08 : 海の向こう大陸。2
紫武視点です。
つたない言葉で話されるというのは、なんだか随分と、可愛いものだ。昔を思い出して、懐かしさが込み上げる。
「ま、ほう、し?」
「そう、魔法師。わたしはね、魔法薬師、なの」
「まほ、やぁく、しゅ?」
「魔法薬師」
「まほう、やくし?」
「そうそう」
「ろぉろぉ?」
ディアルがまったく話せないというツェイルに、小日向がゆっくりと、状況や環境に少し戸惑いながら、言葉を教えている。
まるで昔の自分と小日向のようだ、と思いながら、紫武はにこにこと微笑んで眺めた。
「随分と変わったな、しの」
そう言ってきたのは、向かいの椅子に座ったサリヴァンだった。
「急な発言だね。なんのこと?」
「あんたのそんな顔は初めて見る」
「僕はいつも笑っているじゃない」
にこ、といつものように笑って見せると、サリヴァンは笑いともつかない顔をした。
「あんたはツァインとも違う。ラクとも違う。あんたのそれは……絶望を知っている笑みだ」
唐突な言葉だった。まるで逢わずにいた数年を吹き飛ばす、強い風のようだった。
だから紫武は、唇を歪めて笑う。
「そうか……僕がこの国で問題を起こしたのは、こひなを拾う前のことだものね」
「拾ったのか、あの子」
「そうだよ。六年くらい前、だね……生きていながら死んでいるようなあの子を、拾ったんだ」
「……よく殺さなかったな」
それは褒めているのか貶されているのか、どちらにせよサリヴァンにそう思わせる振る舞いをしていたのは事実だ。
「僕と同じだったから、なら僕が育てたらどうなるのかなと思って」
「あんたには似ていない」
「うん。似せたくなかったのだろうね。このところのあの子を見ていると、僕自身もそう思うよ」
「どうする気だ?」
「どうもこうも……僕があの子を連れきた時点で、わかることだろう」
「あんたな……」
げんなりとしたサリヴァンに、紫武はいつもの笑みを浮かべる。そうするとサリヴァンに手でそれを払われてしまったので、肩を竦めてから座っていた椅子を離れた。露台の窓に向かうと、サリヴァンがその意を汲んで追いかけて来てくれる。
「匿ってくれないかな、サリエ」
「いやだと言っても、聞かないだろう」
「そうだね。また拒絶されたら……僕はきみの大切な人を、人質に取るよ」
「妻と息子に手を出せば、いくらあんたでも、生かしはしないぞ」
「おや……いつのまに妻子が?」
「あんたがヴァリアスで問題を起こしたとき、妻は巻き込まれた。あんたのせいで命すら狙われた。あのとき妻は、胎に息子を宿していたんだ」
紫武がこれまでで最も大きく問題を起こしたのは、この国、ヴァリアス帝国を巻き込んでの国家間のものだ。とはいえ、それは表沙汰にされることはなかった。今隣りにいる友、サリヴァンの尽力があってのことだ。
「僕がここに来たのは拙かったかな」
「まあ……ツァインがいないことに感謝するんだな。あれは、あんたを殺そうとするぞ」
「ものすごい恨みを買ったみたいだね、僕は……で、それは誰?」
「ツェイの……妻の兄だ」
「……その、ツェイって、まさかあの子?」
ああ、と頷かれて、思わずちらりと振り返ってしまう。
まるで少年のようなツェイルが女の子であることには気づいていた紫武であるが、おそらく小日向は少年だろうと思っているあの小さく華奢な子が、サリヴァンの妻であり一児の母であろうとは、本人から教えられたことでも信じ難いことだ。
「どうしてあのとき、教えてくれなかったのかな」
「あのとき?」
「僕がこの国で問題を起こしたとき」
視線をサリヴァンに戻すと、サリヴァンは困ったように眉間に皺を寄せていた。
「……余裕がなかった」
「冷静な判断をしていたじゃない、きみは」
「正直あんたがどうなろうと知ったことではないと、そう思っていたということだ」
「あら、それはひどいね」
「あの頃はツェイを護るために必死だったんだ。今でこそ落ち着いてきてはいるが……それでも、今度は息子だ。次から次へと問題は湧き起こる……忌々しい」
吐き捨てるサリヴァンに、そういえば彼のそばに必ず控える侍従がいないのは抱えている問題ゆえのことだろうかと、紫武も腕を組んで首を傾げる。
「きみの息子に、僕は逢ってもいいかな」
「かまわないが、今ヴァリアスにいない。シェリアン公国に避難させている」
「……もしかして僕、とんでもない時期にお邪魔しちゃった?」
「もしかしなくても、そうだ。だから帰れと言ったんだ。シェリアンに避難させているとはいえ、そう長く預かってもらうわけにもいかない。名目上は遊学だからな」
同行させているツァインという、紫武に並々ならぬ憎悪を抱いた兄が帰ってくるのも、そのときだとサリヴァンは言う。
しばし考えて、紫武はにこりと笑うと頷いた。
「うん、わかった」
「……そうか」
「きみを手伝おう」
「なら帰……、なに?」
「きみには恩がある」
どうしてもサリヴァンが協力してくれないなら、脅してまでも協力を得ようと思っていた紫武だが、考えが変わった。もともとサリヴァンには恩があるのだ。返せるだけのものは差し出せない恩だ。だから、この際だから上乗せしてどこまでも迷惑をかけてやろうと諦めていたが、サリヴァンが抱えているものに干渉することでそれらをしなくていいのなら、そうしたほうがいいに決まっている。
「僕はね、ヴァリアスで問題を起こして、帰ったその足で、あの子を拾ったんだ。そうして今日、あの子をきみのところに連れてくることができた……きみが言ったように、僕は随分と変わったようだよ」
もらった恩は返せるものではないと、思っていた。それだけの大きな恩なのだ。見合うものなど紫武にはない。けれども、利用できるもの多くある。それらをサリヴァンが必要としてくれるなら、恩に報いられるかはわからないが、差し出せるものだ。
まっすぐとサリヴァンを見つめると、サリヴァンも同じように見返してくる。
「あんたを利用する気はない」
「僕がそうしたいと言っている。きみは甘んじるだけでいい」
「無理だ」
できない、と目を細めたサリヴァンは、その強い意思を紫武に伝えてくる。
ああ、相変わらず彼はお人好しなのだなぁと、紫武は笑った。
「サリエ、僕はもう、得難いものを手に入れた。それを護り続けたいと思う。きみが昔、僕にそれを見せてくれたようにね」
「ヴァリアスの、それもおれ個人の問題に、あんたは関係ない」
「あるよ。昔、救われた者のひとりだ」
「そんな憶えはない」
「こうしてきみが、僕と対等に話してくれることが、救いだったんだよ」
わからないだろうな、と思ったことは、案の定サリヴァンは理解しておらず、怪訝そうに首を傾げる。べつにわかってもらおうとは思わないので、小さく笑って肩を竦めた。
「僕を頼りなよ、サリエ。古き魔法師の記憶を持つ、この僕を」
「その記憶のせいで、あんたは苦労しただろう」
「昔は、ね。だからヴァリアスで問題を起こしたわけだけれど……今の僕は、きみと同じ想いを胸に持つ、ただの男だよ」
視線を再び小日向に向けると、ツェイルを相手に苦戦を強いられている小日向の可愛らしい姿がある。いつまででも眺めていたい光景、得難いこの至福を与えてくれる光景、出逢う前までは想像もできなかったそれらに、紫武は目を細めた。
「僕はあの子に、心の臓をあげた。あの子と命を繋げた」
「……しの、あんた」
「あの子が生きていられる世界に、僕も生きたい。そのためにはサリエ、きみという友が必要なんだよ。僕は、ふつうの人間では、ないからね」
言ってしまえばサリヴァンもふつうの人間ではないから、かわるよね。そう口にはしなくても、サリヴァンは空気を読んでくれる。
「どうしておれの周りにはこういう奴しかいないんだ……」
という、諦めの境地に至ったようなサリヴァンのため息には、仕方ないよ、と言うしかなかった。
「僕は異形だから」
きみの優しさがあったから、こういう優しい気持ちを得ることができた。この優しい気持ちで、出逢えたものがあった。
「あんたは異形じゃない」
「……優しいね、サリエ」
昔と変わらない。このお人好しな友は、いつだってどんなときだって、すべてを受け入れてしまえる寛容な心を持っている。裏を返せば、紫武よりも遥かに超えた諦めを持っている。
「おれのどこか優しいのだか……それで、匿えとはどういう意味だ」
ほら、優しい。
ほくそ笑み、紫武は閉ざされていた露台の窓を開けると、庭先にサリヴァンを促した。