03 : まほうつかい。3
紫武が定期的に出かけていた時刻に、出かけなくなった。いや、たまに行っているようだが、行かない日が多くなったように思う。行ってもすぐに帰ってきているような気がする。
そう感じたのは、小日向がガーナムのところへ出入りするようになってからだった。
「公が、ですか?」
どうしたのだろう、と首を傾げていたところで、ちょうどアクセルが通りかかってどうしたのかと訊かれたので、小日向は紫武の行動をアクセルに聞かせた。
「いつも、毎日、同じ時間に出かけてたんだけど」
「このところ暑さが目立ってきましたし、公は夏が苦手だとおっしゃってましたから、そのせいじゃないですか?」
アクセルは、見た目はまだ十二、三の歳頃だが、実際は十五歳で、日頃からガーナムの手伝いをしているからか、口調がわりと丁寧で学識も高い。小日向の左右で色の違う瞳のことも、とくに気にした様子もなかった。
『それはあなたの個性でしょう?』
と言って、なぜ気にするのかと首を傾げたくらいだ。
「まあ、夏は確かに、ぐうたらの度がひどいけど」
「あとは、フィアさまが外へ出られる機会が多くなったから、そう感じられるのだと思いますよ」
「わたしの行動範囲が、広くなったから?」
ガーナムの診療所に出入りするようになって、一月が経つ。
ノフィアラさまとか薬師さまと呼ばれていたのは初めのうちだけで、自然と愛称がつけられ、今ではガーナムに「フィアラ」と呼ばれ、アクセルには「フィアさま」と呼ばれるようになっていた。
「フィアさま、だいぶ引き籠もりだったんでしょう? 今まで気づかなかっただけだと思いますよ」
「そう……かなぁ」
アクセルに「フィアさま」と呼ばれるのはくすぐったく、また照れくさい。友だちというのは、こういう感じなのだろうかと思った。
「おれ、公からフィアさまの話だけは聞いていたので、聞く限りじゃあそんな感じに思えます」
「え、紫武ってわたしのこと、ここで話してたの?」
「ええ、たまにいらした折に少し。まあ、まさか噂の薬師さまだとは思いませんでしたけど」
「……噂って?」
「ガーナムさんに聞いたでしょう。そういう噂です」
よく効く薬を、安価で提供してくれる変わり者の薬師。
それがガーナムから聞いた自分の噂、街での評価だ。
「ついでにいえば、まさか魔法薬師さまだとも、思いませんでしたけどね」
「ガーナムさんは、魔法薬師だってわかってたみたいだけど」
「おれは、ですよ。ガーナムさんはちょっとだけ魔法がわかるんです。けど、おれは魔法がまったく駄目なので、わからないんです。ガーナムさんだから、魔法薬師さまだってわかったんですよ」
魔法は、遣える者にしか、遣えない力だ。おいそれと、魔法がわかる、とは、遣えない者には言えない。
こうして考えてみると、小日向は自分が考えていた以上に、魔法というものが稀少だったのだとわかる。街には魔法師がおらず、いても簡単に声はかけられない。その背に背負った紋を見て、街の人は畏怖の念で見るだけだ。
「宮廷就きじゃない魔法師さまも珍しいですよ。稀少な方々ですから、ほとんど宮廷就きになるものですし」
「わたしは……まあ、国のために魔法師になろうと思ったわけでは、ないから」
「公に、魔法師になるかと訊ねられて、なったのでしょう?」
「そう。それも紫武から?」
「聞かされました。ちょっと嬉しそうでしたけれど、同じくらい悲しそうに見えましたね」
「え……?」
なぜ、と思う。
魔法師になるか、訊いたのは紫武だ。なれるものならと答えてからは、都記が次々と魔法を教えてくれた。紫武はそれを、ずっと微笑んで見ていたのだ。魔法師の証も、小日向の陣をなにになぞらえるかと考え過ぎたくらい、そして贈ってくれたときは満面笑顔の嬉しそうな顔をしていた。
「公は、フィアさまが魔法師さまになるのが、ちょっといやだったみたいですね」
「……なんで?」
「わかりませんよ。おれとしては、今こうしてフィアさまが魔法薬師さまでいてくれて、感謝してるんですから」
薬の調合は難しい。医師でも、薬に関しては専門家を欲する。だから医師と薬師にわけられているのだ。医療に携わる者としての、ガーナムやアクセルの気持ちはわかる。
つまり、問題はそこではない。
薬師は薬師でも、そこに魔法師の名が入るか否か。というところだろう。
「おーい、フィアラはまだいるかー?」
と、ガーナムの大きな声が、診療所のほうから聞こえてくる。
「いますよー。じゃあフィアさま、もうちょっとお付き合いください。ここで調合できる薬はできるだけ多めに、あとはおれが邸に伺いますから」
「わかった」
たかたかと小走りでアクセルは診療所に戻っていく。
小日向がいる場所は診療所の奥、薬を保管している部屋なので、診療所のらしくない威勢のいい人たちの声がよく聞こえる。たまにガーナムの怒鳴り声が聞こえたり、それに伴った笑い声が聞こえたり、ここはいい声がよく響いていた。
「……仕事しよ」
ふわりと窓から入ってきた心地いい風を頬に受け、小日向は微笑んで今日の残りの仕事に取りかかった。
薬の調合は難しい。
けれども、組み合わせ方と量によって効力が変化するのは、小日向には難しくもない作業だった。むしろその留まりのない範囲には興味がますます惹かれ、作業にはいつも没頭してしまう。部屋に籠りがちになるのもそのせいだ。
薬を調合したあとは、都記の策略でいつのまにか完成していた小日向の陣、魔法陣を用いて、効力の持続であったり強化であったり、調合だけではどうにもできないそれらを付加する。たまに魔法で薬草を栽培することもあるが、それはこの地方では栽培が難しいものに限る。夏が短いこの地方は、しかし春と秋が長いので、夏と冬にしか生息しない薬草を摘むのは無理があるのだ。それを魔法で補うのである。
「うん……今日は、この辺かな」
一般的に注文が多い風邪薬や痛み止めを多く調合すると、空は茜色に近づきつつあった。
夏が近づいているせいか、この頃の陽は沈むのも遅い。そろそろ夕食どきだという外の匂いが、小日向に帰宅の時刻を知らせた。
「フィアさま、お帰りですか?」
「うん。また来るよ、アクセル。ガーナムさんによろしく」
「お送りします。ちょっと待ってください」
「そんなのいいよ」
「ああ、フィアさま!」
待ってください、とアクセルが慌てているのを無視して、小日向はさっさと診療所を出た。
自分より幼いアクセルに送られるのはなんだか情けないというか、紫武だってひとりでふらふら歩いているのだから、それくらいはひとりで平気だと思うのだ。街は陽が沈めばそれなりに危険はあるが、明るいうちはその危険も少ない。
ひとり歩きができないほど幼くもないので、小日向は家路を急ぎつつ街の匂いに心を躍らせた。
「おい」
邸へ続く道へ入ったとたん、後ろから声が飛んできた。それが自分のことを呼んでいるものだとは思わなくて、小日向は声には反応せず道を進む。
「そなたのことだ、魔法薬師」
「……わたし?」
なんだ、自分を呼んでいたのか。魔法薬師なんて呼ばれ慣れていないから、わからなかった。
そう思って振り向いたら、いきなり口許に布を当てられて、それが薬品を浸みこませてあるものだと気づいたときには、もう遅かった。
「おまえがノフィアラだな」
「だ、れ……だ」
視界がぼんやりする。意識が遠のく。
まずい、そう思っても身体が言うことを聞かなかった。
「余の顔も知らぬか……まあ、そうであろうな」
薄く笑った顔がぼやけて見える。それでも、その顔が誰かに似ていると感じた。
立っていられなくなって傾いだ身体は、小日向を襲撃したその人物の腕に支えられ、そうして小日向は混乱する前に意識を手放した。