04 : まほうつかい。4
目を覚ますとそこは寝椅子の上で。
これは神経を麻痺させる薬ですから、と都記に一番初めに教えられた薬の後遺症を、頭に感じた。
「あたま、いたい……」
せっかく後遺症のない薬を開発できたのに、どうして改良前の薬品に負けなければならないのだと思った。頭痛は一時間程度で治まるが、ひどく身体が重く感じ、思考もまともに働かない。
ここはどこだろう、と思い始めたのは、視力が戻り始めた頃だった。
「起きたか、薬師」
その声に、小日向は視線を巡らせる。衣擦れの音がすると、扉が閉まる音も続き、誰かが向かいの寝椅子に腰かけた。
「……だれだ」
薬の後遺症がまだ抜けない。そのせいで身体も自由にならなくて、本当に厄介な薬を使われたものだと心で舌打ちする。
自分の今の状況はよくわからないが、薬で神経を麻痺させられ拉致されたらしいというのは、意識を手放すまでのことを憶えていたのでわかる。しかし、目の前の男は、憶えていない。というより、知らない男だ。
「余はアレム。オリアレム・ルー・アナクラム」
「アナクラム……?」
その家名には、憶えがある。
「そなたは、ノフィアラ・ルー・ティエナ……いや、綺堂小日向、であったか」
なぜ名を呼べるのだ、と小日向は瞠目し、そうしてやっと霞みが取れた目で、その男を見た。
「しのぶ……?」
紫武と同じ顔だ。
いや、髪や瞳の色はまったく違って、男は白金の髪に紺色の瞳だ。ただ、顔の造りが紫武にそっくりで、しかしそこから溢れる雰囲気は紫武とは真逆だった。
「余はあれと似ておるゆえ、見間違われることもあるが、あれとは似ても似つかぬ色だ」
見てわかろう、と男は苦笑する。
顔だけが紫武に似ているらしい男は、笑い方も紫武とは違っていた。
紫武は、終始笑顔を絶やさない。
けれども、なぜか苦笑はこぼさないおかしな男だ。困ったときは困った顔をするし、苦しいときも苦しい顔をする。滅多にそんな顔を見ないのは、終始笑っているせいだ。
しかし目の前の男は、オリアレムと名乗った男は、言ってしまえば紫武よりも表情が豊かだ。
「あなたは……」
「無理に動くな。そなたが作る薬が手に入ればよかったのだが、無理であったゆえ、こちらで用意したものを使ったのだ。しばらくは動かぬほうがよい」
拉致したくせに異様な優しさを見せるオリアレムに、小日向は眉をひそめる。なにがしたくて小日向を拉致したのか、よくわからない。
「あの、どうして、わたしを……?」
とりあえず危害を加えられることはなさそうだと、小日向は起き上ろうとしていた身体を再び横たえさせ、紫武に似た顔のオリアレムを見つめる。
「あれが、来ぬようになってな」
「あれ?」
「日に一度は顔を見ぬと、心配でならぬ。いつも言うておるのだが、最近は来ぬのだ。ならば、あれが子にしたそなたがここへ来られるようにすれば、あれも来るようになるかと思うたのだ」
あれとは、まさか、紫武のことだろうか。日に一度、という単位だけで小日向はそれを直感する。
案の定だった。
「あのねえ、アレム。それ、招待しただけだって言ったら、僕はあなたを殴りますよ?」
その声は、窓からの侵入者から発せられていた。
「やっと来たか、紫武」
オリアレムの声がパアッと明るくなったのは、紫武の登場によるものだ。
「しのぶ?」
「ああ、こひな。ごめんね、来るのが遅れちゃって」
そう言いながら、紫武は小日向が横たわっている寝椅子に駆け寄ってくる。そっと起こされて、まだふらふらするほど痛む頭に顔をしかめると、紫武を包む空気に剣呑さが交じった。
「よくも僕のこひなにひどいことしてくれたね」
「なにを言う、紫武。余は招待しただけだ」
これのどこが招待だ、と思ったのは小日向だけでなく。
「それは拉致ですよ、オリアレムさま」
紫武と一緒に来たらしい都記が、窓から侵入しながら呆れたように言った。
「おお、今日は都記も一緒か。久しぶりだな、都記」
「お久しゅうございます。しかしながら、挨拶よりも己が身をご案じくださいませ」
「うん?」
オリアレムが首を傾げたとき、それはすでに発動直前となっていた。
「僕は言いましたよね、アレム。僕を怒らせるようなことをすれば、いくら温厚な僕でも容赦はしないと」
にっこり悩殺級の美しい笑顔で、紫武はオリアレムの首周りに陣を巡らせていた。
それは初めて見る、紫武の魔法陣だった。
「……それほど、その者は大切か」
「大切かどうかの問題じゃありませんよ。こひなは、僕のものです」
「そなたがもっとも嫌悪する魔法を遣わせるほどの者ではないか」
「それくらい怒っているということですよ、アレム。まあ、今日のところは許しましょう。僕は争いに来たわけでも、ましてアレムを殺しに来たわけでもありませんからね。ただ、二度めはないと思ってください」
発動直前であった魔法が、陣が消えると同時に消失する。
直前で魔法を消失させるなど高度な技で、そこで小日向は紫武の実力を知った気がした。
「しのぶ……」
「ごめんね、こひな。ばか兄のせいで、こんなめに遭わされて……今度、きっちりお仕置きしておくからね」
「……兄?」
「母親違いだけれどね」
驚くべきことを聞いた気がするのだが、紫武があまりにもあっさりしているというか、むしろ適当な言い方をするので、あまり驚けなかった。
紫武は動けない小日向をひょいと腕に抱き上げた。
「都記、帰ろう。アレムの周りに仕掛けていた魔法は取っちゃって」
「御意」
頷いた都記に慌てたのはもちろんオリアレムだが、その声はとくに焦っていなかった。
「もう行ってしまうのか、紫武よ」
「殺されなかっただけマシだと思ってください、兄上」
「余は招待しただけだと申したであろう」
「訂正します。近いうちにその首もらいに来ますね」
にこやかに恐ろしいことを言っている。
本気の目で、冗談抜きで、恐ろしいことを言っている。
ちょっとゾッとしたが、紫武の本気を流して聞くオリアレムも相当だと思った。
「待て、紫武。余はそなたを心配して……」
「いい加減にしろよ、くそ兄貴」
ぎょっとした。
紫武の口からそんな乱暴な言葉が出てくるとは、顔と笑みが最強なだけに違和感が強過ぎる。
「これ、口が悪いぞ」
「てめぇが言わせてんだ、くそ兄貴。殺されねぇだけマシだと思え。おれのこと棚に上げてこひなに手ぇ出しやがったら、マジで殺すからな」
「そなたの子も連れて参ればよかろう。余は寛大だ」
「都記、そこのくそ兄貴殺せ」
「これ、紫武。余はそなたの兄ぞ」
「とりあえず逝っとけ?」
綺麗な笑顔で乱暴な言葉がぽんぽん出てくる。それはちょっとどころか怖くて、小日向は顔を引き攣らせながら紫武の胸元を引っ張った。
「し、しのぶ……」
「ん。だいじょうぶだよ、こひな。そこのくそ兄貴は都記が始末してくれるからね。安心して帰ろうね」
安心なぞできるか、と叫びたい。
物騒なことをぽんぽん口にしておいて、それはないだろう。
「しのぶ、帰ろう。うん、今すぐ帰ろう。わたし、おなかすいた。あたまもいたい」
「ああ、それは大変。都記、兄上のことは放っておけ。あとで殺す楽しみがある」
それも違うだろう、と叫びたいが、とりあえずこの場で惨劇が起こらないことにホッとし、小日向は紫武の胸に顔を埋める。ただでさえ頭痛がひどいのに、さらにひどくなった気がした。
このふたりは本当に兄弟なのだろうか。
「しのぶの、あの口調、なに」
「街で憶えてしまわれて」
来たときと同じように、紫武と都記は窓から再び失礼した。紫武に抱えられた小日向も、三階ほどの高さからの落下には肝が冷えたが、都記の魔法で着地の衝撃はいなされ、また空間移動魔法も併用させたようで、着地したそこは紫武の邸前だった。
「憶えたからって……ていうか、本当に兄弟なの?」
「ええ、異母兄弟ですよ」
眩暈がした。
いや、眩暈がひどくなった。
淡々と質問に答えてくれる都記の神経がわからない。
「あれが兄だなんて思いたくもないね」
「同じ顔だった」
「あんなのと一緒にしないでよ。あぁあ、マジで殺したくなってきた」
「いやいやいやいや」
「まあ、あとでちゃんと殺しに行くけれど」
「紫武!」
ああ、駄目だ。眩暈がいっそうひどい。痛みが増して意識が飛びそうだ。
「わぉ、大変。都記、中和薬ある? 早く呑ませてあげないと」
急にぐったりとなった小日向に紫武は慌てて邸に駆け込むが、頭痛の原因は確かに薬ではあっても悪化させたのは紫武だ。
「こひな、呑んで」
自室に運び込まれてから、小日向は紫武に中和薬を呑ませてもらって、寝台に深く沈むと長くため息をついた。
「で、わたし、なんで紫武のお兄さんに、拉致されたの」
「僕が行かなかったからだろうね」
「お兄さんのところに? いつ行ってたの」
「散歩のついでに」
あの定期的にいなくなっていた時間か、と思い至る。それなら、小日向の直感どおりだ。
「わたし、紫武にお兄さんがいたなんて、知らなかったけど」
「黙っていたもの」
「なんで」
「隠しようもない事実だから」
「……なにが?」
「あれが兄だということ」
意味がわからない。
顔を歪めて紫武に視線を向ければ、紫武は不貞腐れたような顔をしていた。
「嫌いなの?」
「まあ、殺したいくらいには」
ひく、と頬が引き攣る。
「本気で? 冗談抜きで?」
「いつか殺してやろうとは思っているよ」
「……うわ」
それなのに定期的に逢いに行っていたとは、もしや暗殺するために行っていたのだろうか。
「……恨んでるの?」
「いや?」
「じゃあ、なんで」
殺したいだなんて、なぜそんな簡単に言ってしまえるのだろう。
「とりあえず死んだほうがいい人間っているだろう? 兄上はそれに該当するんだよ」
「いや、それ紫武理論だから」
「僕理論じゃないよ。だって、都記だって兄上を殺したいと思っているもの」
「ぇえ? 都記さんまで?」
巻き込んだのか。紫武はそこまで都記を巻き込むのか。
と都記を不憫に思ったが、都記は笑顔で頷いた。
「とりあえず死んでおいたほうがいい人間はいますでしょう?」
この人、世界が紫武で回っている。
「都記さんまで……なんで」
「オリアレムさまが死ぬべきお人だからです」
「意味がわからないよ。なんの恨みだよ、それ」
「そうですね。わたしのこれは、確かに怨恨でしょう。紫武さまとはそこだけ意見が違います」
「……え?」
にこにこと笑って言うことではないのは先ほどから変わりないが、これほど表情と言葉に一致が見られないのはおかしい。
中和薬が効力を発揮し始めて治まりかけた頭痛を、それでも持て余しながら、小日向は不貞腐れた紫武と笑顔の都記を交互に見つめた。
そうして、不意に思い出した。
「……紫武、魔法が嫌いなの?」
「うん?」
「魔法。嫌いなの?」
紫武はオリアレムに、嫌悪する魔法を遣わせるほどの、と言われていた。
嫌いなものを遣わなければやっていられないほど、小日向を大事に思ってくれていることは嬉しい。いや、小日向は紫武のものなので、奪われていい気はしないのは当然だ。
しかしながら、紫武が嫌いなものは、魔法だという。
「嫌いだよ、魔法」
「……なんで?」
紫武の陣を初めて見た。
とても綺麗で、繊細な陣だった。
小日向の陣も完璧を誇るものではあるが、それよりももっと精密で美しい陣だった。
陣がものを囲むように変形するとは知らなかったが、あんな遣い方もあるのだろう。きっと紫武は、右に出るものがいないほど能力の高い魔法師だ。
「魔法はいいことを運んできてくれるけれど、例えばこひなとかね。それよりももっと多くのよくないことを運んでくる。だから嫌い」
「よくないことが、いっぱいあったの?」
「むしろよくないことだらけだよ」
肩を竦めて嘆息した紫武は、小日向の寝台の端に腰かけ、脚を組んだ。
「こひなが魔法師になったのはべつにいいの。それはこひなが選んだ道だし、そういう素質を活かすのは当然だもの。けれどね、僕はその魔法のせいでこひなを奪われた気分を味わったよ」
「なに、それ」
「こひなが僕にかまってくれなくなった」
「違うだろ、それ、確実に、関係ないだろ」
話を挿げ替えるなと咄嗟に突っ込みを入れるが、なぜか紫武は真剣だった。
「大いに関係あるよ。こひなは僕のものなのに、魔法のものにされちゃって。悔しいあまり、とりあえず兄上殺そうかなって、毎日様子伺いに行っていたし」
「やっぱりそうなのか!」
とりあえずで兄を殺しに行こうと考える神経が不明だ。
ちらっとしか会話しなかったが、オリアレムは紫武を心配している様子であったし、顔を見なければ安心できないというようなことを言っていた。傍から見ればそれは立派な兄、ちょっと過保護のような気もするが、それでも充分な優しさを持った兄だ。
「そこにお兄さんも関係ないだろ」
「あるよ。それくらいの殺気、兄上に向けないとやっていられない」
「……矛先おかしいよね、それ」
「あぁあぁ……こんな話しなきゃいけないなんて、やっぱり兄上殺してくればよかったなあ」
「あのねぇ……」
どうしても兄を殺したいらしい紫武に、もう呆れたため息しか出ない。
とにかく紫武は兄が嫌いで、殺してしまわなければ気が済まないのだろう。たとえそれが恨みではなくとも、それくらいには想いが強いということだ。
「都記ぃ、やっぱり兄上は殺すべきだったよぅ」
ばたん、と身体を寝台に倒した紫武が、駄々子のように唇を歪ませる。都記の笑顔は崩れない。
「今からでも殺しに行きましょうか」
「都記さん待って!」
この人は紫武で世界が回っているから要注意だ。
「こひなが外に出るようになったから、最近はまあいいかなって、兄上殺しに行く気も起きなかったのだけれど……そもそもあの顔見たくもないし」
「……同じ顔だから?」
「一緒にしないでよ」
「色が違うだけで同じ顔じゃないか」
「都記、兄上殺してきて」
「都記さん待って!」
オルレアムのことは禁句だ、と痛いほど理解できた。都記が素直に紫武の言うことを聞いてしまう。
「もう……お兄さんが嫌いなのはわかったよ」
「違う違う。殺したいの」
「いやもうわかったから」
紫武から物騒な言葉は聞きたくない。というか似合わない。ちゃらんぽらんな印象が強いだけに、切れたら怖そうだなとは思っていたが、こういう切れ方は身体に悪いだけだ。
「ねえ、紫武」
「なぁに?」
「わたしが帰ってこなくて、びっくりした?」
唐突に問うと、紫武は一瞬きょとんとした顔をして、それから顔に翳りを見せた。
「肝が冷えた」
そう言って、身体を起こして小日向に背中を向ける。声に抑揚はなく、どんな顔をしているのかもわからなくなった。
小日向は苦笑する。
「魔法薬師だから戦闘力は低いけど、それでもわたしは魔法師だ。そんなに冷や冷やするほどのことでもないだろ」
「それでも」
「……心配性だね」
「こひなは僕のものだから」
「……そうだったね」
ばふ、と再び倒れた紫武は、今度は横に倒れたので、小日向の腕にその頭が預けられた。陽光を受けないと黒く見える髪はさらさらとしていて、硬質そうな印象なのに柔らかかった。
「こひな」
「なに」
「僕の心臓で遊ばないようにしてね」
「は? なにそれ」
「僕の心臓は弱いから」
「だから、意味わかんないって」
なぜ心臓の話になるのだ。相変わらず紫武の言っていることは意味不明なことばかりで困る。
「こひな……こひな、こひなは僕のものだよ」
心臓の話が理解できたのは、このあとしばらく経ってからのことだった。