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名もなき創作家たちの恋  作者: おじぃ
2007年8月

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多い盛り過ぎ

「いらっしゃいませ!」


 お誕生日席に座って売り子をしている角刈りのお兄さん。机には水彩画のような美少女イラストの同人誌がいくつか積んである。終了時刻30分前だからか冊数は少ない。


 セーラー服をふわっと着用している少女たちは中学生か高校生と思われる。


 背景は海だ。開放的な雰囲気ではなく、澄んだ穏やかな海でもない。南風を吸い上げ少々霞んでいるこの感じは、きっと湘南の海だ。由比ヶ浜か七里ヶ浜辺りだろう。地元の雰囲気は絵でもなんとなくわかる。


 湘南の海はイラストレーターにも人気なのか、僕は会場内でそれっぽい雰囲気の絵を他にもいくつか見かけた。


「こんにちはー!」


「こっ、こんにちはっ……」


 いつも通り、僕は緊張で声が上擦った。


「新刊2冊ください!」


「ありがとうございます! 2千円です」


 感じのいいお兄さんは笑顔で値を告げた。このイラスト集は一般的な同人誌より厚みがあり、上質紙を使用しているようだ。これで千円は安いと思う。きっと一般的な書店で売るとしたら1冊2千円か3千円はするだろう。


 僕がそそくさと財布を出そうとしている間に、凛奈が支払いを済ませた。ので僕はそのまま動作を続け千円札を一枚取り出して凛奈に差し出した。


「いいよ、私が勧めたんだから。その代わり今後とも色々よろしくね」


「というと?」


「清川くん、人脈だけは豊富だよね」


 言われてパッと浮かんだのは友恵と長沼さん、たった二人なのだが……。


「豊富かどうかは……」


 けれど三郎は店舗を手掛けるほどの絵描きで、美空だって絵本イラストならプロ級の腕前だ。しかしなぜ僕の交友関係を凛奈が知っているのか。


 いま問うのはサークルのお兄さんに失礼だから、折を見て訊いてみよう。


「それより、綺麗な絵だなぁ」


「ね、いいでしょ。清川くんはこういうのが好きかなって」


「うん」


 コミケといえば周囲のサークルのようにエロ本を売るイメージが強いけれど、この本は純朴な日常と、いつもの街を水彩画にした美術品だ。


「ありがとうございます!」


「あ、あの、もしかしてこの絵、お兄さんが?」


 てっきり売り子かと思っていた彼に、恐る恐る訊ねた。


「はい、いまはあまりこういう絵が求められない時代だと思っていたので、気に入っていただけたのならこの上なく嬉しいです」


 エロい絵が求められる時代と言いたいのかな?


「あ、はいっ、気に入りました。これ、鎌倉の海ですよね」


「はい、僕は都内に住んでいるのですが、たまに気分転換しに行くんです」


「そうなんですか。僕はこの絵の近くに住んでいるのですが、よく描かれているなと」


 上から目線な言い方になってしまったような。上手に言葉を紡げるようになりたい。


「ありがとうございます! 地元の方にそう仰っていただけるとは。あのこれ、僕の名刺です。よろしければ」


「ありがとうございます!」


 お兄さんは僕と凛奈に名刺を一枚ずつ渡した。


 サークル『フォレストウインド』、大井おおい森杉もりすぎ


 野菜がどっさり乗ったラーメンをイメージし『多い盛り過ぎ』と覚えておこう。


 逆三角形の建物を出た僕らはりんかい線で新木場しんきばに出て、京葉けいよう線で東京駅に着いた。京葉線は浦安うらやすにあるネズミの出る施設で過ごした乗客もおり、混雑していた。


 京葉地下ホームから東海道線ホームまでは約6百メートル。僕一人なら朝と同じ大崎から湘南新宿ラインを利用する断然早いルートを選ぶけれど、疲れたから東京始発の東海道線で確実に座りたい凛奈の要望でこのルートになった。


 茅ヶ崎へは来た電車に乗れば着くけれど、熱海まで行く列車は約20分間隔。1本見送り、その後17時41分発、前10両は沼津行きの2階建てグリーン車に乗った。後ろ5両は国府津こうづから御殿場線に別れる山北やまきた行き。1日1本のレアな列車。いつか廃止になりそうだ。


 4号車の端、階下席でも2階席でもないFL席の荷棚に余った同人誌を載せ、バッグは身に抱えて着席。


「ふああ、やっと座れた」


 暮れなずむ丸の内のビル群をまなかいに、凛奈が脱力した。続いて僕が通路側の席に腰を下ろした。


「おつかれさまでした」


「うん、きょうは来てくれてありがとね」


「僕は約束を守る変質者だからね」


「変質者なんかじゃないよって言えないのが心苦しいよ」


「自他ともに認める変質者だからフォローはいらないよ」


 電車が走り出し、ゆっくりとポイントを渡って大きく揺れ、やがて安定した。


 高層ビルの間に開かれた広い道路。また高層ビル、やたら眩しい有楽町を通過。


「東京って都会だよね」


「日本一の都会だね」


「なにその薄い反応」


「ときどき行くから、改めて都会だとか驚きはしない」


「そっかぁ、神奈川だとそうなのかぁ。私なんか遊びに行くっていったら三島とか沼津だから、東京は来る度に圧巻されるよ」


 熱海周辺の栄えている街といえば、三島、沼津、神奈川県の小田原。


「そうなんだ。でも僕なんか茅ヶ崎からあまり出ないよ」


「東京なんかいつでも行けるって感覚があるんでしょ」


「うん。用がないから滅多に行かないけど。でも、まぁ、コミケで東京に出るのも悪くはないかな……って思ったような」


「ふふっ、あの本、気に入ったんだね」


「ん、んん、まぁ。あと、凜奈の本も」


「ありがと。お世辞でも嬉しい」


「か、帰ったらじっくり見させてもらいます」


「うん、気合い入れて描いたからじっくり見てね!」


 東京駅から約1時間で茅ヶ崎駅に到着。じゃあね。うん、きょうはほんとにありがとねと挨拶を交わし、僕は電車が出て行くまでホームで見送った。


 日が短くなってきたなぁ。


 8月の空を背に、僕は階段を上がった。


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