麗華の本気と美空の火種
「あら、ごきげんよう、星川さん。横須賀線の振替乗車ですの?」
「ごきげんよう菖蒲沢さん、えぇ、さようでございます」
ごきげんなどまったくよろしくないけれど、私は作り笑顔でおしとやかなお嬢さまを演じる。
鵠沼から乗ってきて、私の正面に立った同じ学校の制服を纏った女は、私の目の上のこぶ。
菖蒲沢麗華。ウェーブのかかった髪と締まりのある顔立ちをした、大手鉄道会社の社長令嬢。
中等部時代、怠惰、否、自分に無理のない範囲での地域貢献活動を目的にボランティア部を設立した私が気に食わないらしく、やたらと野次を飛ばしてくるおぞましい女。中等部時代は吹奏楽部に所属していた菖蒲沢麗華は全国大会を目指し日々修練を重ねていたものの、腕前が独り歩き、他の部員が付いてこれず湘南地区大会で敗退。
「そう、クラスメイトでありながら言葉を交わしたのは、もういつぶりでしょうか。ところで星川さん、清川さんからお伺いしたのですがあなた、絵本作家を目指していらっしゃるとか」
「え、えぇ」
あの男、余計なことを言いおって。
真幸は昨秋、我が校の文化祭を訪れ、遭遇した菖蒲沢麗華に校内を案内してもらっていた。それから、たまにメールをしているのだとか。この女だけはやめておけ清川真幸。
「そう、それはとても、素晴らしいことで」
あれ? 嫌味を言ってこない。普段は何かしらのケチをつけてくるだけに、なんだか調子が狂う。
「菖蒲沢さんは、高校では吹奏楽部には入られなかったようですけれど」
負けず嫌いのこの女のことだから、中等部での惜敗を晴らすために高校でリベンジするとばかり思っていたけれど、現在は文芸部に所属している。どうしたことか。
ということで、余計なお世話ですわ! あなたには理解できない高尚な理由がありますのよ。などの言葉を期待して挑発してみた。
「えぇ、私はどうもチームワークには向いていないようで、高校でも吹奏楽部に入部しようかと桜の散るころまで悩みましたが、吹奏楽なら個人でもできる、個人でなら、他者の技量に足を取られず高みを目指せる、そう思い至り、フルートを始めてみましたの」
「フルートを、始めた?」
「えぇ、楽器の習い事はいくつかしておりますが、フルートは未経験でしたので」
「では、なぜフルートを?」
「朝ドラのテーマ曲に、フルートで奏でられた楽曲がございまして、その澄明で、この海の彼方、空の彼方までも届きそうな音色に、すっかり魅了されまして」
そのとき私たちが乗っている列車は、よく湘南をロケ地にしたテレビ番組その他映像作品で頻繁に登場する鎌倉高校前周辺の、国道と並行して海を一望できるスポットをゆるりと走行していた。
件のテーマソングは、私も知っている。小学3年生のとき、秋から春のクールで放送されていた朝の15分ドラマ。
「けれどわたくしは、親の選んだ楽器を習うだけで、列車のようにレールを辿るしか、していなかった。吹奏楽部でも、未経験の私はフルート奏者に選ばれなかった」
まもなく列車は海を背に、峯ヶ原信号場で停止、行き違い列車を待つ。
「いつかフルートを演奏してみたい。想いを胸に秘めながら、ただ立ち止まって、分岐点があっても行き先は誰かが決めていて、レールの向こうでは誰かが道を阻んでいて」
列車はまだ、動かない。重い荷を背負って、扉を閉じたまま。
「でも、レールは、自分で敷設できる。誰も走っていない新しいレールを。なんの実力もない、ただフルートを吹きたい、それだけの私でも。そう信じて私は父に、フルートをねだってみた」
ほう、確かに稼ぎがなければ買えないから、親にねだるのは自然といえば自然か。
「けれど父は、買い与えてくださらなかった。一方で、私のフルートを吹きたい願望を、否定もしなかった。欲しいものがあるのなら、自分でお金を稼ぎなさいと。欲しいものは大概買い与えてくれた父が、私に初めて、そう言った」
「ふぅん」
とだけ、私は言った。列車はまだ動かない。きっと鎌倉からの列車も振替客で混雑し、遅れているのだろう。
「父は、わたくしを試している。最低限の小遣いしか与えられていない私が、資金を調達し、、高額な楽器を購入してまで、挑む気概があるのかと」
「それで、資金は?」
「結局、父の会社で駅務のアルバイトをしておりますわ。時給750円。部活動がある日は19時から2時間、ない日は17時から4時間、土曜日は9時から21時まで12時間。日曜日はオフ」
「そう」
なんという努力だ。私など、休日は11時まで寝て、そこからあれやこれやとあって創作は深夜からになるというのに。
菖蒲沢麗華は口先だけの人間ではない。それは心の隅で承知はしていたけれど、それに懸ける想いや、結果に結びつけるための具体的な行動を示された私は、コンプレックスを抱くと同時に、自らの内にある、いつしか小さくなっていた火種に、油を注がれた。




