02 : まほうつかい。2
今週分の薬代金を渡していなかったからついでに、とガーナムに言われ、どうせだからこっちで買いものの使いを出しますよ、という厚意に甘えて、小日向は紫武とガーナムの家、診療所と一緒になっているところへお邪魔させてもらった。
「果物は林檎にしてくれる? あと……柘榴があったら、柘榴もお願い」
「はい、わかりました」
診療所で働く少年に買いものをしてもらうことにして、それは厚かましいとは思ったが、ガーナムの勢いに負けてしまったので、紫武が少年にそれを頼んでしまった。
「お茶でも飲んで、ゆっくりしてください。公とは久しぶりですし、薬師どのとも話したいですからな」
ガーナムがお茶の用意をしに、通された部屋から出て行くと、小日向は暢気に笑っている紫武を視界に捉えた。
「紫武」
「ん、なぁに?」
「なんで、ガーナムさんは紫武のこと、ルー・ティエナ公って呼ぶの?」
気になっていたことを問うと、紫武は誤魔化すわけでもなく、はんなりと笑った。
「それが僕の家名だからだね」
「家名って……綺堂じゃないの?」
「発音できないんだよ。綺堂って」
「え……でもわたし、昔は発音よくなかったけど、ふつうに言えたよ?」
「それはこひなに魔法師の素質があったから。ふつうはね、僕の名も家名も、発音できるものじゃないんだよ」
そうなのか、と小日向は首を傾げる。
だから小日向の名も、ノフィアラと変換されたのだろうか。
「じゃあ、公っていうのは? 紫武が貴族だっていうのはわかるけど」
「まあ貴族といえばそうかもしれないけれど、僕はそんなつもりないんだよね。ふつうの人間、ガーナムさんたちと一緒」
「でも、公って呼ばれてる。ルー・ティエナ公って」
「それはまあ……うーん。ガーナムさん、そこまでしか譲歩してくれないんだよね」
「そこまで?」
どこまであるのだ、と疑問が浮かぶ。
「たまぁに、リアレトって呼んでくれるけれど……むしろそっちでいいんだけれど、譲歩してくれないんだよねえ」
「リアレト?」
「まあ、呼び名は気にしないで。こひなだって、これからはずっとノフィアラって呼ばれちゃうわけだしね」
「……よく、わからないけど……どうして?」
「発音できないから」
それだけ、と紫武は笑う。
本当にそれだけか疑わしいところだ。帰ったら都記に訊いてみたほうがいいだろう。
話題が一段落したところで、ガーナムがお茶を運んできてくれた。
「東の珍しい茶葉が手に入りましてな」
白いカップに入れられた暖かいお茶は、見たことのない緑色のお茶だった。
「熱いうちにどうぞ。冷めちまうと色が茶になって、不味くなるんですよ」
「お茶はどれも、熱いうちが一番美味しいよ。いただきます」
「冷たいお茶も美味いもんですよ。夏になったら御馳走しましょう」
少し警戒しながら、小日向は警戒心なく口にする紫武を真似て、そろそろと緑色のお茶をいただく。少し苦かったが、薬の苦みとは違って、美味しかった。
「懐かしい味だ……」
「おや、公は飲んだことがおありで?」
「ん、まあね。母の郷里が東にあるから、その関係で」
「ほう、そうでしたか」
ガーナムが少し驚いたように頷いた。
それは小日向にとっても驚きのことで、初めて紫武が東部出身らしいと知った。
「そういえば東は、黒っぽい髪が多いと聞きます。公はそちらの出身でしたか」
「母がね。僕はこっち。東には生まれてから一度も行ったことがない。これからも行くつもりはない」
「公にもいろいろと事情がありますなぁ」
「そうでもないよ?」
ははは、と笑う紫武には、嘘が見えなかった。けれども、そこに陰りがあったのを、小日向は見逃さなかった。
それから少年が使いから戻るまでの間、小日向はガーナムとこれからの打ち合わせを、紫武はそれを聞きながら助言したり、他愛もない話をしたり、それぞれ会話を楽しみながら過ごした。
こんなにたくさん、紫武と都記以外に会話するのは初めてのことで、小日向は少し頬が熱かった。
「お使い、ありがとうね、アクセル」
「いいえ、ティエナさま。お役に立てて光栄です。これでよろしかったですか?」
「うん。アクセルは買いものが上手だね。どれも新鮮で美味しそうだ」
「ありがとうございます!」
「いい子なアクセルに、これをお小遣いにあげよう」
「え……そんな、いいですよ。おれ、買いものに行ってきただけだし」
「ガーナムさんに、アクセルの美味しい料理を食べさせてあげて」
「……、はい!」
さすがは紫武、子どもの扱いが上手い。
使いに出てもらった少年、アクセルの頭を撫でるその姿は、幼い頃自分もそうされたことを思い出させられた。
「じゃあ、またね」
「また来てくださいね、ティエナさま。ノフィアラさまも、これからよろしくお願いします」
律儀で活発で、優しいアクセルに手を振られながら、手を振り返して、ガーナムの「また逢いましょう」という言葉を背に聞きながら、小日向と紫武は岐路についた。
いつのまにか、夕日が傾く時刻になっていた。
「アクセルはね」
買ってきてもらった果物を見つめながら、紫武がそう口を開いた。
「赤ん坊の頃に、あの辺りだったかな、捨てられていた子なんだよ」
「え……」
紫武が「あの辺り」と指差したところは、小日向たち紫武の邸がある場所へ続く道の入り口だった。
「ガーナムさんと知り合ったのも、ちょうどそのときだ。僕がアクセルを見つけて、ガーナムさんもそれを見つけて、なんでか僕が怒鳴られて」
「……紫武が、あの子を捨てたと?」
「そう。僕、奥さんも子どももいないんだけれどね。違うって説明して、ここで見つけてどうしようか考えていたんだって言ったら、じゃあ自分には夫も子どももいないから自分が引き取ろうって」
「……親切な人だね」
医師だから、という理由だけで、ガーナムが孤児を拾うとは考え難い。きっとお人好しなのだ。
「紫武は、あの子を引き取る気、なかったの?」
「なかったね」
あっさりと紫武は答えた。それはちょっと、驚くことだった。
「じゃあ、なんでわたしのこと、拾ってくれたの」
赤子だったアクセルより、もっとひどい状態というか、薄汚れた近づきたくもない子どもだっただろうに、疑問だった。
「アクセルは生きることに必死で、泣いていた。けれどこひなは、ぼんやりしていたから」
「ぼんやりって……」
「生きる気力が感じられなかった。今もまだ、ちょっとそんな感じだね。だから、拾うことにした」
あの頃は、紫武に拾われた頃は、自分が生きているのか死んでいるのか、不明瞭だった。そもそもそれらがどういうことかも、よくわかっていなかったと思う。
「要らない命なら、僕がもらおうと思ってね」
「……あの子にも言えることだ」
「言えないよ。だってアクセルは命を投げ捨てていなかったもの」
「まだ赤ん坊だった」
「けれど、生きるために泣いていた」
小日向は泣いていなかった。ただぼんやりとしていた。
「ああ、そうだ。言い忘れていたけれど」
にっこりと笑った紫武が立ち止って、後ろを歩いていた小日向を振り向く。夕日を浴びた紫武は、なんだか言葉に表現できないほど、綺麗だった。
「こひなの命は、僕のものだからね」
「は……?」
いきなりなんの話だ、と小日向は目を丸くした。
「こひなを拾ったのは僕だから、当然だよね」
いったいなんの権利なのか、真剣に考えてしまった。けれども、真剣に考えたところで、小日向にその権利を否定する気は起きない。
「まあ……わたしを拾ってくれたのは、紫武だからね」
自分の命は、紫武に左右される。それは当然だと、小日向は思うのだ。それには疑問すら浮かばない。
「ん。こひなは僕のもの」
小日向の答えに勝手に満足したらしい紫武は、正面に向き直って歩を再開する。
なぜいきなりそんな話を始めたのかは疑問であったが、まあ言いたかったのだろうと片づけて、小日向も後ろを追い駆けて歩き出した。