254人目
これは、確率では説明できない“増えた存在”を追う物語だ。
その年の夏、田中みずきは統計学の課題に追われていた。
テーマは「誕生日のパラドックス」。
二十三人集まれば、その中の誰か二人の誕生日が一致する確率は五〇%を超える。
直感に反して跳ね上がるその数字が、みずきは好きだった。
偶然のように見えるものを、数式にすれば説明できる。
その感じが、魔法みたいだった。
レポートを書きながら、ふと自分のクラスを思い浮かべる。
三十二人。
二十三人を超えている。計算すれば、誰か二人の誕生日が一致する確率は約七五%。
四回に三回は、誰かと誰かの誕生日が重なる。
なんとなく、確かめてみたくなった。
時計を見ると、深夜の二時を回っている。
眠気覚ましのつもりで、みずきはクラスメートのSNSを調べ始めた。
最初の一致はすぐに見つかった。
佐々木と中村。どちらも四月十四日。
次に、木村と自分が同じ十一月三日生まれだと気づいた。
そこまでは、パズルのピースが綺麗にはまっていくような快感すらあった。
問題は、十七人目だった。
スクロールする指が、ぴたりと止まる。
橘さくら。
二か月前に転校してきた女子生徒。
プロフィールに表示された誕生日は、十一月三日。
みずきと、木村と、橘さくら。
三人が同じ誕生日になること自体は、あり得る。
それなのに、胸の奥に小さな違和感が残った。
毎日、教室で見かけているはずだった。
なのに、橘さくらの顔が思い出せない。
席はどこだっただろう。
どんな声だっただろう。
笑っていたことはある。
たぶん。
記憶を掴もうとすると、輪郭だけが霧の向こうへ逃げていく。
もう一度、プロフィールを見る。
「友達」の欄には、自分の名前だけがあった。
田中みずき。
いつ、友達になった?
自分のアカウントを開く。
友達リストに「橘さくら」はいない。
リロードする。
いない。
もう一度。
やはり、いない。
向こうのリストには自分がいる。
こちらのリストには、彼女がいない。
一方向だけに開いた関係だった。
みずきはスマホを伏せた。
やめようと思った。
けれど、数秒もしないうちに、また手に取った。
偶然なのか。
自分の記憶がおかしいだけなのか。
数字にすれば分かる。
そう思った。
午前三時を過ぎた頃、みずきは二十三人目のプロフィールを開いた。
藤原だった。
タイムラインの隅に、見覚えのない集合写真が一件だけ投稿されている。
教室で撮られた写真だった。
窓から差し込む西日。
黒板。
机。
笑っているクラスメートたち。
撮った記憶はない。
それでも、みずきは自分を見つけた。
最後列の端。
少し俯いて立っている。
そのすぐ隣に、女子生徒がいた。
橘さくら。
そう思った。
顔を見た瞬間、息が止まった。
目がないわけではない。
そこだけが、写真の中で不自然に潰れていた。
光も影もない。
輪郭すらない。
ただ、黒い部分だけが、妙に鮮明だった。
みずきは写真を拡大した。
黒い部分が、画面のこちら側を向いている。
その瞬間だった。
俯いていた橘の顔が、ほんの少し持ち上がった。
写真の中の誰も動いていない。
橘だけが、ゆっくりとこちらを向いた。
「あ……」
声が漏れた。
指が震える。
もう一度開こうとした瞬間、写真が消えた。
投稿そのものが消えている。
画面には、
「読み込みに失敗しました」
とだけ表示されていた。
最初から、何もなかったように。
翌朝。
学校に着いたみずきは、教室を見渡した。
橘さくらはいなかった。
担任に近づく。
「先生、橘さんは今日、欠席ですか」
「橘?」
担任は怪訝そうに眉を寄せた。
「誰だ、それ」
「橘さくらさんです。二か月前に転校してきた……」
そこまで言って、みずきは口を閉じた。
担任の顔には、本気で分からないという表情が浮かんでいた。
「このクラスは、新学期からずっと三十一人だぞ」
みずきは振り返った。
教室を見渡す。
一人。
二人。
三人。
数える。
三十一人。
空席は、どこにもない。
昨夜、SNSで確認したクラスメートは三十二人だった。
なのに今は、三十一人しかいない。
消えたのは橘さくらではない。
そう思った瞬間、背中が冷たくなった。
最初から、三十一人だったのだ。
では。
昨夜、自分が見た三十二人目は、誰だったのか。
その日の放課後。
無人の教室で、みずきはもう一度スマホを開いた。
「橘さくら」
検索結果はゼロだった。
写真もない。
アカウントもない。
名前さえ残っていない。
ネットの海から、彼女の存在だけが綺麗に消えていた。
ただ一つ。
「友達申請の履歴」だけが残っていた。
そこには、
『橘さくらさんがあなたに友達申請を送りました』
その下に日付がある。
十一月三日。
みずきの誕生日。
去年の。
指が止まった。
さらに、その下。
『承認しました』
そんな操作をした記憶はない。
みずきは机の上のノートを見た。
統計学のレポート。
余白に、自分で書いた数字がある。
「253」
二十三人から二人を選ぶ組み合わせの数。
二十三人。
誕生日のパラドックスが五〇%を超える人数。
みずきは、その数字を丸で囲んでいた。
そのすぐ下に、見覚えのない筆跡で数字が書き足されている。
「254」
みずきは息を呑んだ。
足りないのではない。
増えている。
二百五十三の組み合わせの中に、二百五十四番目がある。
そんなはずはない。
窓の外から風が吹いた。
夕暮れの校庭に目を向ける。
グラウンドの隅。
最後列の端に立つような、細い影があった。
少し俯いている。
距離がある。
顔など見えるはずがない。
なのに、分かった。
あの黒い部分が、こちらを向いている。
ポケットの中で、スマホが静かに震えた。
通知が一件。
『橘さくらさんが友達申請を送りました』
その下に、もう一行。
『共通の友達 三十一人』
みずきは画面を見つめたまま、動かなかった。
承認ボタンは表示されていない。
表示されていないのではない。
もう、押されていた。
読んでくれて、ありがとう。




