07 : 海の向こう大陸。1
*『』内の言葉はヴァリアス帝国の公用語です。
それ以外は小日向や紫武の常用語です。
「は……、しの?」
「久しぶりだねえ、サリエ」
おそらく満面笑顔であろう紫武と、それを受けて微妙に顔を引き攣らせた神々しい青年。
小日向は目を擦り、神々しく見えた青年が、単に白い衣装をまとっていることによる視覚効果であることと、銀色に見えなくもない淡い金髪が眩しかっただけだと知った。しかし、それでも随分と整った容姿をしている人でもある。
「……あんた、ここがどこかわかっているのか?」
「サリエの居室」
「国境を越えた挙句に人の家の部屋まで来ておいて、それか」
「車で旅なんて面倒」
「……帰れ」
「うわひどい。遊びに来たのに」
「いいから、帰れ。今すぐ帰れ」
来たばかりだというのに、青年は紫武に渋い顔をし、座っていた椅子から立つと「帰れ」と繰り返す。確かになんの連絡もせず来た紫武の行為は失礼に値するので、言われても仕方ないことではある。
「そんなに拒絶しなくたっていいじゃないの」
「違う。あんたはディアルの人間だ。もしツァインに見つかったら……」
と、そのときだ。
小日向たちから見て真横の扉がこんこんと叩かれて、渋い顔をしていた青年がビクッと肩を震わせる。
室内の応答など無視して開かれた扉から、誰かがひょっこり顔を出した。
『サリヴァンさま、お茶の用意が……』
顔を出したのは、小柄な少年だった。さらりと流れる淡い金髪と、薄紫の双眸が印象的な、可愛らしい少年である。
しかし、小日向はその愛らしさに見惚れつつも、少年の発した言語の理解には時間を要した。
「聖国の公用語?」
小日向が住まう国、ディアル・アナクラム国で遣われている言語ではなく、海を隔てた向こう側にある大陸の公用語だ。
『ツェイか……だいじょうぶだ、彼らは敵じゃない。不法侵入者ではあるが』
ほっとした様子の青年が、小日向たちを見て驚いて警戒した少年に、笑みを浮かべながら大陸の公用語で話しかける。
そういえば青年は、紫武が国境を越えたとかなんとか、言っていたような気がする。
「紫武、ここどこ」
「ん? どこって、サリエの家」
「そうじゃなくて、ここディアル国内じゃないの?」
「違うよ。ヴァリアス帝国」
そんなあっさり言わないで欲しい。
「ヴァリアスって……向こう大陸の聖国?」
「あ、よく聖国だってわかったね」
「それくらい勉強してるよっ」
国境を越え、海の向こうにある大陸まで来ることの、どこが遊びに行く程度のものなのか。
やはり紫武の感覚はおかしいと、小日向は項垂れた。
ちなみに、ディアル・アナクラム国は、島国である。世界三大国の一つであるヴァリアス帝国とは雲泥の差がある小国で、海を間に置いてはいるが属国でもある。
だから大陸の、ヴァリアス帝国の公用語を小日向は理解できるが、言語の習得は不得意ゆえに、流暢には喋れなかった。
「しの、帰ったほうが身のためではあるが、少しならいいぞ」
少年を宥め終えたらしい青年が、ため息をつきつつも紫武に向き直った。
「しばらく逗留したいんだけど。小日向に勉強させたいし」
「勉強?」
ふと青年が、小日向を見る。
随分と透明感の強い碧色の双眸が、祖国では珍しいゆえに、少し驚いてしまった。いや、青年の髪色も、少年の瞳や髪色も、祖国にはない色なので、珍しさに魅入ってしまう。
「綺堂小日向。僕の小日向だよ。都記はわかるよね」
「ルイはわかるが……その子、あんたの?」
「そう。可愛いでしょ」
言いながら紫武は小日向の隣に並び、その両肩を掴んで前に押し出す。
「え、ちょ、紫武っ」
「ほら、ご挨拶」
「えっ」
ずずい、と青年の前に押し出されてしまう。小首を傾げた青年は、しかし次にはにこりと微笑んでくれた。
「サリエ・ヴァラディン・レイル・ヴァルハラだ。サリヴァンと呼ばれている」
そう呼んでくれ、と握手を求められては、小日向も拒否できない。
「き、綺堂小日向、です。あの、ノフィアラと」
祖国では発音できないらしい「小日向」という名なので、「ノフィアラ」というのも名乗ってみたが、青年はただにっこりと笑みを深めただけだった。
交わした握手が離れると、サリヴァンと名乗った青年は、隣に呼んだ少年に公用語でなにか囁く。小日向よりも華奢な少年は、それを聞くとすぐ、その薄紫色の双眸を小日向にまっすぐと向けてきた。
「ツェイル」
と、言って、手を差し伸べられる。
え、と思ったが、とりあえず握手を交わすと、少年は紫武にも都記にも同様の仕草をした。
「すまない、喋れないんだ。これで許してくれ」
と、サリヴァンは言う。つまり少年、おそらく名はツェイルというのだろうその子は、ディアル語がわからないのだ。
「そんなに難しくない言語だけれどなぁ。公用語がちょっと訛ったような言葉だし……あ、僕は紫武だよ。綺堂紫武。またはリアレト・ルー・ティエナ。紫武でもリアレトでも、サリエみたいにしのでも、好きなように呼んで」
「わたしは雨宮都記と申します。都記、と。或いはルイでもかまいません」
紫武はリアレト、都記はルイと、祖国では変換されているらしい。小日向はこんなところでそれを知った。
「しの、とき?」
「あ、そっち喋れるんだ? じゃあ、小日向、は?」
ツェイルの視線が、またもじっと、小日向を捉える。紫武や都記、サリヴァンのように表情があればいいのだが、ツェイルはずっと無表情なので、小日向はちょっとだけ気持ちが詰まってしまう。
しかし、愛らしい姿には心惹かれる。
「こひな?」
気持ちがますます詰まった。
「う……可愛い」
呼ばれたのは自分の名なのに、それすらも可愛いかもしれないと思えるほど、ツェイルは可愛らしかった。
「留学が希望なら兄上に学館を紹介してもらうが……それでいいのか?」
「ああいや、留学じゃなくて」
「うん?」
「ここでいろいろ勉強させてくれないかな」
「ここで……?」
ハッと、われに返る。
ツェイルに気を取られて聞き逃していたが、そういえば紫武が勝手なことを言っていたのをふたりの会話で思い出し、慌てて小日向は身体を反転させた。
「勉強ってどういうこと?」
「そのままの意味だけれど?」
「いや、説明になってないからね?」
「んー……どこから話そうかなぁ」
そんなに長い説明を求めているわけではないのだが。
「そこからもう勉強が始まってないか?」
と、サリヴァンが突っ込みをくれた。紫武はポンと両手を叩く。
「そうだね。じゃあサリエ、誰か教師つけてくれない?」
「ルイがそうだろう」
「都記もつけるけど、そっちでも」
「その前に、おれは承諾してないぞ」
「こひな、遊びながら勉強しようねっ」
「人の話を聞け、こら」
どこでも紫武の態度は変わらないのか、と思う瞬間だった。
この人、本当に王弟殿下で、魔法師なのだろうか。
けっきょく紫武は、サリヴァンがなにを言おうが聞く耳を持たず、勝手に滞在を決めてしまったのだった。