縄文の土器と室町のイラストを比較してみた
私は今回の日本・東洋美術史Aで出題されたレポート課題『授業で取り上げた作品を二つ選び、比較して共通点と相違点を論じ、美術作品のもつ〈機能〉について考察し、述べる』に対し、『人面香炉型土器(釣手土器)』 縄文時代中期 井戸尻考古館所蔵と、『狐草紙絵巻』 室町時代 個人蔵の二者を選択した。
原初的な焼き物の器と、時の将軍お気に入りの小さなイラスト。まるでものが異なれば作り出された時代も大きく異なるこの二つを並べ、詳しく調べていくとそれぞれの時代に生きた人々の意識が浮かび上がってくるのが分かる。
前者の『人面香炉型土器』、一般的には「釣手土器」の名称で呼ばれているそれは、器の内側に煤がこびり付いている事から、火を灯してランプのように使用していたと推定されている。
なぜランプが人間をかたどり、かつ突起と文様とに覆われて凸凹である必要があったのだろうか。
レポートの前半部分の書き出しに手を貸してくれた書籍に興味深い一節が記されている。
『容器に使い勝手の良さを求めるのではなく、使い勝手を犠牲にしてまで容器にどうしても付託せねばならぬナニカがあったのだ。』
まず縄文時代当時は女性中心社会で、かつ女性がシャーマンの役割を担っていたりと様々な意味合いでパワーを持つ存在だと信じられていたという。また、土器と同時期につくられていた土偶にはモチーフに女性や女性的な特徴を用いた表現が多い。そして、『人面香炉型土器』は女性の肢体や性器をモチーフにしていることが分かる。
また、『縄文土器』はおおよそ器と言うより前衛芸術のような、文様や突起に覆われた焼き物であることを誰しも教科書で見て知っているだろう。
縄文時代とは、我が国の歴史区分では黎明期・旧石器時代の次の次、日本史のあけぼのとも言える時代だ。しかし、なんと八千年という西暦など比べ物にならない程の長きにわたり、多くの人々が日々の暮らしを営んでいたのである。
氷河期が終わり、訪れた温暖な気候は豊かな実りをもたらし、厳しい環境の中で死に物狂いでケモノを追いかける必要がなくなった人々の意識をガラリと変化させ、そして新しい文化と生活様式を生んだ。
そんな中で作りだされていた数々の美術作品は、穏やかな環境でおよそ日本史上最も平和な時代だったかもしれない時代に暮らしていた人々の豊かな感性と想像力と創造力とを膨らませるのに十分な働きをしただろう。
また、豊かな暮らしは女性の働きの場と台頭をも広げたのだろう。
出産という子孫を生む〈奇跡〉を起こす『女性』と、人々の拠り所であり、暮らしに寄り添い、支えた『火』。この二つがもつ聖性と象徴性とが十分に込められたのが『人面香炉型土器』という作品なのだろう。
次に『狐草紙絵巻』である。これは室町幕府第九代将軍、足利義尚が幼いころ気に入っていた絵巻物だ。
一万年近くもの大昔と比較すると、まるでつい最近のことのようにも思えるこの時代の、しかもややマイナーな絵巻物にどんな留意すべき意味合いがあるというのだろうか。
絵巻物とは、人々が口伝えにした出来事や〈物語〉などを文字とイラスト、布と紙の媒体という日本民族が長きにわたる営みの中で独自に編み出した方法でもって記したものである。
そして・公家物・僧侶物・武家物・庶民物…等々、絵巻の細かい分類が成されていることからも、狩猟や採集によって食料を蓄え、土器や土偶を量産していた頃から一万年近くも経っていたこの頃には『人間』または『個人』という概念が西暦2017年の現在ほどではなくとも十分に強くなっていたことが分かる。
後者の絵巻物のおおまかな展開は『老僧が美しい女に化けた狐の色香に惑わされたあげく化かされ、別の僧に助けられるが散々な目に逢って娘の元へ帰る』という悲哀と共にユーモアを感じさせ、しかも『得体の知れない美女に誘われるとロクな目に逢わない』という日本昔話のお約束を忘れないという出来上がりである。
作者は当時の室町人たちに違わず多数の人間の存在を意識し、かつヒトを化かすケモノや美しい女性に対する現実離れしたスピリチュアルなイメージを無意識のうちに意識して筆に込めたのだろう。
以上のことから『人面香炉型土器』、『狐草紙絵巻』の共通点と相違点をまとめた所、共通点は 「モチーフに女性を用いている、宗教・崇拝的、性的なテーマ」であり相違点は「性・性交の概念の捉え方について前者は〈子孫を生み育てるための高尚なもの〉後者は〈俗世的で人を惑わし堕落させるみだらなもの〉」であることが分かる。
どちらの美術作品も各々の時代に日々の暮らしを営んでいた人々の意識を現在にまで浮き彫りにしてくれるが、崇拝や宗教に対する意識、そして女性に対するイメージがまるで全く異なっている。
そういえば昨今は『女性が活躍する社会うんぬん』と耳にすることが多くなっているが、もしや日本の千数百年にもわたる男性中心社会が飽和点を迎え、再び女性中心社会へと回帰しようとしているというのだろうか。