32 : 芽吹いていた感情。
*紫武視点です。
紫武にとって綺堂弓狩とは、もうひとりの自分であり、遠い過去の自分であり、よく知っている他人であり、身近な他人だった。
『……どこにいても、どこにあっても、ひとはおなじだね、しき』
『どの世界にも人間はいる、ってこと?』
『びっくりした』
『そうかな……並行世界があるって説いた学者がいたけど』
『ぱられるわーるど? ここはそうなのかな?』
『ある可能性の世界、だとすれば、ここはパラレルワールドだろうね』
『おれはこちらのせかいのじゅうにんだったのかな……このへんなちから、なんだろうね?』
『こちらの世界のおれたちと、おれたちが、トレードされたのかもね』
『んー……だとしたら、おれたちをしっているひとがいても、おかしくないよね?』
『なら、ここはパラレルワールドじゃないんだろうな。別世界、異世界ってやつだ』
『なんでおれたち、ここにきたんだろうね』
『それはおれも知りたいな』
『しきはしらないの?』
『知らないから困ってるんだけどね?』
『しきは、おれがしらないこと、たくさんしってるくせに』
『それは弓狩が引き籠りだからだよ。もっと外界に触れろ』
『なくすからいやだ』
『諦めるな』
『おれはもうにどと、たいせつなものをなくしたくない』
『……だからおまえ、おれのこと、巻き込んだよね』
『しきはおれのゆいいつのともだちだからね』
『おれの人生は弓狩に振り回される運命にあるわけか……まあ、ここまで一緒に来ちゃった時点で、それは諦めたことだけどね』
『しき』
『なに、弓狩』
『ごめんな』
『……それは、なにに対して?』
『ぜんぶ。おれ、いきること、やめたから』
『ここは死後の世界じゃないよ』
『うん。しきがいきていてくれて、よかった』
『おれは、弓狩のためには、死なないよ』
『うん、そうして』
『けど、大切なもののためには、死ぬよ。だから弓狩、せっかく生き延びて異世界なんてところに来たんだから、新しい生活をしよう』
『あたらしいせいかつ?』
『ここはおれたちが知る世界じゃない。ここからなら、やり直せるんだよ』
『やりなおしたいじんせいではないけれど』
『やり直すしかないんだよ、弓狩。ここは、知らない世界なんだから』
目を閉じれば、それだけで思い出すこともある。ふとした瞬間に、脳裏に浮かぶこともある。詳しく知ろうと思い出そうとして、どうしても思い出せないときもある。
その過去の記憶は、紫武を振り回すだけ振り回して、ひどく紫武を消耗させた。自分が誰なのかわからなくなるときもあるのだから、過去の記憶は紫武にとって、ただただ邪魔なものだった。
『弓狩』
『ん、なに、しき』
『あんまり、引きずるなよ?』
『ひきずる? なにを?』
『禍根を残すなってこと』
過去の記憶で、雨宮志木はいいことを言っていたけれども、紫武には志木が危惧した綺堂弓狩の記憶が存在した。志木はきっと、わかっていたのだろう。弓狩が、紫武の記憶のなかに確かに存在するように、そうしたことをするかもしれない可能性を、ずっと感じていたのだろう。
『弓狩、なにもかも忘れて、新しい生活をしていいんだよ』
『あたらしいせいかつはいいけど……わすれるのはいやだなぁ』
『過去に拘るのはよくない』
『こだわってるんじゃないよ。たいせつなおもいでなんだ』
『大切な思い出なら、忘れていいことは、忘れてしまえ』
『うーん……おれは、なにをわすれたらいいのかな?』
『華織は、おまえに幸せになって欲しいと、最後まで願っていた。だから、その願いを叶えるためにも、いやなことは全部、忘れてしまえばいいんだ』
紫武のなかにある弓狩の記憶に、曖昧に欠落した部分があるのは、志木の暗示があったのだろう。いやなことは忘れてしまえと言われたから、弓狩には、悲しい記憶があまりない。上手く操作されたものだなと、紫武はひっそりと笑ったものだ。
「紫武? 急にぼんやりして、どうしたの?」
「ん? んん、今ちょっと、弓狩の記憶が表に出てきてね」
「綺堂弓狩の、記憶?」
王城を包む期間限定の結界の外側で、紫武はつい今しがたまで脳裏に描かれていた弓狩の記憶に、肩を竦めた。一緒にいた小日向には、紫武が急に黙り込んだように思えたのだろうが、こうして時間を問わずに過去の記憶が外に出てくるのは今に始まったことではなく、それを小日向に語ったことはなかった。
「たまに、ふとした瞬間に、自分が弓狩と混同するときがあるんだよ」
「……綺堂弓狩の記憶のせいで?」
「生々しいからね」
「その表現はちょっと……」
「つい昨日のことのように、或いはついさっきのことのように、思い出すってこと」
「……それで、混同しちゃう?」
「そう。僕は僕のはずなのに、そのときは弓狩になってしまう……それでも、僕という意識もあるんだから、不思議だよね」
今の自分は紫武だった、と思うことはないけれども、記憶が弓狩のもので、弓狩は自分だった、という感覚がある。小日向は理解できずに顔をしかめていたが、こればかりは紫武も表現が難しくて言葉にできない。
「とにかく、僕にとって弓狩は、もうひとりの自分、近くの他人、そんな感じだってことかな」
「わたしには、前世の記憶なんて、ないからわからないけど……大変、なんだろうね、そういうの」
たくさんの記憶に振り回されて疲弊しても、それは当たり前だろう、と小日向は言った。
「僕はまあ、それで荒れた時期があるわけだからね」
僕は僕で、弓狩じゃない。
なんて、ばかみたいに抗った頃がある。当時は真剣に悩んで、どうしたらいいのかわからなくなって、自分という存在をはっきりさせようと躍起になったけれども、今では「ああそうだったな」と割り切って考えることができる。この心境の変化は、無茶をして命を危うくした経験のおかげだろうけれども、小日向に出逢ったことのほうが要因としては大きいと思う。
がりがりに痩せて、言葉も話せなくて、みすぼらしかった小日向を拾ったとき、死んだように生きているその姿が自分と重なって見えた。重なって見えたことに驚いた。
そうして、思った。
こんな生き方をするために、産まれてきたわけではない。
産まれてきた理由を、それだけに固執しては、損するばかりではないのか。
可能性は、無限大に、広がっているのではないのか。
この古い記憶は、戒めのために、残っているのではないか。
「……紫武?」
「うん……僕は、刺激的で楽しい生活より、穏やかで心優しい生活を、望むかな」
「……なんのこと?」
「こひな」
「なに」
「オリアレムと決着したら、たぶん、僕はここを離れることになると思う。爵位の返還を宣言したからね。承認されるかどうかはともかく」
場違いかというほどににっこりと笑うと、紫武の言葉に小日向はぎくりと顔を強張らせていた。
「どう、するの?」
「僕はただの魔法師になるわけだから……そうだね、医師免許でも取得して、こひなが魔法薬師みたいに、僕は魔法医師にでもなろうかな。きっとガーナムさんが雇ってくれる」
「……うん。それで?」
「それで……こひなをお嫁さんにもらおうかな」
こうしてはっきりと求めたのは、初めてかもしれない。言葉にして、望んでいることを口にするのは、これまでの人生ではなかったことかもしれない。
今さらだけれど、少しだけ、照れくさかった。
「……いま、なんて」
きょとん、としている小日向が、いとしい。それは今に始まった感情から起こるものではない。
このいとしさは、出逢ったときから、芽吹いていた。
「僕のお嫁さんに、なってくれるよね?」