アフレコ前の発声練習
なんということだ。僕が考えた物語より美空が考えた物語のほうが先に完成してしまった。
宮ヶ瀬から帰るときに乗った本厚木駅行きのバスに揺られながら見せてもらったスケッチブックには、それはもう作品にしやすい画力バッチリの下絵が描かれていて、ストーリーも良かった。絵本チックだけれど、子どもにはちょっとばかり刺激が強いような気もした。オトナの絵本だ。
後日、友恵に見せたら泣いた。わんわん泣いた。あの子涙もろい。美空の場合は一人で絵を描けるから、仕上がりも早かった。
とはいえ日頃の学業や家庭問題もあって、仕上がるまでには半年かかり、現在2008年3月下旬の春休み。もうソメイヨシノが八分咲きだ。
昨年11月に友恵が作業場として平屋の家を借りた。一般的な建て売り住宅を平屋にしたタイプのシンプルな家。外壁はグレー。1LDK。
僕らはよくそこに逃げ込んでは友恵の手伝いをしている。僕は食糧の買い出し、美空は料理と、たまに原稿にも手を出す。ちゃっかり商業誌に美空の絵が載っている。
結果、僕が最も出遅れている。
僕もちゃんと頑張らなきゃ。このままではいつまでも‘やりたいこと’ができない。
さて、きょうは美空が考えた絵本に声を吹き込みピクチャードラマにして、動画サイトで公開予定。アフレコ場所は湘南海岸学院の放送室。
声を当てるのは、同校同学年の声優志望者、烏山澄香と、羽賀原瑠璃、ほか数名。
後ろ姿が美空とよく似た澄香が主人公のムクドリ役。
いわゆるアニメ声でショートヘアのオタク女子、瑠璃がムクドリと暮らす人間の女の子役。
脇役として、僕がカラス役とムクドリの群れのボス役。
美空がムクドリの群れの一員で、主人公の仲間役。美空は監督も兼任。
絵はほとんど美空が描いて、友恵が少し手伝った程度。絵が描けて物語を組み立てられて作詞作曲ができる星川美空という女、プロデビューこそしていないものの、けっこうな逸材だと僕は思う。
放送室には友恵もいる。ガヤその他、必要に応じて何かしらをやってもらう予定。
「で、なんでアンタがいんの?」
「カラス役だからだよ」
「ぷっ、お似合いじゃない」
「なんだとこのクソアバズレ女! 烏山なんだからお前がカラスやればいいだろ!」
なお、今回の配役は美空が選んだ。
「アバズレ!? 最っ低! ほんと最低マジ最低! 言いがかりも大概にしてよね!?」
さすがにこれはまずかったか。この場にいる全員の冷たい視線が突き刺さる。
僕の存在を不愉快に感じている澄香。美空と同じ髪型で後ろ姿はそっくりな美空もどきだが、目付きは美空が若干垂れているのに対し、澄香は若干吊り上がっている。
ある日、茅ヶ崎駅南口でバス待ちをしている澄香を美空と間違えて背後から肩を叩き、振り返ったときに人差し指でぷにっとしてしまったのが気に食わなかったらしい。ちなみにこれが、僕と澄香の出会い。
つまるところ僕は、わざとではないにしろ見知らぬ人にちょっかいを出してしまった。本当に気持ち悪いんですけどとか、散々なことを言われた。
そんなの言われなくても重々承知だよ。僕は気持ち悪い変質者だよ。それでも『凡人』って言われるよりは遥かにマシだ。
「はいはい喧嘩しないの! 発声練習しよう!」
と、仲裁に入ってきたのは瑠璃。発声練習、あぁ、『あめんぼあかいなあいうえお』ね。
僕と澄香は互いに舌打ちして、背を向け合った。
「はーい、じゃあ発声練習を始めましょう! 良かったら友恵ちゃんも参加してね!」
「オッケー!」
「はい、じゃあ行きます。あいうえおいうえおあうえおあいえおあいうおあいうえ。これを息継ぎなしで、はい!」
え、なにこれ、瑠璃、なんて言った?
「あいうえおいうえおあうえおあいおあいうえ」
僕は「あいうえおいうえおあおあいうええおえおえあうあうわお」と噛みまくったが、他3人はあまりつかえていないようだ。特に澄香はスラスラなめらかに発音して腹が立った。
これをわ行まで続けたのだが、終わったときにはみな息絶え絶え。アフレコ前からクタクタだ。
なるほど、僕はこれまでアニメづくりといえば、物語や画を中心に考えていたが、声優というポジションも物凄く大変そうだ。長沼真央という人気声優と交友関係にありながら、理解しているつもりでどこかで見落としていた。
「はい、じゃあ5分休憩したら、本番入りまーす!」
さて、いよいよアフレコ本番だ。




