神秘の世界
クロスジギンヤンマが滑空する小さな池の前から更に奥へ進み、柵で囲われた大きな池(池から突き出た止まり木にカワセミがいて長沼さんがキャーキャーしていた。瑠璃色とオレンジのボディーに白いラインが入って綺麗だけれど、至近距離では見られず撮影失敗)を横目に、茂みを抜けて終着点まで辿り着いた。この辺りは秋になると砂利道に沿って彼岸花が咲き連なり、一直線に伸びる紅は、まるであの世へ連れて行かれそうな息を呑む美しさがある。
原っぱを見渡せる、高台とまではいかないが見晴らしの良い場所で、三郎、友恵、美空はスケッチブックに絵を描き始めた。三郎はカワセミを、友恵はクロスジギンヤンマ、カワセミ、ローラー滑り台、電車やバスの車内といった、きょう彼女が見てきたものを小さく。美空は目の前に広がる原っぱをややぼかし気味に描いていた。おとぎ話の絵本らしいタッチだ。
そうか、里山公園で取材したからといって必ずしもそれをそのまま作品に反映させなきゃいけないわけじゃないんだ。例えば東京の摩天楼を舞台にしたこの地とは全く無関係の物語だったり、外国の森で小人が暮らす物語だったり、目の前の光景にとらわれず、浮かんだものを素直に描けばいいんだ。
気付いたところで何も浮かんではいないけれど、そう心に留めておこう。
三人の鉛筆を走らせる手に迷いはなく、みるみる描かれてゆく絵はどれも上手で、僕の絵にもならない何かとは大違い。僕もせめて表情を読み取れるくらいの絵は描けるようになりたい。いや、描けるように頑張る。
陽が傾き、空気が少しひんやりしてきたと思って腕時計を見たら16時を過ぎたところだった。黄昏時はどの季節でも切なくなる。
「あぁ、いいなここ。地元の人以外は滅多に来ないトコだよね」
長沼さんが手持無沙汰でそわそわしていた僕に話しかけてくれた。
「うん、あ、はいっ!」
いけない、うっかりタメ口を利いてしまった。
「いいよ別にタメ口で」
アヒル口で目を丸くして言う長沼さんは「なんだよつれないなぁ」と表情で訴えてきた。しかし僕はそんなに簡単に人と馴染めるほどコミュニケーションが上手ではない。
「そう、ですか?」
「うん、私がいいって言ってるんだからいいんだよ。ぶっちゃけタメ口利かれるとウザい奴もいるけど、真幸くんと美空ちゃんのことは好きだから」
長沼さんはにこっと僕らに微笑みかけた。僕は照れて彼女を直視できず反射的に気持ち下を向いた。僕の心の奥に閉ざされたものを、やはり彼女は見抜いているように感じる。「こっちにおいで!」と差し伸べてくれた手を、僕はまだ何本かの指が触れ合う程度に留めている。
これは、無駄な心の距離だろう。
長沼さんが外側からコンコンと様子見で叩いている殻を、僕が内部から打ち破れば、見えてくる世界や得られるものがより豊かになる、そんな予感がする。
「私もですか?」
美空が鉛筆を止めて言った。
「もちろん!」
長沼さんは笑顔で答えた。
美空は困ったようにもじもじして、頬を赤らめた。かわいい。
美空はタメ口になると素っ気なかったりフラットなトーンで饒舌に喋る変な子になるから、本人も気にして基本的には敬語で喋るけれど、長沼さんはそれを知らないだろう。知れたところで何がどうなるわけでもなさそうだけれど。
風向きが南から北に変わった。
日没まではまだ少し時間があるけれど、そろそろ引き返す頃合いだろう。足元がよく見えなくなると穴に脚を突っ込んだりヘビを踏んで噛まれる恐れもある。
それになんというか、暗くなってからのこの場所は、ホタルの季節を除いて僕ら人間が立ち入って良い場所ではないように思える。
そこにいるのは自然界に暮らす生きもの、捨てられたペットやその子孫、そして、現代科学では解明されていない、肉体を持たぬものたち……。
なぜだろう。里山や谷戸に踏み入ると、その場所でしか感じられない神聖な感覚に全身を覆われる。そういうのを、この四人は感じているだろうか?
答えを訊くまでもない。他の人ならともかく、この四人にならば。
お読みいただき誠にありがとうございます!
大雪の中、外出中の皆さまおつかれさまです。足もと、頭上にお気をつけください。
次回(27日)より、本作は毎週土曜日の更新とさせていただきます。引き続きご愛読のほどお願い申し上げます。




