強いものもあるが?』
「出血を伴うから、ロキソニンなどの非ステロイド系抗炎症薬はリスクを増加させるから使えないの、後は経口補水液はある?」
「……経口補水液か」
アキラは腕を組み思案する。彼が悩むのも無理はない。
どうしたものか。
「もしかして、無いの?」
『有るにはあるが……とりあえず見てもらった方が早いな』
私達は彼女を飛行艇の中に案内する。問題の経口補水液だが実は前に訪れた町に殆ど配給してしまい。残りは僅かだったのだ。
飛行艇の倉庫内を漁る二人。
確認できた経口補水液の数は……
「500mリットルが100本……全然足りない」
やはりか、子供は助けられるかもしれないが、他に感染者がいた場合、十分とは言えない。
「アキラ君、砂糖と塩はあるかな?」
「まさか作る気かよ? けどここには綺麗な水が殆ど無ぇ。雪は汚染されていて飲めたもんじゃねぇぜ? この船にも多少積んであるが、せいぜい1人分の飲料水しかねぇぞ?」
砂糖と塩は十分ある。ただ真水は今の時代大変貴重。つい3カ月前に欧州で小規模な紛争があったほどだ。寒冷化に伴い、旱魃と氷雪により深刻な水不足に陥っている。降り積もった雪を溶かせばいいと誰もが思っただろうが、雪は偉大なる先人の付けによりpm2.5などで汚染されている。飲料水にするには浄化プラントが必要だ。しかし私達がこの町に訪れた本当の目的をアキラは忘れている。私はそれを思い出させてやらなければならない。それが相棒としての私の勤めだ。その前に確認しなければならないことが一つある。
『マリア嬢。水というのは限りなく純水でも問題ないか?』
「?……ええと、出来ればカルシウムなどが入っていた方が良いのだけど、別段問題はないかな」
怪訝な表情で首を傾げられたが、しかしこれで、我々の本来の目的が現在有効な対策に成り得ることが分かった。
『アキラ。私達が今日この町に訪れたのはあの装置を届ける為じゃなかったか?』
「ああ、そうかっ!変香式水素発生装置ならっ!」
「……えぇと……変香式……なに?」
『変香式水素発生装置だ』
この装置は何も無いところから水素を作り出すことが出来る。仕組みは『変香』という弱力系オブジェクトを使用する。このオブジェクトは凝縮したウィークボソンを階層性ディスバランサで調整し、大気中を飛び交う中性子とニュートリノを陽子と電子に変える。しかし問題なのは人体に有害な重水素を産み出してしまうことであるが、生成物を固定化するためエネルギーダイアグラムを固定化するオブジェクトが演算装置にインストールしてある。
「つまり、その水素を燃やせば水が出来るってこと?」
「そういうことだな」
「なんか貴方のオブジェクトってデタラメというか、何でもありというか……」
驚嘆にも似た呆れ顔で反則じゃないかと問われたが、オブジェクトは物理現象であり、実態が事象として発生している以上。それは反則でも奇跡でもない。
「俺のじゃねぇよ。そいうことは発明した奴にいってやれ」
『これで解決したということでいいか? そうしたらアキラ装置を外に運ぶんだ』
「人使いが荒れぇな?」
『君はAC使いが荒いがな』
「それはそれとして……問題は貴方よ」
「えっ?」
皮肉の言い合いの最中、突如景色が一回転した。
照明の光に包まれる視界。
冷たい床に後頭部を打ち付けられ、アキラは悶絶した。
「ってーなっ!! 何しやがるっ!!」
どうやら、何故かマリア嬢に投げ飛ばされたようだ。
アキラの激情を無視し、マリア嬢が覆い被さってくる。両腕を抑えつけられ、女性の腕とは思えない凄い力で、アキラは身動きが取れない。
文字通り目と鼻の先ほどの距離にマリア嬢の顔。白い肌の肌理までよく見える。澄みきった赤い真剣な眼差し。先ほど見せた医師としての顔つき。しかしこの行動は医師とはとても思えないが。
「さっきの火の粉のような光は何かな?」
「さっきの?」
「ドローンと戦っていたとき、火の粉のようなものを纏っていたよね。前に見たことがあるだけど、あれはチェレンコフ放射だよね?」
チェレンコフ放射。真空では一定の速度である光は、物質内での伝播速度は非常に遅くなる。物質内を電子が元の光速で動くとき物質を激しく振動し、元に戻ろうとするときに光子を放出する。音波ではソニックブームに例えられるだろう。
『その見解は間違いだ。あれはグルーオンの崩壊により生じたトップクオークが崩壊したことによる電子とニュートリノの放出によるものだ。オブジェクトにより電子の周波数は可視光まで抑えている、人体への影響はほぼ無いだろう。青白い光はただの火花だよ』
「……本当に?」
『仮にチェレンコフ放射というだけで、被爆というのは安易ではないか?』
ぐっと息を飲む仕草。自分が如何に早とちりな行動をしたか気づいたようだ。気不味そうに目をそらす。
「疑うんなら、診て貰ってかまわねぇよ」
とはいっても内部被爆測定器などがなければ診断できるはずもない。
やがて、観念したかのように重いため息をついた。
「……まぁいいわ。一応暫く経過観察させてもらうからね」
ため息をつきたいのはこちらの方だ。淑女たるものが男に股がるとは、はしたない。
「それなら早く退いてくれねぇか?」
アキラに指摘され、ようやく現状を正しく認識したらしい。
赤面するくらいなら、押し倒さなければいいものを、耳まで赤らめているではないか……
「ごっ! ごめんっ!!」
「そんな飛び上がるように起き上がったらっ!」
「キャッ!」
言わずもがな。可愛らしい悲鳴が溢れる。案の定足を滑らせ尻餅をついた。涙目になるほど痛かったのか、尻を摩っている。
体勢が悪かったのだ。まあ転んだのは必然だな。
「おいおい、大丈夫かよ?」
「だ、だいじょうぶ……」
「ほら、掴まれ……」
早々に起き上がったアキラが手を差しのべる。
触れる指先。俯いた顔が含羞の色に染まり、気恥ずかしさを滲ませたような瞳がアキラに向けられる。
「そんな顔すんなら端からやらなきゃ良かったんじゃねぇか?」
「誰のせいよ」
君の早とちりのせいだと思うが、あえて音声に出さないで置こう。
他愛のない居座古座の後、私達は再びフロートバイクを走らせる。牽引しいるのは凡そ1メートル四方の金属製の赤い立方体。
変香式水素発生装置「フレーバーハイドロゲンジェネレータ」
略してFHG。
入り組んだビル街を縫うように走り10分ほど目的地に到着する。
そこは設置先として選んだ町の水素ステーション跡地。ここを利用する車両はもはや無いが、耐震性といい、耐火性といい、水素を貯蔵しておくことに適したところは他には無いだろう。
「さてと、始めるとしますか」
『まず、水素製造装置と圧縮機の接続をカットして、FHGを接続する』
「分かってるって」
接続には物理的な手段を用いる。つまり刃物による切断である。
鼻唄混じりに振り下ろされる『天羽々斬』
不要な分厚いパイプを次々と切り落としていく。銀色に輝く美しい断面はアキラの腕と刃の切れ味を賞賛しているかのようだ。
「ソーラーバッテリーが付いていて良かったぜ」
『ああ、まったくだ。そうでなければこの施設は使い物に成らなかった』
冷却する為のプレクーラーも充填する為の圧縮機も電気がなければ動かない。動力がないと、代わりの動力機の設置から始めなくては成らなかった。
それから用意しておいた代わりのパイプを切り取ったパイプとFHGに繋げるべく、オブジェクトを使い溶接する。
「紅、マリアに何であんな嘘をついたんだ?」
アキラは電磁気力系のオブジェクトで次々とパイプを電気溶接している。
『嘘とは、被爆の件か?』
線量は極限まで押さえているが、全く被爆しないというのは嘘だ。人間関係を円滑にするためには多少の嘘も必要だ。
『あのまま診られていたら支障が出ていたが?』
「そうなんだけどよ。後でバレた時にどうすっかなって……」
『分からんでもないが、バレた時に共に怒られよう』
アキラの身体は普通の人間の生身ではない。「TQX素体」オブジェクト使用に特化した生体義体で驚異のDNA修復速度により、放射線耐性を獲得している。
致死被爆量は常人の10000mSvの約10倍まで耐えられる。
故にまず大丈夫だろう。
その後、圧縮機、プレクーラー、充填器、計測器などをチェックし、端末に新しい制御プログラムをインストールを兼ねて、戦闘の直後故、アキラを事務所で休ませる。
正午過ぎから始めて正味四時間程で完了した。
町に戻ると雪と氷に支配された白い摩天楼は、朱金色の残照と濃紫色の影法師にその支配権を写し、静寂の他に恐怖が顔を見せ始めていた。
気温は氷点下40℃まで下回り、火を絶やそうなら凍死は避けられない。身近に感じる死の恐怖というものは私にはなかなか理解しがたいものである。
私達は飛行挺の一室へと足を運ぶ。患者の為に急遽用意した病室だ。デング熱は蚊を媒介とするため、人から人への直接感染の恐れはないが、町の人々の精神的な配慮により遠ざける必要があった。私達を含め俄知識によるパニックで暴動など起こったとなれば目も当てられない。
「なんだありゃ?」
そわそわと屯する子供たちが病室の前を占領し、病室を覗きこんでいる。
今朝あった少年達のようだ。確か名前はウィルとメルヴィナだったな。
アキラはまた馬鹿なことを思い付いたようで、薄ら笑いを浮かべながら、息を潜め、足音を消す、視界に入らないよう、慎重に徐々に近付き、背後から。
「ようっ! どうした? お前ら!」
背中が跳ね上がる。背後から子供達を抱え込み、暴れだす少年達を押さえ込む。
「やめろっ! 放せ!」
「放して!」
「おいおい、ウィル、メルヴィ、落ち着け、俺だ」
ドアが音を立てて開かれる。憤慨したマリア嬢が仁王立ちで佇む。これ自動ドアなんだが。
「うるさいっ! ここは病室よっ!」
何かの破片が落ちた。この歯車は従働プーリー。ターニングベルトも垂れ下がっている。これは直すのに時間がかかるな。
アキラを押し倒した時もそうだが、なんて馬鹿力だ。私は至って冷静に分析する。直すのは私では無いからな。
「アキラ。あなたは一体何をやっているの?」
アキラが子供を二人脇に抱えている姿を見て、信じられないといった表情。呆れて頭を抱えている。
「こいつらが病室を覗き込んでたからな。捕まえてみた」
マリアの視線が子供達とアキラを往来する。腕を組み、溜息を付き、一言。
「捕まえてみたって……馬鹿なの?」
「馬鹿って……それよりあの子の様子は?」
必死の苦笑を噛み殺し、少女エルの容体を確認する。
アキラ。君のその顔のひきつりは自分の愚かしさの反省からくるものか? それとも馬鹿にされ不快感の抑制からくるものか?
「……入っていいよ。今眠っていたところなんだけど、さっきので起きちゃったかも」
『それは君の……いや、何でもない』
ちらりと刺すように睨み付けられ、私は音声をオフにする。これ以上言うとアキラの手首を螺切られそうだ。
淡い常夜灯に照らされた病室のベッドに、エルが静かな寝息を立てている。あれほどの騒ぎでも起きなかったのには安心した。
「それで容体は?」
「今、安定しているかな。早めに対処できて良かった。後3,4日すれば熱が引いてくると思うよ」
「だとさ! お前ら良かったなっ!」
またしても、ウィルとメルヴィの頭を豪快に撫でる。だから嫌がっているからやめないか。
「それにしても、問題はどうしてデングウィルスに感染したかなんだよな……」
「それはやっぱり蚊だったよ」
マリアはエルの首の付け根をアキラに見せる。
赤く腫れて、少し皮が捲れている。
「ほら、ここ、痒くて掻きこしたんだと思う……」
「……でも、何で蚊が? 自然界にはもういないんじゃなかったか?」
蚊は既にレッドリスト、絶滅危惧種に指定されている。現存するのは各研究施設に保管されている種のみだ。自然界に存在は報告されていない。
「自然界に存在が報告されていないというだけで、イコール絶滅って言い切れなかったことじゃないかな?」
まぁ、そういう可能性はあるが――
「……どこか府に落ちねぇが、まぁ、一応この子が感染する前に何処で何をしていたかだけでも、探ってみる必要があるな」
アキラはウィルとメルヴィの肩を抱く。
「腹減っただろ! 飯食ってくか!」
粗暴のように見えてアキラの特技は料理であったりする。食糧難の今を生き抜くために創意工夫を凝らしていた弊害とも言える。
今は寒冷に強い穀物や野菜の開発。微細藻類養殖。昆虫畜産。培養肉農業により各国の食糧自給率は徐々に回復しつつあるが、それでも飢餓は未だ無くならない。
今も昔も食糧難の時代において入手困難なのは調味料だ。
アキラは仕事の傍ら調味料の開発を趣味にしている。言うならばアキラにとって料理とは体のいい新作調味料の実験である。
夕食は思う存分腕を震い、町の皆の舌を唸らせた。
『奇跡だ……』
この呼称は私としても不本意だ。
大抵私の忠告を無視し、抽出に失敗するのだが……
アキラは手早く夕食を済ませ、船のコックピットへと戻っていた。
「失礼な。今回は理論をちゃんと組み立てたんだ。失敗するわけねぇだろ」
『……しかし、通常はグルタミン酸含有量1600mgに対し300mg少なかった。これでは物足りなかったと思うが』
食糧難故、普段味気ない食事がされていたことに救われたのだと言うべきだろう。
「……気にしていることをづけづけと……」
アキラが作ったのは味噌と醤油である。寒冷化により殆ど大豆が採れなくなり、他のあらゆる種で実験を行っていた。
今回のは発酵に何かしらの問題があったのだろう。
不貞腐れてアキラは眼を閉じる。まったく仕方がない奴だ。背もたれに寄りかかる。
『そう不貞腐れるな。今までに比べれば良い出来だったさ。おっと、通信が入ったようだ』
アキラの眼前にホログラムディスプレイを展開し押し付けるが――
「…………」
そっぽを向いて、アキラは出ようとしない。子供か。
まったく居留守を決め込む気じゃないだろうな?
後が怖いぞ。
『いいのか? キサキだぞ?』
「はぁ!? それを早く言えよっ!」
相手の名を上げると、飛び起きホログラフィーディスプレイの通話ボタンを押す。
『兄さん!』
「よ、ようっ! キ、キサキ」
写し出されたむくれた顔の少女の名はキサキ。アキラの妹。明るい栗色の癖毛風ナチュラルカール。横分けの前髪が大人っぽさを演出しながらも、頬辺りでカットすることで可愛らしいさも加えている。そしてアキラと同じ琥珀色の瞳はこの神藤家の特徴だ。
『……毎週連絡するように言いましたよね?』
「悪りぃ、忘れていた。ちょっとバタバタしてたからな……」
本当にバタバタしてたな。
『……まったく、義姉さんが亡くなってからというもの、兄さんは――』
「……キサキ」
少しアキラの声色に怒気が籠る。無意識に出たような愚痴が、琴線に触れた事に気付き、キサキの表情が陰る。
気不味い雰囲気が流れ、アキラも俯き加減で視線を反らす。
三年前。生別れた母との再会と引き換えにアキラは大切な者を失った。キサキも私も何も出来なかった。
アキラの大切な妻を無くした。交際期間も短く、籍を入れてからの結婚生活も数年だったが、それでも濃密で、傍らにいた私も互いにどれだけ愛し合っていたかよく知っていた。その繋がり断たれた時の喪失感も。
『……ごめんなさい。それで来週には帰ってこれるんですよね?』
話題を無理矢理でも変えようとするキサキの気遣いにアキラの心も少し慰めれただろうか、それとも気を遣わせて逆に気を咎めたのだろうか。
話の流にアキラは乗った。
「あ、ああ。その予定だぜ。出発前に言ったろ?」
『母さんが心配しています。なるべく早く帰ってきて下さいね。あれ以来、ようやく家族水入らずの時間が過ごせると思ったのに兄さんは仕事ばかり……』
「生活が掛かってるからな。それに生まれてすぐ生別れちまったからな。お袋は俺よりお前との思い出が少ないんだ。お袋にはお前が一緒に居てやれ」
『またそんなこと言って……兄さんも一緒じゃなきゃ駄目なんです!』
「……分かったよ。なるべく早く戻る」
突然、艇のフロントガラス越しに見えた後ろのドアが開かれる。
暗闇に映し出された白いシルエット。
「ごめんね。シャワーを借りちゃって」
湿った髪をバスタオルで丁寧に拭き取りながら、スリッパが乾いた音を立ててアキラに近づいてくる。
アキラがその声の主に振り返って。
「……!」
立ち上がろうとして、崩れるように椅子から落ちた。
火照った体を冷やすためか、ショートパンツにブラトップというラフな格好。たくし上げた髪に艶々した項。むき出しになった桜色の太腿。着崩した服の隙間から乳房の端の膨らみがほのかに見える。憐れもない姿のマリアを眼にし、指をさして叫ぶ。
「お、お前っ! なんて格好してんだっ!」
「?……何か変かな?」
マリアは首を傾げる。 自分の格好を確認し、やがて合点がいったようで、何故か意地の悪そうな口許に浮かべる。
「……アキラくんって、もしかして童貞?」
マリアの顔が近づいてくる。アキラの紅潮した顔を拝もうとし姿勢が前のめりに、慎ましい胸の谷間にアキラの視線が泳ぐ。
数年彼を見ていたが、どうも豊満な胸の女性より、慎ましい胸の女性の方が好みのようだ。それは人類の間では特殊な性癖に属するらしい。人工意識である私には理解出来ない話だ。因みにアキラは性交渉を経験済みである。
『兄さん? そこのビ……綺麗な方はどなたですか?』
今、ビッチって言いかけなかったか? beautifulの発音がおかしい。
「あ、ごめんっ! 電話中だったんだねっ!」
『あっ! 待ってくださいっ!』
足早にこの場を去ろうとするマリアをキサキが慌てて引き留める。
『兄さん。紹介してくださいよ。綺麗な人じゃないですか? いつ何処で知り合ったんです? 唐変木な癖して以外に隅に置けないですね?』
「はぁ……? 何言ってんだよ。お前」
にやにやと卑しい笑みを浮かべ、キサキ聞いてくる。
確かに唐変木だが、そこはせめて「とぼけた顔」と言ってやれ。
呆れた顔を見せるあたり、アキラにその気は無いようだ。
「ったく、しょうがねぇな……」
観念しろ。キサキが一度面白そうと思ったものを見逃す訳が無いだろう。
それから怒濤の質問攻めに合い、解放されたのは1時間後の事。
エルの容体を見ると言うことで、マリアが席を立ったことで打ち切られた。
『相変わらず、元気そうで何よりだったな』
「元気というか何て言うか……」
アキラはげんなりした様子であったが、ともあれ兄妹仲がいいというのは良いことだ。
アキラは小型端末を操作し、地図アプリケーションを起動させる。プロジェクターから写し出される町の3D地図。
「紅、ウィル達の話から遊んでた場所を表示してくれ」
私は地図上に赤い点を表示する。そこは少し開け、平屋の建物が並ぶ場所。
「下水道路を表示してみてくれ」
成る程、蚊は水場に卵を産むが、しかしこの環境下では凍結して機能していると思えないが。
下水道路の投影を開始した。3D地図の下部に張り巡らされる水路が表示される。
「ここと、ここの建物の情報を表示してくれ」
アキラは二ヶ所の建物を指で触れる。1つは赤い点から北2km離れた場所。もう1つは皿に北10km離れている。何れも河上にあたるようだ。
私は建物情報の検索し、地図に表示する。
『前者は研究所ようだ。ここはかつて動物の感染症など衛生研究を行っていた施設のようだな。後者は……成る程そういうことか』
「ここと、ここは水路で繋がっているな」
『そうだ。研究所の河上にあたるこの施設は、昔、常温核融合の研究を行っていたベンチャー企業の所有であった建物だ』
これで合点がいった。ベンチャー企業の建物には投棄された放射性物資があるものと推測される。これは放射性レベルを調べれば分かることだろう。
「ということは、そこで放射線により融解された水が下水道に流れ、水場を作り、研究所には処分されていなかった蚊があった。それが水場で繁殖した」
『あくまでも仮説だがな。調べる価値はあるだろう』
廊下に人が近づくのを検知し、私は監視カメラを動かし人物を確認する。
ふむ……マリア嬢か、両手にコップを持っているな。
ふとマリアがカメラに視線を写し、笑顔をみせる。
視線を感じたからかもしれないな。感の良い子だ。
『暖かい飲み物を持ってきてくれたのだな。アキラに代わり感謝する。今開けよう』
「ありがとう」
カメラに向かって頬笑む。私は扉を開き彼女を招き入れる。
『アキラ、マリア嬢が茶を淹れてきてくれたぞ? 少し休憩がてら、さっきの話を聞いてもらおう』
「ああ、そうだな」
「じゃあ、はい」
「あんがと」
アキラはマリア嬢から、マグカップを受け取り、黒色の液体に満たされたカップをまじまじと見つめる。
「……こ、これは……」
「あれ、苦手だった?」
ああ……
苦手だとかそういう意味ではないのだよ。
「もしかしなくても、あの豆を使ったのか?」
アキラの顔を見る限り、香りで直ぐに分かったのだろう。アキラが祝いの時に使おうと大事に保管しておいた豆。今となっては希少品中の希少品であるブラックアイボリーを使ったのだ。象の糞から採取できる豆で、生存する象はもう数頭である現在。この豆をもはや作ることは不可能と言われている。さてオークションで出品したら幾らの値がつくだろうか。
あと一、二杯分であったから全て使ったのだろう。
「だって、代用品があったけど、あれって不味いし、いい豆があったからね。淹れてみたの。私、珈琲入れるの得意なんだ」
自分以外の人間が台所に入ることを想定していなかった結果だ。仕方がないと言う他ない。
「凄くいい香り。珈琲じゃないみたい。これなんて言う豆? キリマンジャロかな? コナかな? それともブルーマウンテン?」
ありきたりな銘柄を列挙する。
世界三大コーヒーを列挙すれば当たると思ったのだろう。
「ブラックアイボリー」
その場が外気に触れたかのように凍りつく。
その豆の価値に気づき、白い顔が更に青白くなっていく。
「……………………ごめん、もう一度言ってくれる?」
聞こえてない筈無いだろうに。
「ブラックアイボリー」
「キリマンジャロか……さすがいい香りだね」
現実逃避をし始めた。
「ブラックアイボリー」
「………………」
沈黙。
「ブラックアイボリー」
「連呼しないでよっ!! 悪かったわよっ!! 知らなかったんだからしょうがないじゃないっ!! 」
逆ギレ。
これを愉快極まりないというのだろうか。
何にせよ。一息ついたところで本題に入ろうとするか。
マリア嬢がコーヒーを半分飲み終えた頃、私は先程調べた蚊の発生源について彼女に見解を求めた。
「なるほどね。蚊の放射線耐性がどれ程のものなのか分からないけど、昆虫って放射線にかなり強いから、調べてみる必要はあるかな」
と曖昧な解答。
そのことを彼女に伝えるが
「仕方がないじゃない。専門外なんだから」
と一蹴された。
まぁ、予測していたことであるが。
生物学のことで大体のことは分かっても、昆虫学などの狭い分野のことになると分からないことも出てくるだろう。
「じゃあ、俺等は明日ここに行ってみるから」
「え? なんで? 私も行くよ?」
この娘は何を言っているんだ?
「はぁっ!? 何言ってやがるっ 危険だっ!」
「貴方こそ何言ってるのっ! 貴方がもし感染して倒れたら誰が治療するのっ!」
「……!」
アキラは鳩が豆鉄砲を食らったような表情をする。一方マリアは狐に摘ままれたような顔をしている。
「ごめん、そんなに驚くとは思わなくて……」
「違うんだ。前にそれと似たような事を言われて、そいつを思い出しちまっただけだ。気にすんな……」
アキラが驚いたのはてっきり彼女が声を張り上げたせいだと思ったんだが違うようだ。
「……そっか、私も悪かったね」
『付いてくるといっても、あの子はどうする』
心配なのはエルという少女の容態だ。さっきの話では二、三日すれば熱が引いてくると言っていたが。
マリア嬢は少し考える素振りを見せて。
「私はこれで遠隔で診察出来るから大丈夫だと思う」
マリアの右手甲をゆるりとアキラの目の前に掲げる。
白く淡い色の光の粒子が、彼女の手の甲から、綿毛のように揺蕩いながら現れる。
「これが私のオブジェクト、ニュンフェ」
聞いたことの無い名のオブジェクトだ。
「初めて聞くが、それ自作なのか?」
「まぁ、そんなところかな」
話によると彼女が自らゲノム編集を行った光合成細菌によるバイオコンピュータ兼汎用デバイスだそうだ。
彼女は光の粒子を人の手の形に構築する。プログラムを走らせることで、それは正しく人の腕の如く、滑らかな動きを見せた。しかし容体が悪化した場合、彼女自ら遠隔操作を行わなければならない様で、それだと集中力を欠いてしまうだろう。
エルの容体が回復するのを待ってからでも遅くは無い。ここは一つ。
「しゃぁねぇ、エルの容体が回復してからにすっか」
私が提案する前にアキラの口から、その言葉が聞けるとは思っても見なかった。
アキラも彼女のオブジェクトの難点に気づいたか
「いや、ちょっと待ってよ。大丈夫だって」
「そのオブジェクト、細菌があんたと接触してないと使えないだろ。しかも広範囲に広がれば演算能力が落ちる」
オブジェクトの三要素。エネルギー、演算装置、出力装置。彼女のオブジェクトの場合、演算装置と出力装置が一体化している。出力装置として通信領域に割けば、それだけ演算能力は落ちてしまう。私の推測だが10km離れてしまえば、さっきの人間のように繊細な動きは出来なくなってしまうだろう。
「でも、このままだと感染が広がる恐れが――」
「今は目の前の事に集中しろよ。まったくあんたは俺の知っている誰かさんそっくりだ」
「……」
マリアはアキラから視線を反らし、俯き沈黙する。唇の動きから何かを呟いたように見えたが、音声は認識出来なかった。動きを見る限り彼女は「ごめんなさい」という言葉を発していた。
しかし、妙な娘だ。
ただアキラの琴線に触れたと思っていても、声を殺す必要はあったのだろうか。
「すまん、湿っぽくなっちまったな。そう言うことだから、出発は3日後にしよう」
アキラはコーヒーカップを手に取り立ち上がろうとするのを、マリアはカップを抑え制止させる。
「ちょっと待って、一つ約束して」
「何だ?」
交換条件にしては随分一方的かつその目的も意図も不明瞭な気がするが。
「絶対一人で行くなんて、無茶な事をしないで」
『問題ない。私がさせないよ。君は虫除け対策を考えてくれ』
「……」
最初は何を言われたか分からない様子だったが、合点言ったようで、口許に少し笑みが見えた。
「そういうことだ。頼んだぜ」
「うんっ! 分かった! 任せてっ!」
意気込みや充分で何よりだ。
『……ところで具体的な計画として、蚊をどうするかだが、絶滅危惧種であるからして、許可なく殺傷すると罰則を受けるぞ』
「人命が懸かっているんだぜ? そんなこと言ってられるかよ」
『しかしだな……』
「ダメよ。 無闇に殺すなんて、蚊だって生きているんだから」
他者の思想を口を出すつもりはないし、殺生禁断も結構なことだが、この場合感情を挟むべきではなく、被害が広がる前に駆除する以外の方法しか無い。更に問題はその許可をいかに短期間に取り付けるかなのだが……
「でもな、実際駆除するしかないだろう。今から手続きして、どれくらいで下りるか」
「私に考えがあるから、任せてくれないかな。無害化できれば殺す必要ないよね?」
「……まぁ、そりゃあそうだけど」
『……』
どうやって無害化するのか、興味に尽きないな。
「手続きは医師団を通じて許可を取り付けておくから、既に疫学調査の許可は取り付けてあるし、消毒とかの許可は直ぐ下ろせると思うよ」
意外に根回しが早いな。感染症の治療を行うに当たって許可を取り付けておいたのだろう。
「分かったよ。頼りにしてるぜ、先生」
「任せなさい!」
『倒壊の危険もある。その他の危険は我々に任せてくれ。君の身の安全は保障しよう』
「頼りにしているよ。アキラ君。紅」
頼りされたからには仕方がない。期待に応えてみせよう。
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「暗殺少女を『護』るたった一つの方法」
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「あのヒマワリの境界で、君と交わした『契約』はまだ有効ですか?
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