35 : 泣いてしまいたいくらい。
*紫武視点です。
ゆっくりと意識を手放して倒れるオリアレムを、ロレンスが慌てて駆け寄って支える。その意識がただ落ちただけだと知ると、深々とため息をついた。
「驚かせないでください」
そう言われたが、こうなることはロレンスも予測していたはずだ。
「これで、兄上から久遠の王の記憶は、消えたと思うよ」
「本当ですか」
「もともと、僕ほど昔の記憶を持っているようではなかったからね。その想いに引き摺られていただけだから、断ち切ってやれば、実はそんなに難しいことではなかったんだよ」
「……では、あなたは?」
「僕?」
「あなたの記憶は、消去されないのですか?」
意識のないオリアレムを、待機していた忠犬な騎士と一緒に長椅子に移動させたロレンスが、僅かに心配を滲ませて紫武を見つめてくる。
ふっと笑って、肩を竦めた。
「僕が魔法師である時点で、もう、わかるだろう?」
「……あなたは、今のまま、なのですか」
「古よりの争いだよ。この確執は、久遠の王よりも、古き魔法師のほうに強い想いが残っているんだ」
「どのような?」
「仲直りしたかったんだよ、弓狩は」
「は……?」
「喧嘩別れ、だったからね」
実はすごく単純なことだったのだと、そう教えてやれば、ロレンスは呆気に取られていた。それだけか、と言いたそうな顔は、言葉を探している。
「史実には伝えられていないけれどね、古き魔法師は、とても子どもっぽかったんだよ。いや、子どもだったのかな。久遠の王とばかみたいな喧嘩して、それで聖王を呆れさせるくらいには」
「そんな……ことが、発端だったのですか?」
「まあ命がけの喧嘩だから、そんなこと、ではないのだけれど」
「ああ、いえ、すみません。ですが……仲直りとは」
「それが久遠の王と、古き魔法師のこと。あとは……ふつうに、僕と兄上の確執だね」
なにもそれだけでオリアレムと兄弟喧嘩していたわけではない、と首を左右に振れば、思い当たることがあるロレンスは口を噤んだ。
「だから、兄上のなかにある久遠の王を、殺さなくてはならなかった。兄上が、僕のなかにある古き魔法師を殺そうとしたように」
これで漸く終わりを迎えることができる。長い、とても長い年月を久遠の王と古き魔法師に振り回されて、もうどうにもならないのだと諦めたことが、終わろうとしている。
「……あとは任せたよ、ロレンス」
「あ……どちらへ」
「帰るだけだよ、一先ずあの家に」
これで終わりなのだ。終わらせなければならないのだ。紫武はもう昔のことに振り回されたくはないし、これからを、ただの紫武として生きていきたい。オリアレムにもそうあってもらわなければならない。でなければ、この国はそう遠くない未来に、自分たちが犯した過ちを償うこともできず滅んでいく。
紫武はこれでもこの国、ディアル・アナクラムが好きだ。滅んでいいなんて思っていない。
「ああそうだ、一つ言い忘れていたよ」
部屋を出る際、紫武は一つ思い出して立ち止まると、顔だけ振り向かせる。
「なんでしょう?」
「僕、結婚するから」
「は」
「結婚するから、だからもう、僕に縁談は持ってこないでね」
よろしく、とにっこり笑えば、ロレンスも忠犬な騎士も目を真ん丸にし、言葉を失っていた。動くこともできないほど衝撃を受けたようで、返事もできないらしい。
なにか文句を言われる前に、と紫武はさっさと退散することにして、呆けているロレンスをそのまま放置して部屋を出た。とたん、大きな声で呼ばれたが、こればかりは邪魔されるわけにはいかないので、聞こえないふりをしてさっと身を翻し、いとしい小日向が待つ隣室へと走った。
「帰るよ、こひな!」
予告なく扉を開けて、紫武の言葉に未だわたわたしている小日向の腕を引っ掴むと、部屋を廊下から出るのではなく窓から、飛び降りるようにして脱出してしまう。
「ちょ、ちょっとぉ!」
「だいじょうぶだよ、ちゃんと空間移動するから」
しっかりと小日向を腕に抱き、素早く魔法陣を展開させる。着地は心配だが、まあ失敗したことはないからだいじょうぶだろう。
転移先はもちろん、長らく棲家にしている邸だ。
「い、いきなりやめてよね!」
華麗に着地を決めると、とたんに小日向から文句が飛んでくる。それに笑って、ゆっくりと腕から小日向を下ろした。
「急いで逃げないと、ロレンスが煩いからね。あの声で兄上が起きても面倒だし」
「あ、そうだよ、お兄さん! ど、どうなったの?」
「ばっちり。兄上のなかにある久遠の王を、その記憶を、ちゃんと殺してきたよ」
「え……」
わざわざ隣室に待機させて、その会話が聞こえるようにしていたのに、小日向は聞いていなかったらしい。なんのために待機していたのか、と思うが、オリアレムとの対峙の前に小日向に求婚したことを考えれば、小日向の頭がそれでいっぱいになってしまうのは容易に知れたことだ。
「殺すって……なんだ、そういうこと、だったの」
「うん? どういうことだと思っていたの?」
「いや、うん、わたしがバカだった。そうだよね、そうなんだよ、だって無意味なんだから」
よくわからないが、小日向はなにか勘違いをしていたらしい。その勘違いもわからなくはないが、言葉を間違えたつもりはない紫武だ。
「これから、どうなるの?」
「まずは、こひなの返事次第、かな」
「わたし?」
「僕と結婚してくれる?」
にこ、と笑って問えば、とたんに顔を真っ赤にする小日向だ。可愛い。
「い、いきなり、また……っ」
「いやなの?」
「ち、ちが……っ」
「なら、いいね」
可愛い小日向、とぎゅっと抱きしめると、恥ずかしがった小日向だったけれども、ちゃんと背中に腕を回してくれる。
「好きだよ、こひな。愛してる」
「……わ、わたし、も」
「うん、知ってる」
さらに深く抱きしめる腕に力を込めれば、同じ分だけ小日向も想いを寄越してくれる。
とても、幸せな気分だった。
とても、晴れやかな気持ちだった。
こんなに心がすっきりしているのは、初めてかもしれない。
「ねえ、こひな」
「ん?」
「ありがとう」
産まれて来てくれて、出逢ってくれて、選んでくれて、そばにいてくれて。
小日向がいなければ、紫武は今この幸福を得ることは、できなかった。
「わたしも……ありがとう、見つけてくれて」
紫武を見上げて笑う小日向に、溢れるのはいとしさばかりで。込み上げるのは、安らぎばかりで。
「僕のこひな……っ」
大声で泣いてしまいたいくらい、世界をいとおしく想う。