朝陽がのぼるころに
僕が異変に気付いたのは、その直後だった。
夏子はふーっと大きく息を吐いて、そのまま動かなくなった。寝息はない。
「え?」
どういうことだ?
刹那に僕は、その場で固まった。
カーテンは閉め切っているが、外がみるみる明るくなってゆくのがわかった。日の出だ。しかし今は外を見ている場合ではない。
まさか、まさか、いや、そんな、うそでしょ? そんなまさか、風邪ごときで……。
僕は慌てて隣の居間へ走り、黒電話のダイヤルを回した。目の前の現実に心は追い付いていないが、からだは本能的に愛する人を救おうと動いている。
「いち、いち、きゅう」
初めて回す、その番号。額に、指先に、べっとりした汗が滲む、いやな感触。小学生のとき、誘拐しようと追い回してきた男から逃げ、自宅に駆け戻って110番をしたときより鼓動は遥かに速く、呼吸もままならない。
「こきゅ、呼吸してないんです! 彼女が、彼女が呼吸してないんです!!」
火事ですか? 救急車ですか?
それ以外、電話口のオペレーターが何を言ったかは覚えていない。
数分後、救急隊と、救急通報後すぐに電話で呼んだ町医者が駆け付けた。
診察をした医師は悲しそうに、ゆっくり首を、横に振った。
「恐らく、風邪菌が脳に回ってしまったのでしょう」
医師が力なく、僕に告げた。皺の寄った目元からは涙がこぼれ、眼は真っ赤になっていた。
「ううう……」
言葉の出ない僕はただ唇を歪め、呻いて大粒の涙を流すしかできなかった。
釣られてか、医師も眼を潤ませ、歯を食い縛り始めた。
夏子は僕にとっても大切な人だが、医師にとっても恐らく彼女が赤子のときから診てきた娘のような存在なのだろう。
大切な人が亡くなった、紛れもない事実。
昨夜からだを重ね合わせて、つい先ほどプロポーズをして、うれしそうに笑んでいた夏子。
ありえない、ありえないでしょ、こんなの。
風邪だぞ、肺炎でも癌でも白血病でもない、ただの風邪だぞ? 僕だって同じ症状を何度も患って、夏子も秋になるとよく患っていた、ただの風邪。
あの喧嘩の強い夏子が、僕のことも喧嘩屋の野郎どももボコボコの痣だらけにした夏子が、風邪なんかに負けるのかよ。
もっとほかに色々と思うべきこと、考えるべきことがあるのかもしれない。
しかしこのときは、それしか考えられなかった。




