31 : 天を仰いで。
古き魔法師の後世であり、稀代の魔法師がふたり、王城をぐるりと一巡りする。ところどころにある小さな魔法陣になにか細工をしているのは、どんなものであるか当人たち以外にはわからない。その作業を見守っているのも、魔法師ふたりについて来ていた魔法薬師だけだ。
「なにしたの?」
「ん、結界を壊しておいた」
「えっ?」
「新しい結界を張るには、古い結界を一度壊しておかないと、あとが面倒になるからね」
「あ、そういうことか」
広い王城を一巡りしたのは、王城を護るための結界を張り直すためであったらしい。一連の作業は移動魔法を遣っていたので、半日もかからなかった。
「さて……都記、仕官の動きはどうかな」
「王の不在にこれ幸いと、賑わっているようですね」
「うんうん、そうしているがいいよ。勘のいい仕官なら、なにが起きているのか察するだろうね。それが僕の仕業であることも、きっとわかってくれるだろうね」
満面笑顔の紫武は、小日向が思わずぞっとしてしまうほど、底意地の悪い目つきで王城を見やった。
「……なにしたの、紫武」
二度めの問いに、紫武はとてもいい笑顔を見せてくれる。結界を張り直すためだけにわざわざ王城を一巡りしたわけではなさそうだ。
「結界を張り直しただけだよ」
「それだけじゃないでしょ」
「んー……、言い方を変えようか。期間限定の結界を張り直したんだよ。もちろんその期間が終われば、また新しい結界が張られるけれどね」
「それ……期間限定って、なに」
「もちろん、兄上が帰ってくるまでの期間」
転移魔法で移動できる紫武と違って、魔法の影響力を受けない王オリアレムは、聖国までの道程に船を使っている。早くても十日、帰還には時間がかかるだろう。
「十日間でなにか起きる結界を張り直したわけ?」
「勘のいい仕官なら気づくだろうね。そして、それを嬉々として受け入れるだろうね。僕が犯人だということもわかるだろう」
「受け入れない人もいる?」
「僕が排除したい貴族だね」
ふふ、と声にも出して笑う紫武は、その姿を小日向に見せることを恐れていたくせに、とても楽しそうだ。
「少しずつ、少しずつ、徹底的に調べて目印をつけておいたんだ」
「うん、それで?」
「問題はいつその目印を使うか、だったんだよね」
「今、なわけね」
「待った甲斐があるよ」
「……だろうね」
「くふふ」
「紫武、楽しいのはわかったから」
「公けに裁かれるがいいよ」
すっと目を細めた紫武が、低い声で、呟く。
「王はひとりでいい」
それが呟かれたとたん、ぱりん、となにかが割れる小さな音がした。期間限定だという結界が、古い結界を壊した音だ。
「さあ踊れ、城に蔓延る愚か者ども」
珍しく感情の籠もった、それも憎悪の込められた左右で色の違う双眸が、笑いながらも城を睨みつける。
「この力は、おまえたちのためにあるんじゃない。護りたいものがある者たちに、捧げられるべき力だ」
紫武は魔法師だ。これまで、それらしい姿は、転移の魔法以外ろくに見せることはなかったが、それは見せたくなかったからなのかもしれない。
「夕映の悲しみを知れ」
それは、小日向も魔法師のひとりであるから、視認できる結界だった。王城を淡い光りが包み、きらきらと、傍からはただただ美しい結界だ。それを見つめる紫武と、都記だけが、表現しようのない眼で見据えている。
「なにが起きるの」
訊いても、しばらく返事がなかった。
「強欲な人間の心を明け透けにする魔法。まあ、願望を刺激するだけの、ちょっとした催眠魔法かな」
「……それって」
「今まで後ろ暗い富を築いてきた者は、たくさんいるからね」
「賢王が治める国だって言われているのに」
「だからだよ。兄上は……オリアレムは、賢王だから、多くの支持と、多くの反感を買った。オリアレムをよく思わない連中はいるんだよ、少なくてもね」
紫武を王にしようとする、そんな狸もいるのだと聞いたことがある。そして、紫武が王位を簒奪するのではと、あらぬことを吹聴する者もいたと聞く。
いつの時代も、王族の周りが勝手に争いごとを始めていた。それは紫武の場合も、例外ではなかった。
「王は確かに国の頂点にあって、賢王であればあるほどたくさんの支持を得る。けれどそれは、王を支える者たちが優秀だからこそ、いっそう際立つことだ。だから、権力は王を支える側が強いと考えたほうがいい」
「王は傀儡だって言いたいの?」
「そうじゃない。自分が王だと勘違いする者がいるということ。責任だけ王に押しつける、なんともご都合主義の偽王がね」
「……自分の権力を過信してる?」
「そういうこと。さらに言えば、それらは王の不在を好機と思って、大胆な行動に出る。僕は、それをちょっと応援してやったんだよ」
「応援?」
「あまりにも大胆な行動は、僕のように目を光らせて待ち伏せている者にとって、絶好の機会でもあるからね」
ふふ、と紫武はさらに笑う。
「過信したそれらは、僕の魔法に煽られてさらに過信し、そうと気づかずに自ら滅んでいく。まったくもって、愚かなことだよ」
自滅させる魔法とは、いったいどんなものなのか、小日向には想像しようもない。ただ、恐ろしい魔法だとは、思った。
今までそれらしい感情を見せなかった紫武が、今、殺意にも似た感情を込めて、王城を見据えている。
これが紫武の、怒りだ。
「……お兄さんを利用する人たちが、憎い?」
「憎くはない。ただ、そうだね、オリアレムを利用していいのは僕だけだ。いや、その言い方も違うかな……綺堂弓狩と雨宮志木だけに、その権限がある」
「どうして」
「国を護るために動いたのはライレン王だけじゃないから」
「……綺堂弓狩と、雨宮志木も、国を護るために動いた?」
「そう。彼らは生きるために互いを利用し合った。けれど、結果的にそれは国を護ることに繋がっていた。私腹を肥やすために利用し合ったわけじゃない」
生きたい、と少しでも願う欲はあった。けれどもそれ以外に、願ったものはなかった。生きるためだけに利用し合った。国を滅ぼすようなことは、そこにはなかった。
「今この国は、先人を侮辱している」
「侮辱……」
「国を護るために必要なのは、滅びの道を常に模索し、検討し、危惧することだ。権力はそのためにある」
間違った使い方をしている人たちが増えて困ったものだ、と紫武は口許を歪めた。
「王は国の体現者であるべきだ」
「……お兄さんは違う?」
「僕の存在が国を狂わせてしまったからね」
王族にして魔法師、しかも古き魔法師の力を持つ、王弟。それは王と魔法師の誓約を歪にしてしまった。そして、この国の中枢を担う者たちを、狂わせてしまった。
「とりあえず僕が原因であるものは、僕自身がどうにかしないとね」
「いつの時代でも偽王が存在したなら、紫武だけが原因にはならないと思うけど」
「僕は僕にできることをやるだけだよ。あと、僕自身が頷けないものは、心の安寧を得るためにも、弾劾する必要がある。自分勝手なことだけれどね」
「自分勝手なのは紫武だけじゃないよ」
「もちろん。だからこそ、この魔法は許される範囲にある」
期間だけでなく、さまざまな限定がついた新しい結界を、紫武は叩くようにして外側から触れた。
「このなかを綺麗にしてから、存分に、オリアレムを糾弾するよ。僕は綺堂弓狩であって、そうでないという、証明をするためにも」
「たった十日で、できること?」
「目印をつけてあると言っただろう? つまり、証拠は揃っているんだ。野心を応援するこの結界魔法は、けっきょくのところ、嘘がつけない状態になる。証拠が揃っていて、そこに行動と発言が伴えば、すべて包み隠さず暴くのに、十日もあれば充分だよ」
演目のために用意した舞台が開演されただけだ、と紫武は言う。
なんというか、ただの兄弟喧嘩だと思っていたものからここに至るまで、随分な遠回りをした気がしなくもない小日向だが、つまり王族とは、すべてにおいて壮大なものになるということだろう。殴り合えば翌日には仲直りして済む話も、国と国が戦争するといったようなものになるのだ。結果的にそれは国を護ることに繋がるのだから、王族とはやはり大層な生きものである。
「これからあと、どうするの?」
「様子を見ながら、呼ばれたら登城するかな。私腹を肥やしていた者たちの証拠書類は兄上の寝室に忍ばせてあるから、まあ、あとは勘のいい優秀な仕官たちがどうにかすると思うよ」
「つまり放置ですか」
「そうだね」
やるだけやって、あとは好きにしろだなんて、本当に紫武らしい自分勝手なやり方だ。
「……お兄さんは」
「ん?」
「紫武がお兄さんを護ってるって、気づくかな」
「なにそれ」
「結果的にお兄さんを護ってるんだって、紫武は気づいてる?」
「……ああ、そんな捉え方もあるのか」
「そんな捉え方って……」
「僕は、僕にとって邪魔なものを、排除するだけだからね」
あくまでもオリアレムを護るものではないと、紫武はそれを覆すつもりはないらしい。
「……お兄さんと、どう決着、つけるの」
「今のオリアレムを殺すだけだよ」
「その気持ちは変わらないの?」
「変わらないね」
「どうしても?」
「変えようがない。兄上は……オリアレムは、都記の母親を殺したんだから」
自身の母親でもあるのに、他人のように言うのは仕方のないことかもしれない。紫武にとって、母親とは、そういう存在だったのだ。けれどもそれはまるで、責任を都記に押しつけている。
「なにか、それは違う気がする」
「それ?」
「都記さんのお母さんだけれど、紫武のお母さんでもあるから」
「それは変えようのない事実だね」
「なら、都記さんに責任を押しつけるのは、おかしいよ」
「べつに押しつけているわけではないけれど」
「言い訳にしてる」
「……なら、ほかにどうすればよかったの」
ふと、紫武の声に、抑揚が消える。小日向を振り向いた紫武には、表情がなかった。
「僕が許せないのは、自分の母親を殺されたことじゃない。僕にとってあの人は母親じゃないんだから、そんなどうでもいい人をどうして僕が想う必要があるの。僕にとってあの人は、都記の母親、という価値しかないのに」
「本当にそれだけ? 紫武のお母さんでもあるってことは、変えようのない事実なのに?」
「僕を産んだ女性で母親だろうけれど、べつに僕は、産まれなくてもよかったんだよ?」
自身の存在を否定する紫武に、そういうことを言わせたいわけじゃないと、小日向は拳を握って俯く。
「わたしにとっては、紫武を産んでくれた人、だよ」
「……本当にそう思ってくれるの、こひな?」
「わたしは紫武だから生きることを選べたって、言ったでしょ。紫武がいなかったら……わたしは生きてないんだから」
紫武の存在に感謝しているからこそ、紫武という存在を世に生み出してくれた人を、小日向は想う。
同じ気持ちを紫武に求めるのは、これも押しつけで、間違いなのかもしれないけれども。
「まあ……そうだね」
ふっと息をついた紫武が、視線を結界のほうに戻した。小日向からは横顔しか見えない。
「産まれてなかったら、こひなには逢えずじまいだったんだから……僕は産まれてきてよかったと思うよ。産んでくれてありがとうって、それくらいはあのひとに言うことはできるよ。僕は今、ここにいることを悲しいとは思わないから」
困ったように歪んだその口許が、緩やかに綻ぶ。
そういえば、このところの紫武はよく、曖昧な表情を浮かべる。それまでははっきりとした感情しか表情に乗せなかったのに、誤魔化しではなく表現の仕方がわからない、というような、途方に暮れた感じの表情だ。
それは、変わった、と言えるのではないだろうか。
もしかしたら紫武は、自覚なく、変わろうとしているのだろうか。
「紫武」
「んん?」
「なにがあっても、どんなことがあっても、わたしは紫武のそばにいたいと思うよ。都記さんの手伝いをしていきたいと、思うよ」
この気持ちをどう表現すればいいのか、小日向にはまだ難しい。あと少しで答えが出そうではあるけれども、急いて答えを出してはいけない気がする。だから、小日向は今言えるだけのことを紫武に伝える。
紫武がどう変わろうとも、変わらなくとも、小日向の気持ちは変わらない。
「わたしはだいじょうぶだから、もっと、きちんと、お兄さんのことを考えて」
「放棄しているわけではないけれど」
「蔑ろにはしてるよ」
「……まあ、それは否定できないかな」
「わたしはだいじょうぶ。心配なんかしないで。もっとちゃんと、考えて」
無自覚でも変わろうとしている紫武が、どんな方法でオリアレムと決着しようとも、それは紫武の選んだことなのだから、わたしは受け入れよう。
「そう、だねえ……」
ひっそりと決意した小日向の傍らで、紫武は天を仰いで苦笑していた。